5 【胡蝶の夢】

 REC 04


 何かが狂っている。

 それは、僕自身なのか、それとも、外界なのかは分からない。

 単純に、『忘れている』のならばまだ良かった。そこに存在していたものが、視界から消え失せる。それがこんなに不安定な感情を引き出すとは。

 僕が偶発テロ以前の記憶を有していないことは、この事態に関係があるのだろうか。

 ストレイシープと呼ばれる孤児たちは、それぞれ語るべき言葉を持っていなかった。子どもなんてそのようなものだと言われるかもしれないけれど、あの時僕たちに残されていたものは、無、だけだった。

 RECシステムの持つ膨大な蓄積データを元に、僕たちは、この世界での生き方を知っていった。僕たちに親はいないこと、RECシステムの功績、ウィザードという英雄譚、そして、受信不全という、枠外の人間がいること。

 いてもいなくても問題がないのならば、どうしてこの世界は僕を留め続けるのだろう、と考えていた。

 例え謀略の上だったとしても、三園マイから必要とされた事実は、僕の感情を微かに動かした。その三園マイが、いない? 僕よりも付き合いが長いはずの雅が、その存在を忘れることなんてあり得るのか。

 連続的な記憶が、どこかで破綻したかのように、曖昧に脳内を掻き乱す。

「アラタ……どうしたの?」

 怪訝そうに、雅は僕の顔を覗き込む。その表情は、微かに畏怖を感じているようにも見えた。

「……いや、まあ……なんというか」

 上手く言葉が続かない。当然ながら、考えが纏まらない。言いながら首元に手を触れると、官制計の埋め込まれた部分に突起を感じた。官制計は、ある。全てが変容したわけではないようだ。言い淀む僕に、雅は、

「何か……変な夢でも見たような顔してる」

 と、囁くように言った。

 言われて、はたと思い至る。

 おかしなものを見ているのは、きっと僕だけなのかもしれない。いつだって、間違っているのは僕のほうだった。

 認識の一致なんて、言葉の上の幻想で、自分が感じている壮観が、皆にとってもそうである保証なんてないのかもしれない。

 言葉やルールを、漫然と受け入れることで、世界の空気を感知するのが僕たちなのだろう。

 この状況で雅が冗談を言うはずもない。だって彼女は、この世界に必要な人間で、例え反乱を企てたとしても、ウィザードとして長らく生きてきた四ノ宮雅が、この世界の相関を見紛うとは考えにくい。いや、雅の様子からすると、ウィザードなんて言葉自体、存在しないのかもしれない。

 だとすると、狂っているのは僕だろうか。度重なる異常事態に、脳内が変になってしまったのかもしれない。見聞きした事柄さえも曖昧になるほど、僕は、疲弊していたのだろうか。

 そもそも、積極的にこの世界に関わろうとしなかった僕だ。世界のほうがこっそり仕組みを変貌させても、どこか他人事のように振る舞ってきた。それは、振る舞わざるを得なかった、とも言えるけれど、三園さんや雅と出会わなければ、今この場所にいることもなかった。

 関わろうとしたから、僕だけが世界に弾かれた? その気負いや、不慣れさが、僕の感覚を徐々に麻痺させていったのか。

 だが、一体誰が毒にも薬にもならない僕を、世界から遠ざけようとするのだ。受信不全症患者は、公共サービスは勿論、RECシステムシステムに関わる全てが使用できない。それ故に、仮にネットワークを介して悪意ある干渉を試みるものがいたとしても、僕らの脳はそのシグナルさえ感知しない。だから、今の状態は、外部干渉ではなく、内面上の問題だろう。

 言葉を発しない僕を見かねて、雅は、近くの壁にもたれ掛かる。やや間を置いて、彼女は口を開いた。

「何かが起こってるんだね?」

 彼女が見せた深刻な面持ちから感じる焦燥感は、僕には理解し難かった。恐らく雅の目に映る僕は、途轍もなく奇異な存在になっているのだと感じる。ただ、危急の状況で簡単に狼狽してしまう僕と、そんな状況でも、目の前の人間を見捨てない四ノ宮雅には、埋めがたい溝があるように思う。

「いや……きっと僕の勘違いなんだと思う。だって、雅が見てるもののほうが正しいに決まってるし……」

 言うと雅は、厳しい視線を僕に向けて、こう言った。

「……評価してくれてるのは単純に嬉しいけど、決定的な正しさなんてものはないよ。それは、私もそうだし、きっと、君が言う三園って人にも言えると思う。だから、何事も安直に思考停止するのは良くないよ」

 強引なことを言うかもしれないけどさ、と彼女は続ける。

「立場や状況がどれだけ違っても、例え役割が異なっていたとしても、この場所で生きているのなら、皆、当事者なんだよ。だから、考える義務がある。漫然と受け取れる安心なんて、一つもない」

 強く、まるで自分に言い聞かせるように雅は告げる。

 彼女の生命は、〝そのものが義務的なもの〟なのだろう。強力な圧により制限された役割は、逃れることは疎か、破壊することも叶わなかった。

 その絶対的な安定に反旗を翻すことが、いかに難解で、危険を孕んでいるのか。遠く理解の及ばない感覚を、彼女は常に抱えているのだ。

「何があったのか、教えて」

 雅はこちらに歩み寄り、微かに口元を緩める。

 彼女は、未知の現象にも、こうして穏やかな対応ができる。優劣をつけるのではなく、ただ、その場にある事実だけを睨む。目に見えるもの、見えないもの、そのどちらが世界に影響を与えていたとして、漫然と、選別する。雅はそうして、自己判断に従い、どれだけのものを得、そして、捨ててきたのだろうか。

 僕は、雅に自分の見ている世界を伝える。三園マイというウィザード、賢人会という忌むべき存在、そして、管制塔とRECシステムについて。

 黙したまま聞いていた雅は、唐突に口を開いた。

「東京エリアを統括する組織名が賢人会だというのは、私の感覚と一致しているね。あと、RECシステムの広がり方も。……だけど、私の認識ではウィザードという称号はこの世界にはないし、三園マイという人物についても、残念ながら、記憶にない」

 一つ一つ確認するように指折り数える。そして、続けて言う。

「私たちは、ここにある人物の救出に来た、っていうのもアラタの認識とは違うのかな?」

「少し、違うかな……僕は、美澄博士って人に会うためにここに来たはずだよ」

 言うと、雅は顎に手を置き、少し俯いた。

「ますますおかしいね。確かにこの中には美澄博士がいるけれど、目的は賢人会の下から彼を助けることだし」

「彼? それって誰のこと……」

「……待って」

 僕の言葉を遮った雅は、収監施設の入り口に目をやる。

「誰?」

 僕たちに向けられる声音とは異なり、冷淡さを含んだ言葉が、何もない空間に投げられる。

 朧気な灯りに照らされた収監施設の通路から、微かな足音が響き、徐々に人の影が現れる。

「誰とは、ずいぶんな言いぐさですね。四ノ宮さん」

 身構える僕たちに対し、柔和な笑みを浮かべた青年が、こちらに語りかける。その姿を見て、雅は頓狂な声を挙げた。

「高志、無事だったの」

「あれくらいの妨害で屈したりはしませんよ。ほら、僕も一応能力者ですから」

「でも、リジェクトは使用制限が……」

「ええ……ですが、博士もいるこの施設を籠絡させるわけにはいきませんからね。苦渋の選択です」

 彼女達のやり取りを横目に、僕は驚きを隠せないでいた。

 高志。七海高志。

 今となっては定かではないけれど、クラックシグナル、つまりリジェクトで他者の脳を侵害した人間。

 七海高志は、僕に振り返る。

「初めまして、と言ったほうがいいんですかね……。僕は七海高志です。二階堂アラタさん」

 奇妙な挨拶の後、七海は軽く会釈した。

「博士がおっしゃっていた通りになりましたね。四ノ宮さんと二階堂さんが、この場所を訪れる。賢人会、いえ、あの老人たちがなによりも危惧していた事柄が、今起きようとしている」

 尋常ではない空間で、七海の振る舞いは冷静そのものだった。彼の容貌は、目を惹く白い髪以外は普通の人間に見える。穏やかな語り口や、僕に向けられる優しげな眼差しは、伝え聞いていた七海高志のイメージとは大きく異なる。端的に言えば、彼から驚異を感じることはなかった。

言葉を発しない僕を一瞥して、七海が口を開く。

「立ち話もなんですので、中に入りましょうか。博士もお二人を待っていますので……それに、二階堂さんのその様子ですと、ズレが生じているようですし」

 意味深な発言の後、彼は僕たちを導くように、歩みを進める。

 僕は、収監施設前の建物に残してきたユカリと大志の身を案じつつ、彼の背中を追った。


 

 

 

「ようやく、辿り着いたんだね……こんな日が来るなんて、やはり、諦めないものだな」

 柔和な表情の男性が、僕の顔を愛おしそうに見つめる。男性は、僕と雅の前に歩み寄る。

 多くの小部屋が並ぶ廊下を抜け、通された部屋は、収監施設というより研究室と呼んだほうがしっくりくるような造りになっていた。

 多数のパソコンに、大型モニター、部屋を構成するほとんどすべてが、そのような機器でしめられている。まるで生活感のない部屋。だけど、収監施設という言葉から想像するような雑然とした雰囲気はなく、僕は、注意深く部屋を見回していた。

 先に口を開いたのは、雅だった。

「お久しぶり。美澄博士」

「大きくなったね、雅。見違えたよ」

「だってもう、十年近く会ってないんだよ。変わらなきゃ変じゃない?」

 雅のあっけらかんとした反応に、美澄博士は笑みを溢す。

「……そうだね。長いようで短い期間だったね」

 微かに言い淀んだ後、彼は僕に目線を移す。

「アラタ君も大変だっただろう? ……とは言っても、君には私が何を言っているのか分からないと思うが」

 美澄博士は、まるで僕と旧知の仲であるかのように語りかける。

「あの……」

「君の言いたいことは分かるよ」

 訝しむ僕を制して、美澄博士は言う。

「三園マイの消失、そして、管制塔消滅の事実、だろう?」

 図星かな、と美澄博士は微笑む。

「まず、三園マイは消失していない。そして、管制塔もだ。単に認識が変化しただけで、彼女も管制塔も、その役割を違えてはいない」

「認識? 僕には、美澄さんが仰っていることが理解できません」

「それは仕方ないことさ。君がこの世界の仕組みを理解しないために、彼らは面倒な策を弄したわけだからね」

「彼ら、というのは?」

「賢人会。ここから数キロ離れた場所にある、統合管制室に玉座するこの国の仮初めの王さ」

 美澄博士はあざ笑うように言った後、部屋の奥にある大型モニターの側に歩み寄る。

「今から、ある映像を観てもらいたい。そこに、君の知りたいことの多くは入っているだろう……足りない分は、後で私が補足しよう」

「あなたは、この世界の異変を理解しているんですか?」

 訊ねると、美澄博士は、静かに呟く。

「……多くの時間、いや、世界を労したからね。ここに辿り着くまで、君たちに出会うまでに、幾度も間違えてきたから」

「それは、どういう……」

「とにかく、話はこいつを観てからだ。万が一妨害が入らないために、高志が周囲を見張っている」

 そういえば、僕たちを案内してきた七海の姿が部屋の中から消えている。彼は自分のことを能力者と言っていたけれど、僕が話に聞いていた七海高志なら、多少の妨害は容易に防げそうでもある。

「雅も、一緒に観てくれるね?」

 美澄博士は、優しく雅に訊ねる。

「博士が何を言ってるのかよく分からないけど……それが必要なら、私はそれを選択する」

 雅は、射貫くような視線で美澄博士を見つめる。

「……選択か。違えたくはないな、もう……」

 重々しく、かつ途切れそうに繊細な声音で美澄博士は溢す。

 違えた選択。それは、彼自身の、だろうか。それとも、僕たちが知らず知らずのうちに犯していた間違いなのだろうか。

 認識、と美澄博士は言った。

 この世界の仕組み、そして、三園マイという象徴の不在。

 それが僕の認識下以外でも変容しているとしたら、そもそも、僕たちが見ている風景や人々は、何だと言うんだ。

 答えは、いや、答えに近づく切っ掛けは、目前のモニターに映し出されるのだろう。

 美澄博士は、仰々しい機械を慣れた手つきで操作し、そして、映像は再生される。 

 

 

 真っ暗な画面からは、悲壮的な声音の男性、と思われる音声のみが聞こえる。

 映像というより、これは音声のみの媒体と言ったほうが的確なようにも思う。

「状況は最悪だな」

 淡々とした口調で語る男性は、僕が夢の中で見た男性の声と、似ているような気がした。

「東神霞がRECシステムを稼働させた。近いうちに、〝意識の剥離〟が起きるだろう」

 男の独白は、冷静さを保とうとするがあまり、少し早口になっている。

「大半の人間の脳内で、コールドスリープと同じ現象が起きている……移行は、順調に進んでるってわけか……くそっ!」

 男が、どこかを殴る音が聞こえる。直後、か細い女性の声が介入した。

さらさん、東神研究所の方々が、表にいらっしゃってるそうですが……」

 さら、というのが男の名前なのだろう。随分女性的な名前の響きと、男の声音の荒々しさが重ならない。

「早えよ……マイの状態を見に来たんだろうが、何も変化はないって伝えとけ」

「で、でも、サンクチュアリの状態を確認したいともおっしゃってましたし……」

「生成された欠片がどうなってるか知りたいってか。過保護な親だな、東神は」

「どうされますか?」

「RECシステムの基盤を東神が握っちまった以上、ここで俺たちができることはない。……入れてやれ」

「はい。では、そのように」

 女性の足音が遠のき、ややあって更は、大きくため息を溢した。

 その後、カタカタとキーボードを操作する音が響く。平坦な機械音が、静かな室内に響いている光景が、目に浮かぶ。

「マイの分離体は今、第九層。大方の人間が現状第三層にいるとして……進みすぎだな、これは」

 取り返しがつかなくなる、と更は呟く。

「どんどん移動してる……聖域、ってのも案外大袈裟じゃねえな。人が作ったものが、人の限界を超えていく。手に負えねえ……」

 訥々と、彼の独白は続く。

「完全移行が遂行される前に、少しでも情報を残しておかねえと……RECシステムにどこまで俺の微細な情報が残るかは疑問だが」

 RECシステムは、情報の圧縮機能。人の生きた営みや、人が得た経験則を、現在生きる人々へ付与する、行動予測システム。

 そのシステムに、この更という男は、何を託したのだろう。

 彼の独白は、いつの間にか、誰かに語りかけるような口調に変わる。

「なあ、どっかで聞いてるなら……いや、いつか聞いてくれたとしたら、お前はなんて答える」

 頼りない声音。途切れ途切れの言葉で、彼は続ける。

「きっと、私が招いたことだ、とか言うんだろうな……まあ、間違っちゃいないが、それにしても、ものには使い方ってもんがあるだろうが」

 しん、とした空間の寂しげな様子が、何故だろう、手に取るように分かる。

「お前はさ、人の善意を信用しすぎなんだよ……それぞれが自分の考えで生きてる、って言ってたもんな。でもな、考えが多様化すればするほど、悪意もまた、生まれやすくなるんだからさ」

 馬鹿だよ、と吐き捨てるように更は言う。

「これから、だったんだよ。俺たちも、このシステムの本懐も、世界の再生も。未練を断ち切れない奴らの世迷い言に付き合ってやる必要なんかなかったのに……」

 繰り返し、馬鹿だ、と彼は続ける。

「RECシステムの追体験機能はさ、確かに発想としては良かったんだよな。『他者の気持ちを理解しろ』なんて、昔からいろんな奴らが物知り顔で伝えてきたんだもんな。でも、人間はそんなに簡単じゃなかった。人間を象る仕組みは、そう簡単なもんじゃない。他者の感覚が直接脳に届いてしまったら、それはただのノイズになる……それじゃもう、個人の姿はどこにもなくなる」

 これは、悲観する男の語りではなく、怨嗟に満ちた言葉のように感じる。それも、どこに向ければいいのか分からない、虚しい叫びのように受け取ってしまう。

「正の感情と同じように、負の感情も伝播する。その結果があの惨事だ。偶発テロ……いや、正義を振りかざした、粛正だ」

 聞き覚えのある言葉が更の口から溢れたとき、隣にいる雅が息を呑んだのが分かった。ただ、画面の向こうの男は、こちらの反応など露知らず、無機質な語りを続ける。

「何が一番大切か、なんて、考えなくても分かるはずだったんだ。でも、あいつらも、俺たちも、冷静じゃなかったんだな……狂気的だ。静かに、穏やかに、狂っていったんだ」

 更が吐いた大きなため息が、ざらっとしたノイズになって伝わる。

 微かに沈黙した後、彼は、重々しく話を切り出す。

「たとえ繰り返しても、同じ場所で嘆いても、留まり続ける限り、変化なんかねえよな。俺たちがどうにかしなきゃいけないのは、この世界だ。そこじゃねえ……そこじゃねえんだよ。そんな場所は、ただの夢だ。いや、区別がつかないくらいだから、胡蝶の夢だな」

 更は消え入りそうな声で言った後、

「夢は、いつか覚める。……俺たちが生きてるなら、な……」

 音声は雑音まみれになり、やがて、途切れた。

 

 収監施設内の空調が、五月蠅く耳を刺す。

 映像、いや、この音声が何を伝えようとしているのか、僕には理解出来ないでいた。隣を見ると、雅も同じ気持ちだったようで、怪訝そうに首を傾げた後、彼女は、背後に立つ美澄博士に、訊ねた。

「博士、これは何?」

 雅の問いは、僕の疑問とすることと同義だった。

 音声のみの旧式映像媒体。個人がそれぞれネットワークを介して交流ができる時代に、こんな回りくどい方法で、彼は何を伝えようとしたのか。

「これは、在るべき世界からの伝達だよ」

 美澄博士の抽象的な言い回しに、僕と雅は首を傾げる。

「我々の生みの親からの忠告、と言ったほうがいいかもしれないね」

 胡蝶の夢、と声の主、更は言っていた。

 夢と現実の境界が曖昧に感じ、見紛う現象。この伝達は、そのまま、僕たちの状況を言い表しているというのか。

「親? それに、夢? この世界が? じゃあ、更って人がいる場所が現実で、私たちは、夢の中にいるってことなの?」

 珍しく、雅が狼狽している。それは恐らく僕の感覚に近いものなのだろうと、思う。

 何かを引っ搔き回されるような、悪寒が身体を走っている。

 そんな僕の感覚を更に鋭敏にする言葉が、美澄博士の口から発せられた。

「この世界は、現実から分離した多層世界の一つだ。現実の身体と精神が分離し、精神のみがセフィロトによって作られたいくつもの世界に散らばっているといった感じだろうか。端的に言えば、この世界は現実ではない。夢のような世界だと音声の彼が言っていたのは、それだ」

 突拍子もない事実に、僕と雅は言葉を失う。そんな僕らを探るように、美澄博士は、訊ねた。

「RECシステムは、どのようなシステムだと君たちは聞いているのかな?」

 唐突な問いに、雅は怪訝そうにしつつ、答える。

「リライアブル・エントロピー・コンプレス。確実な情報量の圧縮、つまり、人間の生きてきた過程や経験則を、個人に適応できる範囲に圧縮して配信するシステム」

 教科書の内容を復習うように、雅は明瞭に伝える。

「そうだね。予測された現象に対応すべく、数多の可能性を演算したものがRECシステムの根幹だ。経験則が日々セフィロトによって更新され、個々人の官制計に必要なだけ送られる。その結果、無用な争いの仲裁はセフィロトに通じた官制計が執り行い、より情報や技術、高度な能力を求める者には、可能な限り、セフィロトからの支援が与えられる」

 幼い頃から教え込まれたシステムの概要。予測される有事に対しての、高度予防システムと言う人もいた。偶発テロ以降、目立った混乱もなく、僕らのような受信不全者の反乱もない現在では、その蓄積された情報に疑いの目を向ける人々は少ない。

 美澄博士は、続ける。

「問題は、安寧を生み出す促進シグナルではなく、制限シグナルが存在することにある」

「制限シグナルって、私たちが受けてる行動制限のこと?」

「それも一つだね。ただ、雅のような適格者以外にも、制限をかけられる人間がいる」

「……RECシステムの不適合者」

「ああ。雅はその不適合者が有無を言わさずシェルター施設へ送られる様を見たはずだ」

 博士の言葉に、雅の表情が曇っていく。

 シェルター施設。回避地に多く存在したシェルターは、RECシステムにそぐわなかった人間が眠っているというのか。

 だが、あの回避地で、雅はシェルターの存在について、『分からない』と口にしていたはずだ。それは、僕の記憶が正しければの話だが。

「不適合者を選別する作業をセフィロトが行うとは考えにくい。セフィロトは、役割を与えても、奪うことはしないとされているからね。ただ、秘密裏にシェルターに隔離された人間がいることも事実だ。そのことから鑑みて、RECシステムは、人為的に運用されている可能性が高い。……私からの便りを受けて、聡い雅はこう考えただろう。『この世界を壊さなければ』と」

 美澄博士の発言に、雅は黙って頷く。そして、「当然じゃない」と言う。

「だって、ファンクションコントロールアプリなんてもの、この世界には必要ないから。でも、博士は意味のないものなんて作らないって、私たちは知ってる。……これはきっと、私たちが、自分を取り戻すための力だって。セフィロトに繋がれた私たちが、自分の意志を取り返す方法だって、思ったの」

 美澄博士の思惑通り、四ノ宮雅は、システムの有り様に疑問を呈した。だから僕は、ここにいる。

 管理された社会、統治された世界。安寧という名の停滞。そして、思考を止めてしまったかのように、セフィロトに従う人々。

 雅が感じたであろう疑問を、僕も僅かながら抱いていた。

 この世界は、歪な優しさを与えすぎている。

 そして、その違和感は図らずも正鵠を射てしまった。

 何か、大きな力によって、僕たちの身体は制限されている。

 強い口調で告げる雅を、美澄博士は優しく見つめる。

「雅は、いつも自分に正しいね。本当に、彼女とそっくりだ……」

 博士の視線は、僕に移る。

「先に、アラタ君の疑問に答えようか」

「三園さんの記憶が雅にないこと、管制塔の消滅のことですね」

 意図の分からない映像を観たからか、幾分冷静になった僕がそう言うと、美澄博士は、

「三園マイは、現在統合管制室という賢人会の施設にいる」と告げた。

「統合管制室? それは、管制塔とは別の建物なんですか?」

「いや、管制塔の地下にある施設が管制室だ」

「でも、管制塔があった場所には、何も……」

「君と雅にだけ、ヴィジョンエラーが起こるようになっているようだね」

「それは、賢人会が僕の視覚を操作してるってことですか? 何の為に……そもそも、僕はRECシステムと繋がっていないのに」

 官制計と脳がリンクしている市民達なら、メインコンピュータのセフィロトを操作して、誤った視覚情報を送信することは可能かもしれない。

 だけど、僕にはその操作は行えないはずだろう。

「確かに、受信不全者のアラタ君には本来、セフィロトからの情報は届かない。だが、それを起動させたことにより、断片的にではあるが、セフィロトからの干渉を受けてしまうようになったんだろう」

 博士は、僕のDDを指さし、続ける。

「リジェクトを持つ君や高志を、管制塔に近づけたくない理由ができたんだろう。まあ、雅にまでエラーが生じている原因は分からないが」

「三園さんが管制室にいるっていうのと関係があるんですか?」

「三園マイ……彼女がこの世界の異端になってしまう前に、完全に消去することが賢人会の目的だ」

 漠然とした説明に、雅が口を挟む。

「博士が言ってる意味が分からない。私や三園って人もそうだけど、アラタまでを特別視する意味が分からないし、音声の男が言ってた、夢の説明も聞いてない……根本的な問題は、一体何なの?」

 雅のハキハキとした言い口に、美澄博士は、「回りくどい話をするのは私の悪い癖だね」と自嘲した後、

「更くんの世界で生み出されたRECシステムを使い、全人類の意識を多層世界に移行させる計画が行われた……と予想している」

「予想? それって博士にも分からないってこと?」

「ああ。あくまで様々な仮説を積み上げた結果だということを留意して聞いてもらいたい」

 ハッキリとしない物言いで、美澄博士は言葉を継ぐ。

「私が立てた仮説では、多層世界には様々な人間の意識が分割され、散らばっていると考える。セフィロトがどれほどのコピーワールドを形成しているかは分からないが、私の経験上、一〇の世界に、多くの人間の意識が彷徨っている」

 まだ、ここが現実でないという事実を受け止められていない状況で、より混乱する話だ。

 コピーワールド。過去にあった仮想現実装置は、架空の世界を体感するものだと聞いたことがある。肉体は現実に、精神は仮想世界に。その分離が、今、僕らの身に起こっているということだろうか。

「そして、賢人会はその多層世界全てに干渉する権利を有している、と仮定する。すると、三園マイ、そして、アラタくんを特別視する理由も自ずと見えてくる」

「アラタと三園って人も、干渉権を持ってるってこと?」

「そういうことだね。……それにしても雅、君は冷静だな」

 次々に語られる事実を前に、雅の双眸は揺れることなく美澄博士に向けられている。初めて会ったあの校長室で、僕が見た彼女の眼差しとそれは重なる。ただ、博士の話を聞いた後では、その所感もあやふやに感じてしまう。

 あの時見た雅と、目前の雅は、もしかすると別人なのかもしれない。

「じたばたしても仕方ないでしょ。ここが現実じゃないとか、正直ビックリはしたけど、夢みたいな世界なんだとしたら、いろいろ合点がいくし。とにかく、何をどうすればいいのか、それが分からないままじゃ、暢気に驚いてる暇ないから」

 雅はいつだってこうだ。不慮の事態を常に過去に追いやり、改善策を即座に模索する。

「どの世界でも、君は変わらんな。……少し安心するよ」

「何言ってんの博士。人はそんな簡単に変わらないよ」

 雅は、あっけらかんと言う。そして、博士に訊ね直す。

「意識が散らばってるってことは、ここと似た世界がいくつもあるってことだよね?」

「そうだ。それも、起きる現象に大差がない世界がいくつもある」

「じゃあ、私たちもその一つってことだね……もしかして、私と三園って人が知り合いだった世界もあるんじゃない?」

「その記憶があるのかい?」

「いや、全く。でも、さっき三園さんのことについて、アラタが私に『ウィザードとして管制塔を守る仲間』的なことを言ってたし、そういう世界もあったのかな、って」

 雅の発言に驚いたのは、博士だけではなく、僕もだった。

 状況を受け入れるスピードもそうだが、ただ困惑していた僕と違い、雅は確実に現状を考察しようと目を配っている。

「でも、そうなるとアラタだけが三園さんを知ってる理由が分からない……」

 考え込む雅に、美澄博士が助け船を出す。

「アラタ君は多層世界の干渉権を有している。つまり、別の世界の記憶もそのまま残している可能性があるんだよ」

 自分の話をされているのに、どうも自覚がない。雅と共に来てからというもの、多くの問題にぶつかり、多少なり耐性ができたと自負していたが、これは想定を大きく超えている。

「私の計算では、この世界は四番目のサンクチュアリだと考えられる。ウィザードという役割が消え、そして、高志がリジェクトによる人体破壊を行わなかった世界。故に、彼は賢人会に拘束されることなく、私の下にいる」

 博士は何を言っているのだろう。彼の言葉は、ふわふわと宙を舞うように取り留めなく、僕の意識に触れてこない。

「アラタ君」

 ぼんやりと宙を見上げる僕に、美澄博士が呼びかける。

「賢人会、いや、東神霞という男が、多数のコピーワールドを致命的なズレが生じないように分割整理した。現実、と呼ばれる場所からの転送先として、一〇の世界にそれぞれの個体意識を強制転入させたんだ。この一〇の世界は、限りなく小さな差違のみで運用され、起こりうる現象にも、大差は無い。故に、例え隣の世界を覗いたとしても、その誤差に気づくことは難しい」

 博士の目は、僕を掴んで離さない。

「東神は、危険因子とされた人間にのみ、共有意識、つまり、『全ての世界で同時に存在する個体』としての措置をとった」

 高校にいた僕。三園マイに出会った僕。四ノ宮雅に付き従った僕。

 その全ての感覚が、曖昧にぼやけていく。

 あれは全て、僕ではなかったのかもしれない。

「君が世界を破壊しないために、君が世界を拒絶しないために、多数の世界で同時に劣等感を纏った二階堂アラタという存在を作ったんだ。周囲の行動は変化せず、二階堂アラタの意識が、一〇の世界を彷徨うように、東神は画策した。君が、いや、『君の本懐が』達成されないようにするために」

 明瞭に言葉を継ぐ美澄博士を遮り、僕は声を荒げた。

「何を言ってるんですか? ……あれですよね、それも、憶測、って、やつですよね? だって僕は、ずっとこの世界にいて、ずっとここで生きて……」

 訳が分からなかった。冷静に、落ち着いて、と念じる度に、僕の身体に蓄積された違和感の根源が、溢れそうになっていく。

 偶発テロ以前の記憶喪失。コールドスリープ内で眠る人々への、奇妙なシンパシー。ファンクションコントロールという、必要がないはずのカウンターの存在。他者との認識の相違。そして、在るべき世界からの伝達。

 その全ては些末な事象と切り捨てても何ら問題がないと思っていた。だけど、あまりに細やかな美澄博士の弁に、僕はその全ての関連性を疑えずにいた。

 取り乱す僕を見て、美澄博士は言葉を選ぶように続けた。

「混乱するのも無理はないよ。私も、ファンクションコントロールがなければこの事実に辿り着くことはなかっただろう。この完全にコントロールされた世界に、違和感を覚えることはなかっただろう」

 僕の肩に手を置き、優しく語りかける博士に、雅が訊ねる。

「本当にここは、現実じゃないのね?」

 端的な質問。雅らしい、有無を言わさぬ態度で投げかけられた問いに、美澄博士は一呼吸置いて、こう答えた。

「そうだ。ここは意識の世界だ。スピリチュアルな言い方をすれば、魂だけの世界とも言えるね」

「魂……それって、私たちは死んでるのと同じってこと?」

「少し違うかな。死よりは近く、生よりは遠い。現実世界を諦めた者が作り出した、再生を求める聖域だよ」

「じゃあ、私たちの本体は、今も現実に取り残されてるってこと?」

「自ずとそうなるだろうね。情報を抜き取られた個体が、今も生活していると考えられる」

「そんな状態で、生活が?」

「ルーティンを行えるくらいの情報を、向こうに残してあるんだろうさ。賢人会としても、元の殻を無くしてしまっては意味がないだろうからね。……感情を欠落させて、ただ作業的に日常を生きる我々が、あちらの世界にはいるんだろうね」

 どこか他人事のように語る博士を見て、僕は思い至る。

 きっと、彼もこの事実を受け入れ難く思っているのだろう、と。

「RECシステムとはね、向こうの私たちの情報を蓄積し、それを元に新たな仮想世界を構築する、『追体験』システムなんだよ。もしも、の世界。そうではなかった世界」

 情報を身体から抜き取り、別の意識を生み出す。それが如何に荒唐無稽で、危険な試みなのかは、目に見えていたはずなのに。

 それでも、それを実行した人間がいるから、僕たちはここにいるのか。

 沈黙する僕と雅を一瞥して、美澄博士は、さて、と間を置き、

「突然だが、アラタ君のDDに蓄積された脳内情報を、ここで抽出させてくれないだろうか?」

「僕の、情報?」

「ディスチャージデバイスを制作した理由は二つある。一つは、賢人会によって遮断された君の能力を開放、増大させ、世界を横断する速度を速めること。私たちが出会えた、ということは、その計画は成功したといっていい」

「速度、って……」

「言葉の通りさ。本来なら、生まれてから死ぬまで、一つの世界から逃れることはできない。だが、君の場合、僅かな期間に意識が多数の世界をランダムで移動してしまう。だが、君にその自覚はない。だから、その移動をコントロールできないかと考えたんだ」

「そんな事可能なんですか?」

「可能性は低かったけどね。というのも、私たちからは別世界の記憶が消えてしまう故、相互干渉することは、この世界の私たちの有り様を変容させてしまう恐れがあった」

 雲を掴むような話だが、美澄博士の語る言葉には、妙な説得力を感じる。

「だから、私は官制計と別種のシグナル構成を行うDDを制作し、君が世界間の移動を行った際に、別世界の情報を持ち込めるように計らったんだ」

「僕が別世界の情報を、この世界に振りまいている、ってことですか?」

「少なくとも、私の官制計には、君からの別世界情報が送信されている。その結果、私は別世界の有り様と、あちらの私が行おうとしていた試みを知ることができた」

 身に覚えのないところで、随分と緻密な試みに参加していた。その試みが具体的にどのようなものなのか、博士が何を考えているのかさえ、上手く僕には伝わらない。

「更くん……映像の彼が仕組んだファンクションコントロールを、数々の世界の私が改良し、力を失っていた君に拒絶の意思を取り戻してもらうのが目的だった。この、手厚く守られた世界を破壊するための、必要因子として」

 ディスチャージデバイスは、必要とされなかった僕に力をくれるものだと、世界を守る力を与えるものだと思っていた。

 その力がまさか、世界から逸脱するための力だったなんて。

「そして、DD制作のもう一つの理由は、皆の意識を……」

 博士が説明を続ける最中、僕の耳元で、けたたましいサイレンが鳴り始めた。

「なんだ、これ……」

 確かに発したはずの自分の声が、遠く掠れて聞こえてくる。

 ややあって、どこかで耳にしたような無感情な声が脳内に響いた。


 ――コンパウンドシグナルを感知。強制移行に移ります。

 

 博士の声を遮るように鳴り続けるサイレンの中で、機械的な音声が、繰り返し、強制移行、と告げる。

「な、に……これ……」

 雅が呻く声がする。だが、僕はすでに彼女のほうを見る余裕さえなくなっていた。

「連れていくつもり、か、彼らを……」

 博士の悲壮的な声が遠く感じる。五感全てを遮る膜のような存在が現れる。

 直後、ぶつり、と視界が暗転し、僕の世界は完全に静止した。

 

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