6 【コンパウンド・アルカディア】

 REC ×××


 雲の上に立ったとしたら、こんな感覚なんだろうな、と考えていた。きっと、混乱の極みに立った人間は、穏やかな感情に支配されて、こんな風に、思考が停止するのかもしれない。

 視界から光が奪われて数秒後に、僕は整然とした空間に立ち尽くしていた。

 膝元まで吹き上がる霧に包まれ、周辺からは物音一つしない。目を凝らせども果ては見えず、空と呼べるはずの場所も、足下と同じく深い霧に包まれて閉塞的に僕を見下ろしている。

 声を出そうと思えば出せるのだろうが、それを行おうとどうしても思えない。

 そもそも、五感が上手く働かない。指先はかじかみ、身体には微かな倦怠感がある。

 声を溢せば、この空間そのものが壊れてしまうような、この静寂が崩れていくような気がした。

 喧噪からはぐれたような、寂しげな風景。だけど、どこか安心感を覚える空間に、それまでの世界が消え失せたような、奇妙な感覚に陥る。

 正直なところ、気分は悪くなかった。寧ろ、美澄博士から伝えられた事実のほうが僕の感情を刺激したし、一度現実ではないと知らされてしまった以上、漠然と、『何が起こっても不思議ではない』という耐性ができてしまったのかもしれない。

「君が、二階堂アラタくんだね」

 男のものと思われる声が、僕の背後から聞こえた。

 恐る恐る振り返ると、痩身の男が僕を見据え、立っていた。

「あなたは……いや、それよりここはどこです? 今の今まで僕は美澄博士と……」

 美澄博士の姿も、そして、雅の姿も、僕の眼前から消え失せた。風景の変容よりも、そのことのほうが僕の心を乱している。

 そんな僕の心根を見透かすように、男は告げる。

「ああ。雅くんなら、こちらに招いているよ。シガ……いや、美澄くんに関しては、あちらにいてもらったほうが好都合だからね」

 男は虚ろな眼差しをこちらに向け、「私は、東神霞とうがみかすみというものだ」と、名乗った。

 東神は、穏やかな表情で、僕に語りかける。

「ここは、静かだな。やはり、雑然した情報に囲まれた世界とはまるで違う。君も、そう思わないか?」

 些か静かすぎる、とも思ったが、確かに、穏やかで、身体の感覚を奪われるような場所だとも思う。

 黙る僕を余所に、東神は、独りごちるように語る。

「いくつもの世界を通過しても、人と人が感覚を共有して尚、争いや病みは途絶えないのだから、我々は本当に難儀な生き物なんだと思うよ」

 東神が微かに微笑む姿は、この世界の生き物ではないのではないか、と錯覚させるほど柔和で、かつ狂気に満ちている。

「あなたが、この多層世界を牛耳っている人ですか?」

「牛耳る、とは聞こえが悪いな。飽くまで私は、調整役だよ。主立った運用は、セフィロトの意思によるものだ」

「セフィロトは、ただのコンピュータじゃないですか」

 吐き捨てるように言った僕に対し、東神は静かに告げる。

「このような異世界を創造できる存在が、ただのコンピュータだと思うかね?」

「どういう意味ですか?」

「ここは、セフィロトの中だ。君と私は今、セフィロトの深層部に精神のみを抽出されているんだよ」

 彼の言葉の真意が理解出来ない。

 僕たちは既に、精神のみを抽出され、現実を離れていると美澄博士は言っていた。ならば、その精神から離れた今の僕は、一体何だというのか。

 この空間からは、生命の息吹を感じない。五感は曖昧に、外界は音をなくし、そして、自然的な営みすら消えてしまったように思う。

 そんな整然とした場所を、自分が乱しているような錯覚すらある。

「混乱するのも無理はない。美澄くんが色々と画策していたようだからね。……ここは、セフィロトが人間の精神を細部まで分解し、その深層のみを呼び出している。だから、多層世界にいる君たちより深く、君たちの本質に近い構造を持っている、というべきか」

「そんなこと、可能なんですか?」

「セフィロトに不可能はない」

 東神の厳しい視線が僕に突き刺さる。

 しかし、と東神は続ける。

「更くんの画策には困ったものだ。悪あがきにしても、やり過ぎだ」

 更、というのは、音声の男性のことだろうか。そういえば、東神という名があの音声の中にあった気がする。

「君は……本当に何も知らないのかね?」

 探るような目つきで、東神は僕を見据える。

「……あなたたちの言う〝何か〟については恐らく」

「そうか。無理もないか。君と更くんを繋ぐ痕跡は、殆どセフィロトが消去してしまったからな。元は同一個体であった記憶がないのも当然だ」

 僕と、更? 何故音声の彼と、僕が繋がっているという話になるのか。

「その様子だと、美澄くんは教えてくれなかったのかな?」

 東神は僕を探るような目つきで見やる。

「美澄博士が言っていたのは、多層世界のこと、あなたたちの存在、そして、僕と……三園さんが、特殊な環境下に置かれているってことです」

「そうか。流石の美澄くんでも、本質までは辿りつけなかったというわけか……まあ、いいだろう」

 今から知ることになる、と仰々しい言い口で東神は告げる。

「君は何故こんな世界が生み出されたと考える?」

「それは……現実の世界で、混乱が起きたから、ですか……?」

「大まかには正解だ。だが、その答えではあまりに抽象的だな」

 そう言うと、東神は歩みを進め、僕に近づく。

「見せてあげよう。私たちが体験した、絶望を」

 東神が、僕の頭に手を置いた。

「本当はこんな動作は必要ないんだが、セフィロトに合図を送らなければならないからね」

 意味の分からないことを言う。

 ずっとそうだ。この人の発言には何一つつ掴み所がない。

「さあ、始まるよ」

 東神の輪郭がぼやけていく。

 まただ。意識が遠く、何かに導かれる。

 その先に見えるものはきっと、僕の想定を容易に超える世界なのだろうと、何故か考えてしまった。



 静かな部屋に響くのは、空調機のファンが回転する音だけだった。

 僕の視界に映し出された光景は、いつかの夢で見たものと重なった。そっくりだ、と思う。そして、この主観と客観が曖昧になる感じも。

「更くん。また、セラピー患者が増えたようだね」

 僕、いや、これは更の視点か。東神の話では、僕と更は同一人物だという。にわかに信じられないが、この奇妙な視界を覗かされては、信用せざるを得ないのかもしれない。

 更の視点を介した僕は、語りかける男性の顔を見て驚く。

 そこにいたのは、先ほどまで顔を合わせていた美澄博士だった。

 僕の驚きに構わず、更は口を開く。なるほど、ここは僕の意思決定の及ばない世界なのか、と理解する。

「ですね。今年に入ってもう百件を超えてます。……まあ、RECの影響がここまでとは思いませんでした。力不足で申し訳ないです」

 更は力なく項垂れる。

「いや、君だけの責任ではないよ。マイが〝あのようなこと〟になっているのも、我々だけの責任とは言えない」

「マイの様子は、どうです?」

「相変わらず、安定はしていないね。東神のところの息子さんもセラピー入りしたようだし……やはり、あれを覗いた人間は一様に脳神経に何らかのダメージを受けるようだね」

「東神さんに言わせれば、『進化』だそうですけど」

 更は、吐き捨てるように言い、溜息を吐いた。

 僕は、更の背後に付きまとう霊のように、彼の視点を追体験しているのだろう。この感覚は、夢を見ている感覚に近い。

『どうだい? 元居た世界の光景は』

 耳元で囁くように、東神の声がする。

『これは……セフィロトが見せているんですか?』

『そうだ。更くんが見た世界。つまり、君が見た世界の記憶を、セフィロトが呼び起こしているんだ』

 東神は、僕に何を与えようとしているのか。彼の真意が測れず、僕は混沌とした気持ちを抱えたまま、元居た世界、という場所を静観する。

 更は、美澄博士に訊ねる。

「先生、俺たちの行為は間違いだったんでしょうか? ……人の意識を分離させて、仮想的な追体験をするという行為は」

 彼の言っているのは、RECシステムについてなのだろう。そして、間違いというのはきっと多層世界と、僕たちのことだ。

 美澄博士は穏やかな表情で更に語りかける。

「それは、私にも判断できないことだよ。だけど、まだ正否を判断するには早計かな」

「どういうことです?」

「君と彼女がサンプリングした分離体は十体だったよね」

「はい。一から十の番号を冠した俺たちの意識の分離体」

「今、その分離体たちは、セフィロトの構成した多層世界に散らばっている。現状の問題は、その分離体と現実の君たち、いや、我々も含めた人間の意識が混合され、セフィロトの構成世界に取り込まれる可能性があるということだね」

「そうです。……既に、あいつと東神凍耶の意識は、向こう側に浸食されつつあります」

 美澄博士は、一呼吸置いて、告げる。

「……取り戻す方法はある。私がRECシステム対策に製作したプログラム、ファンクションコントロール。分離した個人の意識を現実に統一するための対立システムだ」

「それは、あいつをこの世界に引き戻せる効能があるんですか?」

「現段階では、未知数としか言えないかな。RECシステム同様、鬼が出るか蛇が出るか……」

「……使用することは難しそうですね」

「限界まで可能性を高めようとは思う。……いつまで私たちが正気でいられるかはわからないからね」

「セフィロトは、シグナル発信を止めませんから……このままだといずれ、俺たちの脳もあちらに持っていかれる」

 僕が見せられているのは、過去の映像だ。いや、正確な時間軸など分からないが、僕は確かに、この光景を見たことがあるという実感があった。

 美澄博士は、顔色を曇らせ、告げる。

「……マイは、彼女を見つけようとしているのだろうか?」

 彼女とは、誰を指すのか。僕の考えに反して、更は重々しく答える。

「モニタリングしている限りでは……いえ、一度も会えてはいないでしょうね。そもそも、思考回路が正しく機能している保証もない」

「彼女の反応は、相変わらず、といった感じか……」

「はい。セフィロトが生成したサンクチュアリが生まれて数ヶ月ですが、一度も観測できていません」

 更は、項垂れ、そして、頼りなく呟いた。

「あいつは、大切なものを取り返す、と言ってサンクチュアリに意識を預けました。けど、俺はそれを眺めているだけだ。博士が策を講じている間も、こうしてモニターを観察していることしかできない。……嫌になりますよ。人事じゃないってのに」

「君には、君の役割がある。いずれ、時が来たら、君に任せたいことが――」

 美澄博士の発言は途中で途切れ、僕の視界はまた暗転する。


 次に映し出された光景に、僕は戦慄を覚えた。

 目の前で雄弁に語るのは、東神。多層世界にて、僕にDDを与え、三園さんと共に行動していた優しげな男、東神凍耶。

 しかし、現実世界と呼ばれる光景の中で、東神凍耶の目はくすみ、澱んでいた。

 凍耶は、仄かに笑みを湛えながら、告げる。

「皆さんを新世界にお連れしよう、と私は言っているのです。痛みや喧噪のない、朗らかな新世界に」

 僕と視界を共有する更の目は、少し滲んでいる。

「凍耶……お前、そんな世迷い言で正当化できると思ってねえよな?」

「世迷い言? 何を言っているんだい? 僕は至って正常さ」

「……正常な奴がやることかよ、それが」

 更の視線の先には、横たわる女性が居る。

「九音さんにはがっかりしました。まさか彼女が、RECシステムの存在を危惧していたなんて……」

 凍耶の足下には、ぐったりと横たわる九音ユイカがいる。

「うちの研究員に、何をした?」

「一足先に、多層世界へご案内したまでですよ。こいつを使ってね」

 凍耶が、銀色のブレスレットを見せる。

「なんだそれ?」

「ディスチャージデバイス、というそうです。製作者は美澄博士ですね。これは、人間が本来持つ脳機能に、RECシステムを繋ぐ作用があるそうですよ」

 そう言うと、凍耶は気味の悪い笑みを浮かべる。絶句する更を見かねて、凍耶は二の句を継ぐ。

「この世界は窮屈なんですよ。他者のことを知ったような素振りを見せる人間の多くは、その他者を知り得ていない。虚像を見ているんです。自分が想定した他者、自分が想像した他者、若しくは、自分が妄想した他者を創造しているのかもしれません」

「何が言いたい?」

「つまりですね、人を人とも思っていないんですよ。自分に都合のいい他者を求める。それは、意識の分離と何が違うんでしょうか? 私は、確証のある世界にそんな人々を招こうと考えたまでです」

 凍耶の軽妙な語り口に、空恐ろしさを覚える。それは更も同じだったようで、彼の口からはこんな言葉が漏れる。

「お前、自分が狂ったこと言ってるの、分かってるのか?」

「狂う? 私が?」

 そう言うと凍耶は、高らかに笑う。狂気的な叫びにも聞こえる。

「狂っているのはこの世界ではないですか。だから、私はセフィロトに判断を委ねようと」

「……話にならねえな。じゃあ、聞かせてくれよ。セフィロトに何を委ねようってのかを」

 更は深く溜息を吐いた。

「そうですね。理解し、取り込み、そして、生み出す。セフィロトに求めるのは、他者の目を通した世界を経験することです。経験則なんてものはあくまでデータでしかない」

「どうやってセフィロトは学ぶんだ?」

「簡単です。サンクチュアリの全人類とセフィロトを、紐付けすればいい。セフィロトからの情報を人間が踏襲すると見せかけ、内実は、セフィロトが人類の眼を得て、多くの事象を観測するための仕組みです」

「じゃあ、あちらにいる人間は、セフィロトのために生かされてるってのか」

「その通りです。実益と実感を得たセフィロトが、多層世界から現実世界に持ち帰る」

 持ち帰る。いずれは、現実世界でも、セフィロトの判断基準で人間が生きることになる。

 それがどのような現象なのか、多層世界の記憶しか有しない僕には理解できない。

「そんなことのために、大勢の人を多層世界に連れ去ったのか」

 更は、低くくぐもった声で呟く。

 詰問するような更の口調に、凍耶はあっけらかんとした態度で答えた。

「まだ完全ではないですがね。いずれは皆をあちらに招こうと思います」

「お前は、神にでもなったつもりか」

 まさか、と凍耶は嘲笑する。

「人は神にはなれませんよ。……ですが、模倣はできる。現状のマイさんのようにね」

 凍耶の言葉に、更は激昂する。

「ふざけるな! あいつがどんな思いで多層世界を作ったのか、お前に分かるのか!」

「分かりませんよ。分かるはずがない。最初から言っているでしょう? だから、私たちはわかり合うためにセフィロトに委ねるのですよ」

「話にならない」

「奇遇ですね。私も、あなたとは話が合いそうにありません」

 凍耶はそう言うと、扉の開閉スイッチに手を置く。

「待て!」

 叫んだ更を振り返ることもなく、凍耶は扉をくぐる。そして、扉が閉まる寸前に、彼はこう告げた。

「終わりは始まっていますよ。誰も気づいていないだけだ」

 扉は完全に閉じられ、静かな空間が戻る。

 


 また視界が変容した。

 窓の外を眺める更の眼は、微かに潤んでいるようにも見える。相変わらず、この感覚にはなれない。自分の視界が更と共有されている感覚は、包み隠さず言えば、気持ちが悪い。

 更は、独りごちるように言う。

「……凍耶が言ってやがったのはこれか」

 窓の外では、暴徒となった人々がごったがえしていた。

 僕の耳に、東神の声が聞こえる。

『先ほどの凍耶と更くんの会話から数年後の世界だね。いや、この光景を見せるとは、セフィロトも意地が悪い』

『なんですか? これは』

 窓の外の景色は、僕がかつて見た夢、そして、朧気な記憶の中にある偶発テロとも重なる。皆、何かに操られたかのように、破壊や略奪行為に手を染めている。

『先ほどの会話から数年後、東神凍耶が提唱したRECシステムによる情報統一が行われた。多くの国民が所持する携帯デバイスに、ディスチャージ、というアプリケーションを送付し、こちらの世界でいう管制計の役割を与えた』

『だとすると、現実世界でも多層世界のような暮らしが営まれていたってことですか?』

『いや、そう上手くはいかなかった。携帯型デバイスは、体内に取り込むものではなかったが、元来、身体とセフィロトをリンクする機能は備わっていてね。ディスチャージはその機能をより密にするためのアプリケーションだった。情報の閲覧のみを可能にした現実での管制計では物足りなくなった人間たちが、脳とのリンクを可能にするデバイスに手をつけるのは時間の問題だった。しかし、ディスチャージには副作用がある。使用した君なら、分かるんじゃないか?』

 脳への過剰な負担。そして、一部の人間には効力を発揮しないとされるデバイス。能力を発揮されなかった身体が、どのようになってしまうのか。僕がデバイスを使用した際、危急の事態にかまけて重要な情報を聞きそびれていた。

『多くの人間は、意識混濁に陥った。その混乱を収めるために尽力したのが、私だった』

『あなたが?』

『私はこう見えても政府お抱えのセラピストでね。当時開かれていた政府直属の診療施設で被害患者に対応していた。患者は、少なく見積もっても数千人に及び、公認セラピスト数十人ではとても対応しきれなかった』

 凍耶は、と、東神が続ける。

『そんな患者たちに仮想現実下での心療行為を提唱した。セフィロトが創造したサンクチュアリと呼ばれる多層世界に、患者たちの意識をダイブさせると言い出したんだ』

 なるほど、元来この多層世界、そしてRECシステムの目的は、機能障害者に向けた救済措置だったわけだ。

『凍耶はね、多層世界と現実を行き来するうち、あることを言い出した』

『あること?』

『現実は汚れている。一度、意識を統一しなければ、とね』

 東神が語る背後に、喧噪の街が見える。僕が経験したような、光景。

『凍耶がそのようなことを言い始めた頃には、診療施設のみでは対応不能なほど患者は増えていた。……君が、いや、我々が多層世界内で経験した偶発テロは、現実で起きた現象を再現したものだ。仮想世界は、あの偶発テロ後の世界を生きられるように構成されている』

『じゃあ、現実でも、管制計による統治は行われているんですか? あちらではまだ、生活を続けている人がいるんでしょう?』

 東神凍耶がどのような策を講じたにせよ、現実の人間を全て多層世界に移すことは不可能だろう。ならば、未だに現実側に生きる人たちもいるはずだ。 

『なるほど、君はまだ現実に残された人間がいる、と考察したわけか。なかなか鋭いね。……そうだな、現状あちらでは管制計による統治は行われていない。副作用として、現実と乖離してしまう代物を、体内に埋め込みたい人間が、そう多くいるわけではないからね。未だこの状況を知らない国民も大勢いるよ』

 体内に異物を埋め込む行為は、あわよくば避けたい、と思うのが通常なのだろう。こちらの世界では、そもそも選択の猶予すらなかったわけだけれど、現実の世界では、選ばない、という手段があったのだ。故に、携帯デバイスのみを所持する人間を、多層世界に移行させることはできなかったのだろう。

『凍耶がセフィロトを使い、ディスチャージ所持者を多層世界に強制移行させようと試みた。その結果、街はこのような混乱に陥った』

 東神は、混乱の街を一瞥し、続ける。

『元々、精神的な脆さを抱えていた人間たちは、移行の加圧に耐えかね、一時的な錯乱状態となった。認識の相違、被害妄想、情緒不安定。半身を多層世界に預けた人間たちは、現実感を逸し、現実の破壊を試みた。移行に賛同しなかった一般市民を巻き込んで、惨禍は続いた』

『……なんで、そんなこと』

『簡単な話だ。一度世界を見限った者たちは、世界は美しくない、と理解したのだろう。認められない、と、自分たちを阻害した世界など、新世界の嫋やかさに比べれば、粗悪なものだと、そう考えたわけだ』

『短絡的です』

『そうかな? 私は合理的な考えだと思うがね』

 東神は宙を眺めつつ、言葉を継ぐ。

『人を殺すのは、人なんだよ。神ではない。類似した隣人ほど危険なものはない』

 人が人を殺す。猟奇的なその言葉を、彼女も口にしていた。

 近しいものだから、理解できる関係だと思っていたから、互いに同じ景色を見据えていたと信じていたから。それ故の、反動としての狂気的な行動。

 だけど、本当にそんな動機のみで暴動が起きたというのか。ただ、『そんなこと』と考えてしまう僕が浅はかなのか。

『僕は多層世界の中で、凍耶さんと会いました……会ったはずです』

 東神霞の言う凍耶という人物は、僕が出会った男の印象と重ならない。

『精悍な男だっただろう?』

『はい。穏やかで、達観したような雰囲気を湛えている人でした』

『環境が違えば、凍耶はそのように生きられたんだよ。あれが、凍耶の本当の姿だ』

 何が本物で、何が偽物なのか。そんな判然としない問答に、僕は興味などない。

『現実の凍耶さんは、今、どうなっているんですか?』

『凍耶は……あいつの精神は……偶発テロ後、意識統一の衝撃で消滅したと思われる。ある人物と同時にね。現実に残っている凍耶の存在は、文字通り抜け殻となっているだろう』

 消滅。それは、彼を司る何かが消え失せたということだろうか。

 ならば、東神凍耶という人間は、既に亡者に等しい。

 私は、と東神が続ける。

『この世界を完成させなければならない』

『完成? 完全性を担保されたのがこの世界ではないんですか?』

『違う。この世界でも、〝まだ〟足りないんだよ』

 

 

 何事もなかったかのように、風景はセフィロトの内部に戻った。

 無音が広がる中で、東神は語る。

「自分の子どもに手をかける親。見ず知らずの人間に、凶刃を振るう落伍者。目の前の快楽に身を委ね、その他全てを蔑ろにする享楽者。過ちを改めず、他者に押しつける愚か者……多くの人々に私は触れてきたよ。皆が口を揃えて言うんだ、『自分は悪くない。世界が悪い』とね」

 光を失ったような双眸に映るのは、どす黒く爛れた世界なのだろうか。

「どうして、と君は言ったね。確かに、そうでない人々のほうがあの世界には多くいただろう。だが、いずれその凡庸な人々も飲み込まれてしまうと、私はそう危惧したんだ」

 何故この人はそうまでして――と苛烈に思う。

 東神霞は、狂い始めた世界に身を打たれ、自らと近しい周囲を守るために、この世界を構築した。

 考えに考え抜いて、息もできないほど考え抜いた挙げ句、肝心な所で思考を止めてしまった。何よりも避けなければいけなかった事態を自ら望み、その盲信に都度都度、それらしい理由を付けて、装飾したのだ。

「この世界は美しいじゃないか」

 眼下の多重世界を眺めつつ、淡々と東神霞の言葉は続く。

「……叶わなかった願いも、成就される。いなくなった人々……あの世界で生きる事が叶わなかった人々の救済にもなるんだ」

「綺麗な言葉で誤魔化さないでよ」

「雅……」

 いつの間にか、僕の背後に立っていた雅が、怒気を含んだ言葉を発する。

「そのために、あの世界で生きていた人々まで巻き込んだってこと? 空っぽになった人たちを残して、自分たちだけ、幸せになろうとしたの?」

「何かを望めば、何かを失うんだよ。それは、理だ」

「そんなの、都合のいいすり替えじゃない。本当の世界を見ることもせず、理に反して行動したのは、あなたの意思でしょ? それをまるで世界の救済みたいに言わないで」

 東神霞は少し間を置いて、再び語る。

「誰かがスイッチを押す役目を担わなければいけなかったんだ。それは、私でなくてもよかった……いや、私がやらなくとも、別の誰かが必ずセフィロトに答えを求めただろう」

 人工的に作られた自己形成プログラムは、いつからか人間の想定を遙かに凌ぐ経験則を手に入れた。夥しい数の人間が集まろうとも導き出せなかった結論を東神は、セフィロトに、そしてRECシステムに委ねたのだ。

 衰退した世界に、いや、人間という存在に対するセフィロトの答えは、自明だ。

 数々の不可能を内包した人間は必要ない。不可能を多く持つ人間は、緻密なる理想郷のバグになる。

 他者の意識を追体験するRECシステムが、個人と集団の境界線を曖昧にし、その結果、人は徐々に理性と感性を分離させることになった。それが美澄博士の言う、あちらで起こった現象だ。

 その危機的状況を改善するため、官制計に向けての強制的な精神安眠シグナルを送り、あちらの世界に『作業のように日々を生きる僕たち』を残し、こちらに、『もしもの可能性を模索する僕たち』を生み出した。要するに、そういうことだ。

 東神霞が言うように、いずれ誰かがこの選択をしていたのかもしれない。疲弊していく世界に、変革を与えるのは、彼でなくてもよかったのだろう。

 だけど、正しい選択なんて、本当にあるのだろうか。

 それは、確かに確率の高い選択だった。セフィロトという統合コンピュータが構築した、人間を正常なまま、世界に留める方法。間違いではなかったのかもしれないが、

「東神さん」

「なんだい? アラタくん」

「凍耶さんが自我を保てなくなって、それから多くの人が狂い始めて、その状況をあなたは数年間、見てきたんですよね」

「……そうだね。あれは、人の姿ではなかった。姿、ではないかもな……人としての有り様かもしれない。大切な何かが、欠落していく様だ」

「セラピーの一環で、RECシステムが一時的な救済ポイントになったんだとしたら、現実の僕がやろうとしたことは、きっと正しかったんだと思います」

「アラタ、何言って……」

 厳しい表情で僕を睨む雅を制して、言葉を継ぐ。

「でも、それを永住の地にしようとするには、理想論の域を出ていない。要は綺麗事です。この世界のように、夢のようなもの、と言ってもいい」

「君は、私たちが愚かしい間違いを犯した、と言いたいのかね?」

「そうじゃありません。理由や気持ちまで否定しているわけじゃない。僕が言っているのは、どうしてそんな方法に逃げたのか、ってことです。なぜ、肝心な起点を無視して、世界を閉じようとしたのかが、分からないんですよ」

 世界に順応できず、苦しみ足掻いた人間を、どうして開放してしまったのか。代替することで、安直な救いを与えようとしたのか。どうしていつも、正しさと過ちの二種類でしか語れないのか。

 正義を司るはずのルールが、いつしか、謀略の手段に成り下がる。

 生み出した人間の想いなど露知らず、形骸化した規則の中に、答えを求めてしまう。

「必要だったのは、戻ってくる場所を守ることだったんじゃないでしょうか。壊れた世界を修復する方法……きっと、僕なんかが想像もできないくらい難しい方法だろうとは思うけど、それを模索しなければいけなかったんじゃないですか?」

 欠片の僕が言えるのは、それくらいだ。これは、三園更の考えではない。飽くまでこの多層世界に身を落とした二階堂アラタという彼の欠片が見つけた答えだ。

 この世界の人々は皆、平等に優しい。例えはぐれた生き物がいたとしても、その存在すら手厚く受け入れてしまう。その優しさは、時として凶器ににもなりうる。

 例えば、大義を抱えた人間が、その大義を叶えるにそぐわない能力しか得られなかったとして、周囲の優しさはきっとこう言うだろう。

 ――逃げてもいい。考えなくていい。他にも方法はあるのだから。

 皆で考えよう、と言う。一人ではない、と言う。苦しみを共に背負おう、と言う。

 それは一見、抱擁的にも感じる。そして、それはきっと正しい。

 だけど本来、その選択は他者に委ねられるものではなく、当人が苦難の果てに選択するものだ。個人の苦楽を他者に委ねてしまえば、僕たちの意思や判断は薄れてしまうのではないか、と思う。

 平均的に象られた優しさが、全てを救うわけじゃない。助言や、万能者の救済が、全てを癒やすわけもない。

 周囲を受け入れない行為は、孤立を生む。そして、いずれは享受できるはずだった期待や尊位すら失うことになるのかもしれない。必要とされないことは悲しい。ただ、それ以上に、曖昧な理想に気をとられ、本来在るべきものを見落とすことのほうが、虚しい。

 在るべきもの。僕らを僕らたらしめるもの。

 不寛容な人々が暮らす世界は、人間の価値観を除けば寛容だったのかもしれない。僕たちはまだ、あの世界のことを何一つ理解できていなかったのではないか。

 偶発的とはいえ、他者を操作できると知って、無意識に優位性を感じてはいなかったか? 他者を褒めそやし、一方で貶し、彼らはどうして『誰かをコントロールできる』気がしてしまったのか?

 往々にして、僕たちは間違える。問題はその後だ。

 間違えた後、戻れるはずだった場所を失うこと、〝正気〟の人間が、〝狂気〟に寄り添うこと。それは、元在った正常な世界を放棄することに、他ならない。

 予測される事態が、常に好意的に迎えてくれるとは限らない。僕たちが居たであろう世界は、変化しつつも、『変わらないもの』を湛えていたはずだ。

 不可測の世界。だから皆熟考し、恐怖し、落胆し、絶望し、そして、その先に出会う偶然に歓びを得た。幸福を獲得した。当然、その逆、絶望は形を変えないまま、僕たちを苛むことだってあった。

 ただ、幸福の継続を願うように、絶望からの脱却を試みるのもまた、人の性というやつだろう。

 知り得るはずがない。そう考えながらも止まれない。僕たちは、いつも人間が考える全てを是として行動しすぎる。その行動が、時に逸脱を生んだとしても、止まらない。それでも、

「道は、あちらの世界にしかありませんよ。ここは、何時まで経っても、世界の再生でしかない。留まることは時に安らぎかもしれませんけど、留まり続けることは、いいことじゃない。僕たちには……肉体と精神が必要だ。どうして必要なのかは分からないけれど、長い間培われてきたものを、有り様を、挿げ替えることなんてできないでしょう?」

 存在そのものを否定し、別のものに当てはめるのは、変化ではない。それは、逸脱だ。

 雅は、「死ななきゃなんでもできる」と言った。それは、現実の世界にある全てのものに当てはまるだろう。勿論人間だけではなく、生物や、環境や、技術もそうだ。

 きっと、人が居なくなっても世界は終わらない。僕らの思考が停止しても、現実世界があり続けることが何よりの証拠だ。

 ただ、そこに人の意識がなければ、認識する個体がなければ。営みという、行為がなければ。

 その世界は既に、閉じてしまったと言っていい。

 僕たち人間が、世界を見る。風景を見る。人を見る。創作物を見る。無機物を見る。そして、その全てを自分の感覚として、咀嚼する。

 そうして僕らの世界が生まれる。

 その行動、その機能を停止させてしまったら、僕たちは、世界に存在する意味をなくしてしまう。

 いつか、終わりがくる肉体。いつか、終わりが来る創造物。だが、連綿と続く世界にとって、それは些末なことなのかもしれない。

 僕たち個人が、その深遠なる流れを無視することは、きっと許されない。勿論、僕たちが生み出した人工知能にだって。

 一つの要素によって、書き換えられるものではない。

「それは、四ノ宮雅の請け売りかね?」

 東神は、ため息交じりの声で言う。

「違います。……いや、少しそうかもしれません。雅がいなければ、僕はこの世界を受け入れてしまったと思います。でも、この考えは、その課程の中で僕が、僕自身が、導いた結論です」

 僕がそう言うと、東神は宙を仰ぎ見る。

「……そうか、君はやはり彼の欠片だ。どこまでいっても、世界そのものを変えても、それだけは変わらないか」

 なら、こういうのはどうだろう、と東神は続ける。

「セフィロトが、生命を生み出すことを擬似的に可能にしたとしたら」

「生命……?」

「そのままの意味だよ。セフィロトは経験則を得て、感性と理性を手に入れた。そして、膨大な情報を衆人に分配する方法を手に入れた。しかし、セフィロトは飽くまでいちコンピュータ、プログラムに過ぎない。セフィロトは実世界、つまりこの多層世界に物理的に干渉することは叶わない」

 官制計の効能により、精神的に内部干渉は可能になる。だが、万が一セフィロトに反発するものが現れたとき、自らの身体を持たないセフィロトは、無力だろう。

「ならどうするか。実際、目に見えて驚異となる存在を構築するしかない。実世界では、個体の創造なんて作業は骨が折れる。だが、ここは意識の世界だ。セフィロトが生み出そうと考えたものは、実体を以て顕現することができる」

 東神は何が言いたいのだろう。彼の真意が読めず、僕は困惑する。

「難しい話ではないさ。答えは君の目の前に〝ある〟のだから」

 そう言って、東神は指差す。

 四ノ宮雅を、指差す。

「セフィロトが、『自分と似た個体を創造する』。この世界にのみ存在する、人工的な生命を構築する。それは、受信不全というイレギュラーにも対応可能な高度プログラムに成長する……はずだったが、些か間違った方向に成長してしまったようだがね」

 何を言っている。目の前の雅は、口を真一文字に引き結んで、じっと東神を睨みつける。そして、一言、告げた。

「私が、セフィロトに作られた人間だって言いたいの?」

「RECシステム下での超常的な能力発現、セフィロトとの親和性の高さ、そして、この世界の仕組みにいち早く気づく洞察力。その全てが、四ノ宮雅の異常性を物語っているじゃないか」

ウィザードの異常性。人知を超えた存在。それが、人間でないのならば、理屈は通る。

「……私はね、セフィロトにあることを託したんだ」

「託すって、何を?」

 雅の苛立ち混じりの問いが飛ぶ。東神は、殊更大げさに告げた。

「神をつくれ、と伝えた。真の平等性を重んじる新たな神を創造してくれと、セフィロトの託したんだよ」

 人は神様にはなれない。ならば、『生み出す』しかない、と東神霞は考えたというのか。

「四ノ宮雅やウィザード、そしてその周囲の従者。全てはこの世界のみでの存在。単なる現象でしかない。ただ、現象は、それそのものだけで人間に多大な影響を与える。君だって、そうだっただろう?」

 東神が、僕を見て笑う。

「セフィロトによって創造された神。それが、ウィザードだ」

 瞬間。何故だか脳裏をよぎったのは、雅たちとの道中の出来事だった。

 あの出来事が嘘だったのか。僕が、ようやく見つけ出したと思っていたものは、虚像だったというのか。

 

 ――違うな。お前は何も間違ってない。


 脳内に響く声。それを触媒にするように、精緻な空間にヒビが入る。

  ――くどくど話しすぎだ、東神のおっさんは……変わらねえな、理想主義者親父は。

 辛辣な言葉とは裏腹に、その声は落ち着き払っているように思える。

 

 ――世話かけたな、アラタ。後は任せろ。


 遠く、視界が霞む。  

  ああ、お帰り。

 僕の、たましい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る