2 【リジェクト】
REC 01
いつからだろう。傍観者でいることに安心感を覚えていたのは。
自分は、この世界の外側にいる、と感じていた。
この世界の仕組みから必要とされず、周囲に交わることを許されなかった僕は、関わり合うアクションすら、とろうとはしなかった。
窮地に立たされているはずの現状で、何故だか僕は、穏やかに思う。
誰の人生にも、唐突に選択を迫られる時がくる。
例えば、天災なんかがそうだだろう。どれだけ注意をはらっても、予防策を練っても、無作為に晒される事実は、僕達に選択を迫る。
コントロールが出来ない事態なんて、往々にしてあるのだ。
十年前の偶発テロだってそうだ。何時までも続くとされていた安寧はいつもたやすく破壊された。だが、十年経った今、多くの人々は、その事実を忘れ去ろうとしている。
人間は、いつだってその『選択』の度、策を講じてきた。RECシステムだって、その一つだ。ただ、安寧を生み出そうとしたシステムの波は、僕らのような受信不全者という人間を生み出した。
長い時間を掛けて、僕らは忘れられてしまうのだろう。このまま、システムがより強固な安定性を確立していけばいくほど、少数のはぐれ者に目を向ける人々は少なくなるかもしれない。
このままではいけない。皆を幸せにしなければ。多くの人間がそう思いながら、しかし、そんな大袈裟な考えは、曖昧な概念として形骸化して、実態のない思いになっているのかもしれない。
僕の首下に刃を突きつけた少女は、酷く冷静な振る舞いで、訊ねる。
「君は、壊して進む? それとも、守って留まる?」
少女は美しい髪を風に揺らし、動作とは反した穏やかな声音で、続ける。
「選ばない、って選択はないんだ。残念ながらね」
静かだった部屋は、少しばかりの喧噪の後、また静けさを取り戻した。開け放たれた窓から吹き込む風が、ほんの少し音を立てる以外は、静かな空間と言えるだろう。
さっきまで会話していたはずの三園さんたちは床に伏して、僕と彼女だけが、この空間に取り残されたような錯覚にも陥る。ああそうだ、部屋の隅に蹲ったまま息を潜めている九音さんがいたっけ。九音さんは体育座りした自分の膝の上に顔を埋めている。きっと、彼女の防衛本能がこの現実を見ないように、と促しているのだろう。
兎にも角にも、少女、四ノ宮雅は、一瞬でこの場の空気を一変させた。彼女の体格は、九音さんとさして変わらないほど小柄なのに、どう足掻いても太刀打ちできないと思わせるような威圧感が漂っていた。数分前のやり取りなど、何もなかったかのように、今、僕の頭の中は整然としている。
「何も出来ない君が、抗うための、方法を教えてあげる」
何も出来ない。確かにそうだ。僕はいつも蚊帳の外に居て、手に入らないものを羨んで、生きていた。そして、いつからか、そんな羨望の気持ちも、忘れてしまった。
「自由って、責任を伴うんだよ。きっとこの世界の人々は、そんなことも忘れて、ゆるやかに自己の意識を腐らせている。……自由、ってのもちょっと違うかな。『与えられた自由』『与えられた安定』」
この発言を街の人たちが聞いてしまったら、どれほど憤慨するのだろうと、僕は思った。
この少女は、この世界を壊そうとしている。そう、教えられた。だけど、何故だろう。床にへたり込む僕を見下ろす少女の目からは、およそ悪意というものが感じられない。赤茶けたショートヘアから覗く、茶色がかった目。焦燥感を捨てたような、柔らかな表情。ずっと室内にいたかのように白い肌。その雰囲気は、浮き世離れした雰囲気を湛え、しかし何故か僕の恐怖を静かに溶かしていく。
「君の責任で、選びなよ。私と一緒に来るなら、歓迎する。……そいつらに付くって言うなら、残念だけど、今ここでお別れだね」
ぐっ、と彼女がナイフを強く握り直したことが分かる。
「選んで。選べるだけ、君は幸運だよ」
幸運。決して自分に与えられないと思っていたもの。僕は、口を開く。
「それって、答えが決まってるようなもんじゃないか」
自嘲気味に言う僕に対し、四ノ宮雅は、首を傾げた。
「あれ? もう少し怖がってくれるもんだと思ってたのに。酷く落ち着いてるね、君」
「こんな非日常のイリュージョンを見せられたら、誰だって思考停止するよ」
平然と言う僕を見て、四ノ宮雅は、はははー、と笑う。
「ふむ、ほんとに見込みありそうだね、君……えっと、名前は……」
「二階堂アラタ」
「アラタ、ね。よし、アラタ。私と一緒にいこう。私はこれからこのエリアの回避地に向かう。そこから、このエリアを傾ける準備をする」
聞き慣れない言葉と、有無を言わせぬ態度に心底辟易しながらも、僕は、自分がどう選択するのか、もう分かっていた。
「行くよ。逃げられそうもないし」
「そう。懸命な判断力をもってるね」
ついさっき、同じ台詞を聞いたような気がする。でも、僕は判断が素早いわけでも、諦めが良いわけでもない。都度、平穏を求め、自分にとって有益なものを打算で選んできた。
つまりは、流されて生きてきただけなのだ。
この世界に。この仕組みに。流されるまま、従うまま、思考を腐らせようとしていた。
だから、これは天恵なのかもしれない、と大袈裟なことを考えたのだ。
この世界を変えようとする少女に僕は、自分には持ち得なかったものを、期待してしまったのかもしれない。
四ノ宮雅は、雑然とした部屋の中を見回し、少し間を置いて、
「じゃあ、急ごう。もうすぐここにエリア3のディスチャージャーが来るだろうから……」
そう言って、四ノ宮雅は僕の身体を抱きかかえた。
「ちょっ! 何してんの!?」
「あれ、初めて焦ったね? 女子に抱きかかえられて不本意かもしれないけど、ちょっと我慢してね」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
ニコッと笑った彼女は、僕を抱えたまま、宙に浮いた。
「浮いてる……」
「正確に言えば……ま、そのへんの説明は今、いいや」
彼女は小気味よく空を蹴る。すると、そのまま窓を越え、僕らの身体は外に飛び出した。
校舎の全体が見渡せるほどの位置になると、ようやく混乱の全容が見える。校庭の真ん中には、生徒達が大挙し、一様に焦りの表情を浮かべているのが窺える。神園学園を始めとした特別教育校には、サブネットワークの非常事態に際しての危機管理マニュアルが存在する。そのマニュアルに記載されている一つが、有事の際の避難先。その場所が、外周を屋根に囲まれただだっ広い校庭だ。各校の校庭は秘匿ネットワークへの干渉権を有した場所であり、教師陣が管制塔より与えられた解除コードを使うと、校庭内は、エリア内全てのネットワークから遮断されるようになっている。
それにしても、エマージェンシーコールからものの数分で恐らく全校生徒が迅速な避難行動を行ったようだ。遠目に見るに、大きな混乱は見受けられない。
「避難も迅速。大きな混乱もなし。なんだか拍子抜けしちゃうよなぁ……ま、何十年と続いてきたシステムが、この程度の揺さぶりで屈しちゃったほうが拍子抜けか」
僕を抱える四ノ宮雅は、つまらなそうに呟いた。
「あの、四ノ宮さん?」
「雅、でいいよ、アラタ。私の仲間になるって決めた以上、君と私は一蓮托生みたいなもんなんだし。気安く呼んじゃいな」
あれ? それは、大袈裟かな? と首を傾げるウィザードの笑みからは、やはり、邪気のようなものは感じられない。
と、大きな衝撃と共に、身体が揺さぶられた。雅が急降下し、地面に両足を着けたのだ。辛うじて、学校の外には出ている状態で。
「へ? なんで下りてきたの?」
わけが分からず僕は、狼狽える。そんな僕を見て、彼女は照れくさそうに呟く。
「これね、飛んでるわけじゃなくて、跳ねてるだけなの。だから、滞空時間に限界がある。ごめんね、魔法っぽくなくて」
へへ、と頭を掻く雅。いや、二階からの跳躍や、おそよ三百メートルはある校外への跳躍。それだけでも十分に、人の能力値を超えているのだけど。
「カラクリは後で教えたげる。そのデバイスの使い方もね」
雅は僕の手に握られたディスチャージデバイスを指差して、高らかに言った。
直後、校舎の側から、大声が轟いた。
「雅! 私の――を返して!」
肝心な部分が聞き取れない。
「ありゃあ……これは急がないとマズいかもね……」
「どうしたの?」
「こいつを強制起動させるつもりかもしれない」
「こいつ、ってこれ?」
僕は、ディスチャージデバイスを指差す。
「うん。マイは外部からの干渉権限を持ってるから……って、なんか光ってる!」
雅が戦くのも無理はない。突然光り出したデバイスに驚きを隠せないのは僕も同じだ。
「装着してないと起動しないはずなのに……やっぱり天才三園マイは、違うなあ」
「そんな悠長なこと言ってていいの? これ、変なことになるんじゃ?」
「大丈夫だよ――」
雅が呟いた言葉の語尾が、掠れて聞こえない。いや、それは、僕の意識が朦朧としているからなのかもしれない。急激な蒙昧が、僕の脳内を乱す。
「アラタ? しっかり!」
彼女の声が遠い。
「ヤバい……とにかく、私たちの潜伏先に……」
ぐん、と揺さぶる衝撃が身体を包む。彼女は僕を強く抱え直し、高く、それこそ空に飛び出す勢いで、跳躍した、ように感じた。
REC 02
「みゃーちゃん。おにーちゃん起きたー」
「起きたー。ひょろっちいにーちゃん起きたー」
無邪気に騒ぐ声が、僕の頭の上に落ちてくる。どうやら気を失っていたらしい、と僕を覗き込む少年と少女の表情を見て思い至る。十歳にも満たないと思われる二人は、その発言とは反して、僕を憂慮するように眺めている。微かに痛む頭を抱え、僕は身体を起こす。
「大丈夫そうでなによりですね。ねえ、お嬢。……あ、私は
子供達の間から顔を出した少女は、恭しい態度で僕に質問攻めをする。佐久間ユカリと名乗る少女の年格好は恐らく僕と同じくらい。黒髪を後ろで結び、白衣のようなものをだらしなく着込んでいる。眼鏡の奥で、大きな瞳が興味深そうに僕を見つめている。
「ユカリ。また支離滅裂になってるよ。アラタは疲れてるんだから、ゆっくりね」
僕をまじまじと観察するユカリを制する声の先を見ると、小さな簡易テーブルの前に座る雅の姿があった。「すみません、お嬢……じゃ、二階堂さん、これどうぞ」とユカリは忙しなく言い、僕にマグカップを差し出した。温かいコーヒーが、カップの中に注がれている。
「ここが回避地?」
僕は一人言のように呟き、辺りに見回す。
広いエントランス、つまり僕たちがいるエリアは、ホテルの設備かと思うほど、綺麗に整理された家具が並んでいる。その様相は、ここに来るまで想像していた潜伏先、回避地のイメージとは異なっていた。奥の通路にはエレベーターがあり、その近くで、僕を覗き込んでいた子ども達が元気に走り回っていた。
「イメージと違った?」
しげしげと内装を観察する僕に雅は、柔和な声音で訊ねる。
「正直、驚いた。こんな場所があるんだ」
きな臭い台詞に僕自身、身構えていただけかもしれないが、それにしても、清潔な室内に、違和感を覚え、訊ねる。
「ここは、エリア3の中?」
「一応そうだけど、ここは名目上、中間地帯だね。過去の遺物、というか」
「どういうこと?」
「偶発テロの避難地がこの地区だったんだよ。ここはエリア3、4の境目。旧都のこの中間地帯は、RECシステムの電波も届かないし、管制塔側から監視出来ないエリアでさ。ひとまずはエリア3管制塔から逃げるには、安全な場所」
雅は熊柄のマグカップを手に、周囲に目をやる。
「こんな場所がまだあったんだ……」
「ま、ここだけが回避地ってわけでもないんだけど、その話は置いといて、それ」
彼女は、僕の腕に装着された腕輪型デバイスを指差す。
「電源とか、ないよね、これさ」
注意深く観察しても、電源ボタンのようなものは見当たらず、そもそも、このデバイスが現在起動状態にあるのかさえ分からない。
「今は動いてないね。でも、起動条件を満たしてないだけなんだよ」
「起動条件?」
「そのあたりはユカリに任せたほうが懸命かな……ユカリー、今空いてる?」
雅は、エントランスの端でいそいそと何かの作業に勤しむユカリに声を掛けた。
「もう暫くお待ちをー。ちょっと手を離せない事情がありまして」
大きな声で応えるユカリは、大きな銀色の物体を手に、「申し訳ありません」と丁寧に頭を下げた。
「そういうわけみたいだから、あの子の手が空くまで説明は待ってね。少しバタバタしたからさ、ゆっくりするといいよ。ほら、ここ座りなよ」
彼女は、自分の向かいに置かれた椅子に、僕を手招く。その誘いのまま、僕は椅子に腰を下ろした。
「バタバタ、ってレベルじゃないけどね。言うならば、天変地異レベルだ。全然思考が現状に追いついてないよ」
「ははっ。確かにそうかもね」
皮肉交じりの僕の言葉に、雅は相好を崩す。
「アラタから見れば私たちはテロ集団だもんね。きっとマイ達にもそう聞かされてただろうし……ほんと、一緒に来るなんて、怖いもの知らずだねアラタは」
テロ集団。そんな物騒な説明ではなかったが、三園さん達は、雅に只ならぬ警戒心を持っていた。
「状況的に、雅は悪役以外の何物でもなかったよ」
僕は、つい先ほど起こった事態を、別世界の出来事のように話す。少し皮肉めいた僕の発言に、雅は真剣な眼差しをもって応じる。
「でも、君は私を選んだ。それってつまり、マイたちより信用がおけるって思ってくれたんじゃないかな?」
あの状況で、僕に選択肢なんてなかっただろう。断れば間違いなく雅に殺されていた。あの時、それほどの驚異を、彼女の眼から感じたのだから。楽観的な発言に意を唱えようとした僕を遮って、雅は、
「違うか。君は、そもそもこの世界を信用してない。違和感を抱いてる」
僕を見据える眼には、ふざける様子はない。
「……僕が受信不全者だってのを差し引いても、違和感は、あるかもね……」
言い淀む僕を尻目に、雅は息を吐き、静かに語り始める。
「だろうね……そもそも、さ。この国の人たちやシステムに違和感を覚えるのはわかるよ。少し考えれば理解出来ることでしょ? これが、安寧や平穏なんかじゃなくて、支配だってことくらい」
カップの中を見つめたまま、雅は訥々とした口調で続ける。
「アラタも知ってるかもだけど、十年前の偶発テロが最初に起こった場所」
十年経った今でもその詳細がはっきりとしない偶発テロ。このテロ、いや、惨事が、『偶発』なんていう名で語られるのには、理由がある。
「旧都の郊外の閑静な住宅街だよね、確か。それと、田舎町とか」
雅は首肯し、「やっぱり、知ってるんだ」と、微かに表情を曇らせる。
「一応僕も、被害者? みたいなものだから。……まあ、僕が覚えてるのは、救助されて以後のことだけなんだけど」
「あの中で命があっただけ、儲けものだよ」
雅は空になったカップをテーブルに置くと、大きく伸びをした。
「偶発。いや、乱発とも言えるかな。ほんとにランダムだった。当時、世界規模で首都や観光地を狙ったテロ行為は起きていたけど、攻撃しても価値のなさそうな場所に矛先が向くなんて、誰も考えてなかっただろうね。恐らくは、当時の政府だって」
雅はフロアで駆け回る子供たちの呼びかけに応じて、小さく手を振る。
「理不尽なものなんだって、誰も真剣に考えてなかった。……うん、考えていた人はいただろうけど、僅かな人間が動かそうとしてどうにかなるものでもなかったしね」
当時、同じ七歳の少女がどのように混沌の世界を見ていたのか、その片鱗が、伝わってくる気がする。
「でも、あの混乱を収めたのは、当時のウィザードだって……」
「そうだね。その殆どが死んじゃって、残されたのは子供だったウィザード見習いの私たちだけ。ウィザードなんて大仰な冠を与えられても、所詮、一人の人間ってことには変わりないし、それも、力の使い方も教わってない子供。私たちは、選択肢のない空気に呑まれて、あの戦禍をただ眺めていることしか出来なかった」
住宅街、地方都市、平穏な田舎町。国の中枢には目もくれず、テロは続いた。まるで、国の手足をもぎ取っていくようなそのやり口は、国民を疑心暗鬼に陥らせた。
「結局、今になっても主導者は分からない。国外からの攻撃だとか、陰謀論だとかなんとか、いろんな噂は飛び交ったし、国外脱出を試みた人たちも居る。だけど、どこに行ったって、大差はないよ」
それに、と雅は言葉を継ぐ。
「一番多くの被害者を出した地域では、一般市民同士が争ったって話だしね」
「一般市民が? 被害者であるはずなのに、なんで……」
「恐怖や憎悪は、伝染するんだよ。疑心暗鬼、思考停止、様々な要素が混ざり合って、いつの間にかテロ集団による攻撃以上の被害が、一般市民同士で起こったって感じかな……ほんと、どこで生きていたって同じだよ」
人間がそこで生きてる限り、と悲しげに雅は言う。
「国内に残った人への官制計強制付与。それまで嗜み程度だった官制計を、全国民に。それが当時の政府の最終手段だった。近隣諸国との同盟を結んで、大きな国を造り、閉じる。自由に動ける範囲を人々に与え、その実、枷を課した」
多くの場面に置いて、生活に苦はないように。しかし、決して誰もが、暴発的な行動に身を落とさないために。
「確かに、RECシステムのお陰でこの国は暫定的に平和だよ。だけど、今でも息づいてる国の中枢の人間は、他の目的で動いているように思えて仕方ない」
一層重みを増す発言に、息を呑む。と、
「お嬢、お待たせしましたー。こいつの手入れ、終わりましたよ」
僕と雅の会話の腰を折るかのように、ユカリが円形状の機械を持って現れた。
「それは?」
「名前くらいは聞いたことあるでしょ。私たちウィザードと一蓮托生の、セフィロト。これはその携帯型レプリカだけどね」
そう言うと雅は、レプリカセフィロトの画面を操作する。空間上に現れたのは、ファンクションコントロール、というロゴと、操作画面。奇異な眼をする僕を見て、ユカリが口を開く。
「各エリアに配置されているセフィロトは、それそのものがレプリカなのはご存じですよね?」
「まあ、話くらいは」
「この携帯型セフィロトは、その廉価品という感じですかね。ですから、機能的には本来の半分もないのが実状なのですが……しかし、エリア3内でお嬢の行動を保証するためには、このレプリカと、内蔵されたファンクションコントロールアプリが必要ですから」
つらつらと、まるでテキストを音読するようにユカリは語る。
RECシステムを切断するアプリ、自立稼働でネットワークを構成可能なファンクションコントロール。彼女達がどのような経緯でこのアプリを手に入れたのか、そして、どのような目的で使用しようとしているのか。訊ねなければいけないことは、山のようにある。だが、
「そういえば、君は誰なのか、聞いてなかったような……」
今は、目の前の少女が何者であるのか、そのほうが気になった。ユカリは、首を傾げ、不思議そうに呟いた。
「あれ? 私、名乗りませんでしたっけ?」
「いや、その……そうじゃなくて」
「ユカリは私の従者だよ」
僕とユカリの会話を静観していた雅は、煮え切らぬ会話に口を挟んだ。
「従者? お手伝いさんみたいなもの?」
国の根幹に関わる責務を行うウィザードは、外出禁止以外にも、多くの禁止事項の元動くと言われている。だからこそ、彼女達がこなせない日常のあれやこれやを代行する人間がいてもおかしくない、と思ったのだが、
「近いけど、そうじゃないかな。従者が仕えるのは飽くまでセフィロト、RECシステムそのものに、だから。優先順位では、私のほうが低い」
「まあ、私はその大原則を破った末にここにいるわけですがね」
重々しく語る雅に反して、ユカリは、飄々と言葉を踊らせる。
踏み込んではいけない話を聞いてしまったようで、少しばつが悪い。だけど、流れのままにとはいえ、僕は既に、踏み込んではいけないラインを大幅に踏み越えているのかもしれないが。
と、押し黙る僕の肩を雅がぽんと叩いた。
「君は何も考えなくて良いよ、今はね」
言うと、彼女は屈託なく笑う。やはり、その笑みの向こうに、底知れぬものが潜んでいるのは確かなのだろうと、僕は改めて思う。
「さてはて、差し当たって私の役目は、二階堂さんにディスチャージデバイスの説明をすることでしたよね」
ぽんと手を叩き、思い出したと言わんばかりにユカリは言う。その言葉を受けて、僕は、右手首に装着された腕輪に触れる。
「これ、一体何なんなの? 東神校長は、攻撃性がどうとか、って言ってだけど」
「凍耶くんですか。……それはまた、怖い言葉を使いましたね」
「ユカリさん、うちの校長のこと知ってるんだ」
「ええ。古い付き合いで」
随分年寄り臭い発言に、少し笑みがこぼれる。
「端的に言うなら、ディスチャージデバイス……DDと略すんですが、これは、ウィザード固有の能力を、受信不全者が使用できるように改良されたものです」
ユカリは人差し指を立てて、神妙に語る。
「ウィザードには、各々、特化した念動力のようなものがあります。例えばお嬢は、『空間の固形化』ですね。一定範囲を固形化することによって、空中移動、浮遊に似た行動が可能となります」
僕が体感した空中浮遊の正体が、あっさりと明かされる。
「似た行動……」
僕が首を傾げると、雅は口を挟む。
「あの時言ったでしょ? あれは跳ねてるだけ。空中移動でも浮遊でもない。超常現象のレプリカなんだよ。まねごと、だね」
「お嬢は謙遜しすぎです」
自嘲気味に話す雅を制して、ユカリは慌ただしく告げる。
「確かに空間固定はお嬢の専売特許ですが、お嬢にはそれ以外にも……」
「私のことはいいから、DDの説明を続けてあげて」
興奮するユカリの頭をポンポンと叩き、雅は苦笑する。
「し、失礼しました。……では、続きを。まず、DDの使用には、RECシステムネットワークとの干渉が必須となります」
「だとすると、ここじゃ使えないんじゃないの?」
かつての偶発テロの避難地帯。回避地と呼ばれるこの場所が、どのような経緯でRECシステム外にあるのかは判然としないが、ネットワークのない現在地では、この面妖なデバイスはただの鉄塊に等しいのではないか、と思える。
「そのために、私たちは、これを携帯したんです」
ユカリは、レプリカセフィロトと呼ばれる機械に触れて、自信ありげに言う。
「レプリカ、というだけあって、簡易のRECシステムネットワークの構成ならこれで可能です。それに、この中にはファンクションコントロールアプリが入っていますから、万が一セフィロト、RECシステム本体からの干渉を受けても問題なく起動します。試しに、二階堂さんのDDを起動させてみましょう」
言うと、ユカリはレプリカセフィロトの内部からキーボードのようなものを出し、目にもとまらぬ速度で操作し始めた。
ややあって、雅が僕の腕を持ち上げた。強引な手つきに少し、困惑する。
「ご協力感謝です、お嬢。では、接続します。多少身体に負荷がかかりますので、ご注意を」
淡々と告げた後、ユカリは勢いよくキーを叩いた。それと同時に、腕が締め付けられるような感覚に襲われる。
「二階堂さんは脳と官制計がリンクしていませんから、管制塔から送られたシグナルが管制計に内包されたままになっています。蓄電状態といいますか」
蓄電、と言われると、まるで自分が機械にでもなったような気分になる。
「使われることのなかったそのシグナルを、一度DDに移します。そこから、RECシグナルとは別種のシグナルを、脳内に送り込むんです」
「それで、起動条件は満たされるの?」
「ええ。一応は」
「てことは、それだけじゃないんだ」
「ですね。受信不全者の半分には、このDDを使用しても、効果がない場合があるんです。適正、といいますか、やはり万人に使用できるものは作り出せないんですよ。それに、シグナルを受けることに慣れていない脳では身体に負荷が掛かりますし、危急の事態以外では、あまり使用を勧められるものではありません」
まるで人体実験のようだ、と思う。システムの外に追いやられた僕らは、こうでもしない限り、世界と関われないのだろうか。
「まあ、作業自体は簡単ですので……もうしばらく、我慢してくださいね」
レプリカセフィロトを真剣な眼差しで見据えたまま、ユカリは僕を気に懸ける。いや、どちらかと言えば、業務的な発言のようにも思える。
決して痛みが身体を支配しているわけではないけれど、普段感じたことのない妙な嫌悪感に意識を奪われそうになる。自分の頭の中に、別種のものが介入する違和感。このような感覚を、皆が受け入れているのかと思うと、周囲を尊敬したくもなる。
「繋がった!」
ユカリが叫ぶのと同時、僕のDDは、まばゆい光を纏い、起動する。
直後、脳内に、か細い声が再生された。
――お帰りなさい×××。リジェクトシグナル、再構成完了です。このシグナルは、使用者の肉体的、精神的過負荷を感知した際、起動するようにプログラムされています。
一部雑音に紛れた機械的な声は、続ける。
――代行者としての、あなたを信頼します。どうか、忘れず、あなたが成すべきことを、成してください。終わるべき世界に、明瞭な意思表示を期待します。
脳髄に直接響き渡るような声を聴いて、謂われのない記憶を、想起される。意識が遠のく。
あれはいつだったか。僕の意識が生まれた場所。あの、喧噪がフラッシュバックする。
「アラタ!」
呼びかける雅の顔が、視界に現れる。感覚は、現実に引き戻された。
「脳神経の根幹との接続完了ですね。少し意識が混濁するかと思いますが、それも数分で収まるはずです」
ふう、と息を吐き、ユカリは作業の手を止めた。その落ち着いた様子から察するに、このような作業には慣れているのだろうと思われた。
僕の両肩を掴んだままの雅は、心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「うん。少し頭がくらくらする以外は、いたって正常だよ」
「そう。良かった……限りなくゼロに近いけど、DDは意識を奪ってしまう可能性もあるから……安心した」
胸をなで下ろすように言った後、彼女は、目を伏せる。
「これで完全に君は私たちの共犯者になっちゃう。脅迫じみたことをして、強引に連れてきちゃって……ごめん」
凛とした雰囲気を持つ雅の、頼りない述懐に僕は、戸惑う。
僕がこんな場所に居る理由は、どう見ても雅の責任だろう。三園マイの発言を全て信じるならば、雅はこの国の根幹を揺るがす危険因子だ。だけど、僕にとってこの国の仕組みは守るべきものとは言えず、曖昧に拒絶していた意志は、雅の一言で可能性を見いだした。
――もう一度、始めよう。
ただ漫然と過ごす日々に、うんざりしていた。何かを欲していた。抗うためではなく、選ぶための力を欲していた。
「誘拐犯が弱気になるほど厄介な状態はないよね。せめて、悪者らしくしてもらいたいところだよ」
不躾に言うと、雅は顔を上げ、呆気にとられたように僕を見る。そして、耐えきれず吹き出すと、
「……君はほんとに、つかみ所のない人だね」
「お互い様だよ」
確かに、と雅はなお無邪気に笑う。
僕の日常に、不意に振ってきた現実は、思っていたよりずっと、柔らかい姿をしていた。彼女と共にいれば、何かを見つけられるかもしれない、と思う。強引で強情な魔法使いが、僕をどこかへ連れてってくれるかもしれない。そんな現状にそぐわない思考を浮かべている。判然としない、取り留めもない妄想のような、感情を。
「えー、あの、非常に申し上げにくい空気なのですが、お嬢。少し、マズいことになりそうなんですが……」
向かい合った僕らを伺うようにして、ユカリが告げた。気づけば、僕と雅の身体は触れてしまいそうなほど近づいていた。
「ご、ごめん」
「いや、私こそ……」
お互いに気まずさを隠せないまま、立ち上がる。心なしか距離をとった僕らに、ユカリは告げる。
「ディスチャージ部隊の人間が、この場所に近づいているようです。恐らくは二人。一人は手練れ、もう一人は……DDの扱いに慣れてない素人ですね。……払いのけるのは容易かもしれませんが、地下の状態もありますし、場所を変えたほうがよいかと」
早口で捲し立てるユカリは、ファンクションコントロールアプリを再起動し、雅に判断を仰いだ。
「そうだね……エリア3内に入って迎え撃ったほうがいいかもしれない。極力この場所から離れよう。地下施設を攻撃されたらマズいし。それに、現状戦えるのは私と……アラタくらいだからね」
綺麗に整頓されたホテルのような建物の地下に、何があるというのか。彼女達は、この場所を攻撃されると問題がある様子だ。どこか僕を蚊帳の外にした会話のように見えて、来たるべく脅威に対する戦力として数えられていることが、不穏で仕方ない。
「あの……僕も、戦うの?」
ほんの少し前まで、僕は一市民だった。それは今も大きくは変わらないはずだ。雅は、
「いや、そうならないように善処するよ。DDを適合したばかりで、使いこなすのは不可能だし」
と肩を竦めた。
「大丈夫。エリア内に入っても、ファンクションコントロールアプリさえあれば、私に敵う奴なんていない。まあ、仮に追跡者がマイだった場合は、如何ともしがたいけどね」
戯けるように言う雅の顔に迷いはない。きっと、迷うことなどとうの昔に捨ててきたのだろうと思わせるような、凛とした姿がそこにある。
レプリカセフィロトを抱えたユカリは、僕の横に立つ。
「とにかく、ここから離れます。二階堂さんは、子ども達に地下へ向かうように、と伝えてください。伝えれば、あの子達は理解します」
フロアの端で、無邪気に走り回る子ども達が目に映る。もし、この回避地が危機に晒されれば、あの子達は、真っ先に犠牲になってしまう。
「分かった。でも、その先はどうすれば……」
「このビルの出入り口に、移動用バイクがあります。自動運転機能がありますので、それに乗ってきてください。戦闘中、セフィロトが灯す光が宙に見えると思いますので、それを頼りに」
「僕が行って、何が出来るんだろう……それに、雅一人でどうにかできるのか……」
たった二人のディスチャージ。その二人がエリア3管制塔の総意でこちらに向かっているにしても、命令に背いた少数行動だったにせよ、簡単に退けられる相手だとは思えない。それに、ウィザードの行動制限も気になる。雅が戦闘中に、三園さんのような昏睡状態に陥るということは考えられないだろうか。そうなれば、状況は逼迫だ。
「もしかして、お嬢を疑っておられるのですか?」
眉根を寄せ、ユカリは不機嫌な表情を浮かべる。
「いや、そういうわけじゃなくて。万が一のことを考えたらさ。その……ウィザードには活動制限があるんでしょ?」
しどろもどろで僕が捲し立てると、ユカリは一瞬俯いて、再びこちらを見据えた。
「……少し語気が強くなってしまい、申し訳ありません。仰るとおり、確かにお嬢には、ウィザード特有の活動制限があります。ですが、エリア3のシグナルをファンクションコントロールで遮断している間は、その現象も抑えることが出来ます。何にせよ、万に一つの心配をしている余裕は私たちにないのですよ。このような混迷が続くことは、数日前、エリア4より脱出したときから分かっていたことですから……」
落ち着いているように見えるが、彼女達はずっと、いつ寝首を掻かれるか分からない状態なのだ。冷静に思考する時間が余りあった僕とは違って。
「大丈夫です。お嬢は、ウィザードの中でも群を抜いた力があります。そう簡単には、負けません」
自分に言い聞かせるように、ユカリは呟いた。
その後、子ども達の元へ向かう僕に、ユカリはDDの使用方法を簡単にだが、伝えた。
現在、DDは僕の官制計内の残留シグナルをかき集めている状態だという。その作業が終わるのに数十分。作業が終われば、DDは内蔵シグナルを他者への攻撃に使用するため、起動する。しかし、
「二階堂さんのDD……いえ、二階堂さん自身が、どのような機能を持っているのか、そればかりは分かりません。それこそ、二階堂さんの言う、万が一の事態になった場合は、やむを得ず、使用してもらうしかありません」
そうなると、賭けですが。とユカリは苦笑する。
いろんなことが曖昧なまま、それでも、世界は待ってくれない。これは、僕が自ら足を突っ込んだ選択だ。ただ、僕はまだ、決めかねているのかもしれない。
本当に、システムに抗うのか。本当に、今までの全てを捨てられるのか。ここまで来て僕は、迷いを振り切れないでいた。
想像を超えた突飛な現状は、僕の心情をなで回すように蠢いて、それはとても、不快な気分に陥らせるのだった。
地下に向かってくれ、と告げると、子ども達は拍子抜けするほど簡単に踵を返し、地下へ向かう階段を駆けていった。
子ども達を見送り、フロア内に戻ると、そこにはもう人影は見当たらない。
僕は、ユカリの指示に従い、階下へ降る。思えば、目覚めた時から、ここが地上何階であるのかさえ量りかねていたと、思い返す。
結果から言えば、僕らがいたビルは地上四階の、ビルと言うには些か低い建物だった。出入り口を抜けると、カーポートのような場所があり、そこに伝え聞いていたバイクが置かれていた。バイクは既に起動状態にあり、僕がまたがると、ゆっくり稼働し始める。ハンドルを握り、前傾姿勢を保つ。バイクの速度は三〇キロ前後に保たれ、そのゆったりとした速度は、僕に周囲の風景を眺める余裕を与えた。
一見すると、回避地はかつて多くの人々が住んでいたであろうと予想された。道路は綺麗に舗装され、その両端にそびえ立つビル群は、明かりこそ灯っていないものの、老朽化した様子はない。それ故に、人一人いない街の中は異様な空気を醸し出している。
ここは何故、RECシステムが配備されなかったのか。そして、この街にいたはずの避難民、そして、住民は、どこへ行ってしまったのか。もしかすると、偶発テロの後、エリア3、エリア4の何処かへ越していった可能性もある。
多くの疑問を抱え、悶々としている僕の眼前に、空を眩しく照らす光の柱が現れる。距離は近い。その光は眩いまま、僕を呼んでいるようだった。
がたん、とバイクが段差を降る。その衝撃に驚いていると、突然景色が開けた。
回避地を出た、と分かったのは、目立った分岐点があったからではない。
目前の出来事が、僕を回避地からエリア3内に戻したのだと、理解したからだ。
ビル群の先に、開けた広場。いや、広場と言うにはあまりに広大な平地が、回避地の外には広がっていた。遠くにエリア3の管制塔、そして、煌々と光り輝くエリア3の市街が見える。僕は本当に、世界の一部しか知らなかったのだと、思い知らされる。
荒涼とした平地を見回すと、所々、地面が反り上がり、一部はえぐり取られたように穴が空いていた。そして、恐らくはその原因を作ったであろう人間と、僕の視線は交わる。狂気的な眼をした男が、光る鞭のようなものを携え、佇んでいる。その横で、光の壁に包まれ、蹲る少女。男は、交わった視線を直ぐに外し、別の方角を眺め見ている。そして、男の横にいる少女を見て僕は、呟く。
「……九音さん?」
停止したバイクから下りた僕は、殺伐とした空間にはそぐわない九音ユイカの姿に驚愕する。
しかし、その驚きは、すぐに冷めることになる。
「二階堂さん……到着早々申し訳無いんですが……」
僕の斜め前から、息も切れ切れのユカリが姿を現す。彼女の腕からは、血が滴っている。
「ユカリさん……それ」
「万が一……の事態が起きてしまいましたね……いやあ、二階堂さんの仰るとおりになってしまいましたか……」
不穏なことを口にするユカリは、続けて僕に訊ねる。
「あの少女……お嬢は二階堂さんと同じ高校の生徒だと言っていましたが、たしかですか?」
「うん……でも、なんで彼女がこんなところに……」
「恐らく、強制的にディスチャージに参加させられたんでしょう。しかし、彼女がいたことで、厄介なことになりました……」
はは、と頼りなく笑うユカリに、僕は訊く。
「……雅は? 雅はどこに?」
瓦礫だらけの広場に、雅の姿が見当たらない。辺りを慌ただしく見回す僕に業を煮やしたのかそうではないのか、静寂を切り裂くように、意地の悪そうな笑みを浮かべた男が、大声で叫ぶ。
「なあー。救援に来たんなら、相手してくれや。見たところ、お前も元はこっちの人間だろ? その銀色のDDは、エリア3の製造だからな」
遠目に僕のDDを指差す男。このデバイスがどのような経緯で製造されたかは知らないが、男は、自分と同じデザインのDDを見て、僕をエリア3の人間だと見定めたのだ。
「まあ、あれだ。三園様に仇なす奴は、誰だって敵だがな。なあ、新入り」
呼びかけられた九音さんは、脅えながら頷いている。男は、最も土塊がかさばった場所に視線を移す。そこに、屈んだ姿勢の人影が見えた。
「そこのウィザード……いや、堕落者が、リミットを外す前に、けりをつけねえと、な」
言うと、男は人影に向かい走り出す。光る鞭は、人影に向かい、叩きつけられた。人影は、月明かりの中、その影が、雅だと分かるまで、少し時間を要した。
「お嬢を、止めないと……」
ユカリは、腹に抱え込んだレプリカセフィロトを操作し、ファンクションコントロールアプリを停止する。眩い光を放っていたそれは、点滅を繰り返した後、消えた。
「何やってんだよ! ファンクションコントロールがないと、雅は動けなくなるじゃないか!」
ここはもう、エリア3の管理下だ。つまりは、三園マイが管理するネットワークの配下。その中で雅が正常な動きをするための、ファンクションコントロールアプリだったはずだ。そういえば僕は、ファンクションコントロールアプリについて詳しい部分は何も知らされていない。RECシステムを妨害するもの、という巷の噂レベルの知識で、ここまできてしまった。僕が考える以上に、入り組んだものが奥底に潜んでいる可能性だってある。
「違うんです。今これを稼働したままだと、お嬢が戻ってこられないんですよ」
ユカリの発言は、曖昧だ。男が言っていた、リミットを外す、という発言と、何らかの関係があるのだろうか。能力行使後にウィザードが昏睡状態に陥るリミット。そのリミットを外すとは……それよりも、
「雅が動けなくなったら……」
僕は、自分の手が震えている事に気づく。それだけじゃない、足も震え、顔はきっと硬直しているのだろうと、感じる。
「申し訳ありません。相手に、リスト以外の対外防波を持つ人間がいるとは予想外だったもので……お嬢は、想定より長い時間交戦しすぎました」
きっと、幾十にも対策を講じてはいたのだろう。リスト、というのは、相手の対策リストのことなのだろう。ほんの少しの交友だが、ユカリという少女が安直なミスを犯すとは考えにくい。この国の一エリアを下支えしてきた少女が、無作為に動くはずがない。
とすれば、この状況は、未曾有の事態だとは言えないだろうか。
想定外の能力を持つ相手。あの男ではない。きっと、九音さんのことだ。彼女は男が飛んでくる瓦礫にぶつかりそうになる度、光の壁を操作し、男を守っている。瓦礫を飛ばしているのは、満身創痍の雅だ。彼女は、今にも倒れそうな身体を押して、腕を振るう。
「お嬢を、助けてください。DDは、独立で稼働することができます。僅かでも、対抗する時間が作れれば、私がなんとかできると思いますので」
吐息を漏らしながら、ユカリは僕に懇願する。その眼は、曇りなく、一点に据えられている。
本音を言えば、少しばかり後悔していた。こんなことになるのなら、尻尾を巻いて、逃げていれば良かった。
でも、そうしなかったのは何故だ。
この世界の不条理に、眼を背けてきた僕に、与えられた選択肢。その選択の末、僕はここに居る。
誰の人生にも、唐突に選択を迫られる時がくる。それは、一度だとは限らない。生きている限り、それは何度も訪れる。
「どうなっても、恨まないでよね」
僕はもう、眺めるだけの人間でいたくない。
「お願いします。DDは二階堂さんの意識と繋がっていますので、念じることで起動します」
ユカリはそう言うと、レプリカセフィロトを使い、何処かへ交信し始めた。それと同時、鞭を振るう男が唸りを上げる。
「もう終わりかあー。大したことねーな、余所のウィザードはよ」
土煙の中、こちらを見据え、不敵に笑う男。男の手から伸びた鞭が、僕とユカリの立つ位置に飛んでくる。
「二階堂さん! 早く!」
突き刺すように明るい光の流線が、僕たちに迫る。
刹那、耳元で、あの声が再生される。
――身体信号感知。リジェクトシグナル構成完了。対象を、拒絶します。
なんだっていい。僕に力を寄越せ。迫り来る脅威を払いのける力を。選び続けられる、力を――。
リジェクト――。
光の鞭に向け、目を閉じたまま、腕を振り下ろす。何故そうしたのか分からない。身体が、そのように動いた。それに動作に添うように、はじけ飛ぶ光。直後、土煙で視界は閉ざされる。
目を開けた僕の前に、光る刃が見えた。僕の腕から真っ直ぐ前を向いて、突き出されている。徐々に晴れる土煙の向こうに、困惑する男の姿が見えた。
「おいおい……この女の上位互換かよ……聞いてねえぞ」
僕の腕から伸びる刃は、重さもなく、禍々しさもない。常軌を逸した現状に、僕自身、驚きはなかった。
しかしながら、脳内はぼんやりとして、鈍痛がする。
そこから、どのような動作をとったのか、あまり覚えていない。
ただ、何かを払いのけるように、懸命に、腕を振り下ろした記憶はある。
拒絶の力。それは本当に、僕らしいなあ、と他人事のように思いながら、僕の意識はゆっくりと、奪われていった。
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