1 【R・E・C リライアブル・エントロピー・コンプレス】
REC 01
崩壊の始まりは、いつだって何気ない日常から始まる。
そんな小説の一文を頭に浮かべていたとき、校内に僕を呼び出す放送が流れた。正確には、もう一人、多分女の子の名前も聞こえた。
校長室へ呼び出されるなんて、まるで問題児じゃないか、と他人事のような感想を抱いていた僕は、放送の告げるとおり、校長室へ向かう。
放課後の騒がしい廊下に出ると、視線を交えず会話する生徒達がたむろしていた。一様に宙を眺め、事あるごとに笑うその姿は、至極当然な光景のようでいて、僕の目にはやはり、奇異に映る。小太りの男子生徒は、嬉しそうに友人に語っている。
「今日の俺は、『機能向上率』が凄いらしいぜ」
会話の相手、痩身の男子生徒はこう返す。
「RECシステム様々だな。これのお陰で、無駄なことは一切しなくていい」
そう言いつつ、痩身の男子生徒の顔色は曇っている。その様子を見るともなしに眺め、小太りの生徒は、「ん? お前、悲観度が上がってんぞ」と笑いながら言う。
彼は、望まぬ行動予測を付与されたのだな、と僕は思う。そして、彼の抱える悩みは、僕が永久に感知できないものなのだろうと。
廊下の窓から階下を覗くと、やはり宙を眺め対話する生徒たちが見える。その目は、空を眺めているようで実は、互いをくまなく見つめているのだと分かっていても、些か歪さを感じてしまう。
この街では、皆が皆、他者を削り取りながら生きている。そんな風に錯覚してしまう僕は、やはりこの世界の異物なのかもしれないと自分を腐す。
僕が見ることのない世界を覗く彼らを横目に、小走りで廊下を抜ける。
騒がしい教室とはうって変わり、水を打ったように静かな校長室には、おどおどと周囲を見回す少女と、部屋に入ってきた僕に、鋭い眼差しを向ける少女がいた。眼光鋭い少女は、校長席の向こうで腕を組み、偉そうに屹立している。その強烈な眼差しを除いては、平凡で大人しい女の子に見える。僕が扉を閉めるのと同時、その少女が口を開いた。
「さて、よく来てくれたわね。落ちこぼれのお二人さん」
前言撤回。おとなしさとは真逆の、ずいぶんなご挨拶だった。
僕たちを眺め、ふふ、と笑う少女。肩まで伸びた栗色の髪に、黒目がちな瞳。その瞳が、僕を射すくめるように据えられている。
「どうしたの? まじまじと見つめて」
棒立ちする僕に、彼女は語りかける。彼女が立つ校長席の後ろ窓から西日が射し込み、その華奢なシルエットを神々しく演出しているように錯覚してしまう。間違いなく、錯覚だろう。確実に卑下している目だ、あれは。
応えない僕を余所に、彼女は、どこか芝居がかった、作り物のような口調で続けた。
「私は今日からここ、神園学園に転入した、
三園マイは、その幼げで可愛らしい容姿とは反して、同じ年の人間に向けるには少し、高圧的すぎる態度で僕たちに語りかける。僕の隣に立っている大人しそうな女の子は、緊張で目の焦点が定まっていないように見える。
「そんなに緊張しなくていいのよ、
「はいい……すみません」
三園マイに見据えられ、九音ユイカは、何度も頭を下げている。小柄な身体を更に縮ませて、九音さんは恐縮しきりだ。なんという腰の低さか。
「あなたは緊張していないみたいね、
九音さんに向けられていた視線は、僕の方へと照準が変わる。
「ええ、まあ……いつか、呼び出されることもあるかもな、とは危惧してましたし」
本当に、いつか烙印を押される日が来るんじゃないか、と思っていた。
「あら。それは聡明な判断力をお持ちで。ということは、いままで呼び出しをくらった生徒がどうなるか、その顛末もご存じということかしら」
「一応は」
三園さんは、「そう。なら、話は早いわね」と短く告げ、僕たちの目の前へ歩み寄る。
これはきっと、あらぬ疑いを掛けられているのだろう。僕が想定する方向とは異なった疑いを、三園マイは抱いている。そう思わせるような視線が、こちらを掴み、放さない。
分相応な暮らしを心がけ、度重なる嘲笑にも耐えてきた僕は、ついに、矢面に立たされたらしい、と遅ればせながら、不安になる。
僕、それにきっと九音さんも、特に問題を起こすような生徒ではないだろうし、僕に関しては、居ても居なくても、さして問題がないほどの生徒だという自覚があった。
ならば何故。そんな空気のような僕が、校長室に呼び出され、面倒事に巻き込まれようとしているのか。
それは、この世界の仕組みと、ここ最近起こっている問題が関係しているのかもしれない、と想像する。
今から五〇年前の二〇三〇年。
ここ日本で、人体機能促進ウエアラブルデバイス、『R・E・Cインターフェース』通称、官制計、という機器が生み出された。人間の首元に埋め込む形で機能するこの官制計が、首都を中心とした全ての国民の身体に埋め込まれたのは、今から十年前の二〇七〇年のこと。そしてこの年に、官制計強制付与を目的とした、機能分配法、という法律が生まれた。
二〇八〇年の日本を司る中枢機関、統合管制塔に設置された、セフィロトと呼ばれるマザーコンピュータ。それを起点として、国内一〇エリアに設立された管制塔へ配信される特殊電波、『RECシグナル』。このシグナルは、膨大な歴史の見聞から算出した情報量、過去の人間の実体験、現在の人間の行動経験則をデータ化し、個人の枠組みに収まる範囲に圧縮、そして一個人の管制計へ送信するものだ。脳とリンクした官制計は、使用者の脳神経に適したシグナルを再構築し、その身体に、様々な効能を与えるとされている。
曰く、刺激を与えられた一部の人間の脳は、本来発揮することの出来ない潜在的な可能性を生み出すこともあるそうだ。そうでない人間の場合でも、多くの公共サービスを視覚上の〝実世界〟に表示することが可能になり、従来、外部のデバイスに委託しなければならなかった様々な機能を、眼球に取り付けるコンパクトホロレンズを通して視覚上に投影し、直接操作、干渉することができる。
端的に言えば、官制計によって、個々人の体そのものがネットワークと接続した受信デバイスになっている感じだろうか。街中で何もない空間を指でなぞり、公共サービスを使用する人を見かけるが、誰もその行為に違和感がない。それほど、官制計を使用したネットワークは当然のものになりつつある。
ただ、あくまでそれは、システムの大枠でしかない。
リライアブル・エントロピー・コンプレス、確かな情報量の圧縮と銘打たれた『RECシステム』の効能は、大きく分けて二つある。
まずは、身体能力を促進させるシグナル付与により、〝他者の感情曲線〟を感知することが可能になったということ。これは、他者の感情を読み取ることで、柔軟なコミュニケーションを目論むものだ。だが、セキュリティ上、この感知機能は任意でのロックも可能で、思考が全て筒抜けになる、という心配はない。飽くまで伝わるのは喜怒哀楽の大まかな波長だけ、とされている。
他にも、この促進電波の主立った効能として、セフィロトに蓄積された膨大な経験則データを元に、個人の行動範囲や生活動作に添った、〝行動基準予測〟を算出することも出来る。過去の人々が経験した情報を内包したセフィロトは、特定の個人に向け、その日ごとに予測される事態、そして、適した行動の指示を送信する。
例えば、『何時何分に食事を摂れば、後日の身体機能が安定する』というものから、『危険が予想される地区のハザードマップ』など、セフィロトが演算した多くの経験則に基づいた所謂、未来予測を、一個人が容易に閲覧できるようになっているのだ。
この予測は、社会システムの中にも取り入れられていて、個人の裁量で判断不可能な事態には、RECシステムの予測に頼る場面が多々あるそうだ。中でも、個人向けに日々配信される〝機能向上率数値〟は、その日の身体状態や周辺情報から一日の身体が行うべき最良の適正を示し出す。次点の行動を、より安全で無駄のないものにできるとあって、このサービスを盲目的に信用する人も多いと聞く。
そして、問題はもう一つの効能のほうだ。
身体機能を限定的に制限する抑制シグナル。これは主に、重篤な違反行為に身を落とした人間に課せられる信号電波なのだが、公に使用されたという情報はない上、詳しいところは一般市民である僕には預かり知らずだったりする。
この概要不明の抑制シグナルは、RECシステムに送信された個人の感情曲線を元に、セフィロトが危険思想をもつ人間をあぶり出すのだ、と噂されている。根も葉もない噂は、文字通り抑制作用を持ち、犯罪はここ数年、大幅に減少している。なんでも、抑制シグナルを付与された人間は、自由行動が制限され、セフィロトの管理下で人形のように操られるのだそうだ。
あくまで噂の域を出ない話だが、RECシステムの構造上、不可能と言い切れないのも事実ではある。
このシステムの稼働当初、脳への直接介入や、ある一定の〝操作〟は、人権を無視した行為だと、多くの反対運動が行われていた。それもそうだ。歴史に基づいた情報などと言われても、その仕組みも、正体も判然としないシグナルを、自分の脳内に送り込むなんて、正気の沙汰ではない。本来、固有、自立を主とするはずの脳機能を、他者に管理されるようなもの。そう声を荒らげた人々の主張は、世論を巻き込み、一時はRECシステム研究そのものの存亡を危ぶませたと聞く。
だが、分配法成立の要因となった一〇年前の国内偶発テロにより、反対運動は也を潜めることになる。いや、黙らざるを得なくなった、というだけかもしれない。僕は当時幼く、大人達の焦燥感には気づけなかったが、一〇年前この国は一度、コントロールを失いかけた。
現在でも、公に批判しないものの、全ての国民が管制塔に紐付けされたように生活している異常性を、不快感を含め、非難する人は少なくない。
情報、機能をデータとして圧縮し、それを均等に分配するための公的システム。そして、それを社会に適応させるために成立した機能分配法。ネットワークはその名の通り、情報伝達も双方向。与えられた分、吸い取られもする。多くは、僕たちの知らぬ所で動き、したり顔の大人達でさえ、システムの起源に触れようとする者は少ない。そもそも、僕たちのような学生の中には、官制計やシステム自体を国が管理するゲームシステム、くらい安直に考えている人間だっている。
時が流れれば、恐怖でさえ、薄れていくのかもしれない。例えその恐怖の正体が、人を、人とも思わない惨劇だったとしても。
兎にも角にも、二〇八〇年の現状、この国は、成すべき者によって統治された社会とも言える。いや、過去の成した者たちの経験によって、かもしれない。
規律と秩序の代わりに、個人の予測不能な可能性、または個々の自由思想を暫定的に失っている状態だとも言える。
だが、皮肉なことに現在の平和状態は、RECシステムによって保たれている。その存在に意を唱え、何らかの蜂起を試みることは、この国を再び混乱に陥れる行いに他ならない。
そんな時勢の中、最近になって、RECシステムを脅かす問題が発生しているという。一般人の僕らの耳にさえ届く、この国の危険因子の話がある。
「ファンクションコントロール、って知ってるかしら?」
三園さんは、僕たちを見定めるように、訊ねる。
「それを、僕たちが使用してるとでも?」
訝しげに答えた僕に対し、表情を変えないまま、三園さんは言う。
「その可能性は否めないわね。この学園で怪しいのは、あなたと九音さんだけだもの」
言われて、九音さんはビクンと体を硬直させた。僕は、至って冷静だった。
ファンクションコントロールアプリケーション。今、巷を賑わせている諸悪の根源たるそれは、管制塔からのシグナルを一時的に遮断し、官制計の内部で仮想ネットワークを独立構成出来るという代物だ。疑似ネットワークとはいえ、個人を中心にして周囲に影響を与えるファンクションコントロールは、RECシステムのネットワークで繋がれたこの国の危険因子とされている。このアプリは、多くの都市で使用形跡が確認されているらしい。
管制塔以外からのシグナルを受けることは、基本的には違法とされている。重ねて言えば、ファンクションコントロールはアプリは、その目的も、出所も不明な代物で、多くのきな臭い噂に紛れて、本質が掴みづらいと聞く。
僕は問題児ではないけれど、神園学園に通う他の生徒達に比べ、劣っている部分がある。いや、欠落と言ってもいい。その欠落部分を指して揶揄されることや、あらぬ疑いを受けることには慣れていた。しかし、ことファンクションコントロールに関しては、まるで身に覚えがない。
だが、目の前にいる三園マイという少女が何者であれ、僕は今、疑われ、もしかすると、裁かれようとしているのかもしれない。その所感が確信に変わったのは、三園さんの、疑いの眼差しと、只ならぬ威圧的な雰囲気からだった。この人は、絶対、ただの転校生などではない、と僕の本能が語っている。その疑問を投げかける。
「そもそも、三園さんは何者ですか? ただの転校生が、校長室で待ち構えてるなんて、異質そのものなんですけど」
「そういえば、私の身分を伝えてなかったわね。私ともあろうものが、しくじったわ……」
私は、こういうものよ、と三園さんは、僕と九音さんに名刺を差し出した。その名刺に目を落とし、僕は驚愕する。
「へ? 管制局局長?」
名刺には、『エリア3管制局局長 三園マイ』という肩書きが記されていた。
「そう。私はここからも見えるあの管制塔でこのエリアを管理しているものよ。転校生ってのは、方便ね。あと、制服? っていうのも着てみたかったし……」
悪びれもせず白状した後、三園さんは、制服のリボンを愛でるように触り、微笑んだ。その仕草だけを見れば、とても、威厳のある職務に就いている人とは思えない。
校長室の大きな窓の外に目をやると、空に届きそうなほど高く伸びた、エリア3管制塔がそびえている。かつて東京都と呼ばれたエリアを現在ではエリア3と呼び、そのエリアを管轄する管制塔を三園さんが管理している。
「いやいや、なんでそんなお偉い様がわざわざ? 僕らはそんなに……」
「怪しい生徒がいるので、指導お願いします、と頼まれてね。ダメな生徒を救う女神のような私……なんて美しいの」
管制局局長ということは、このエリアで最も力を持つ人物である。そんな人が、わざわざ訪れるほど、僕たちは厄介な状態に巻き込まれているのだろうか。それにしても、なんでこの人自分の発言にウットリしてるんだろう。彼女の目は、どこか虚ろだし、危険な雰囲気が漂っている。気を取り直し、訊ねる。
「あの……」
「なにかしら? 二階堂君?」
「わざわざ管制塔から三園さんのような立場の人が来るってことは、やっぱり僕たちは、労働局送りになるんですかね?」
冗談めかし、何もしてないのに? と言おうとした側から、三園さんが覆い被せるように訊ねる。
「行きたいの? 労働局に。珍しいのね、あなた」
「そ、それだけは、やめてくだしい!」
僕の横で大人しく佇んでいた九音さんは、必死に懇願する。焦りのあまり、噛み噛みだった。
神園学園を始めとした高等学校の劣等生や、犯罪者予備軍である『機能制限者』が送られると噂されている労働局は、管制塔の電波も届かない地下の牢獄施設で、非人道的な扱いを受けつつ、ほぼ無意味な反復作業を繰り返させる場所なのだと聞く。 皆、幼い頃から大人達に、「労働局に行った人間は卑賤なもの」「人権もなにもない場所」と何度も聞かされて育ち、あの場所に行かないように、頑張って勉強しなさいと口を酸っぱくして言われたりしていたらしい。
「落ち着いて九音さん。私はそんな話をしたいわけじゃないの」
僕に対する高圧的な態度とはうって変わり、三園さんは九音さんに優しく語りかける……が、
「キョクチョウサン……ワタシ、ダメ、ロウドウキョク……イヤァァァ……」
九音さんはまるで話を聞いていない。先ほどから九音さんは、手渡された名刺を持ったまま、ブツブツと悲観的な言葉を吐いて、震えている。というか、最早泣いている。そんな彼女を横目に、僕は話を続ける。
「例えばもし、もしですよ、僕らがRECシステムから逸脱した劣等生だったとしても、エリアを管轄するお偉い様が手間を掛けるわけがないでしょ?」
自分で言っておいて、逸脱、という言葉が胸に刺さる。
「二階堂くん、想像していたより数倍冷静なのね。成績が悪いと聞いていたから、もう少しおバカなのかと思っていたわ」
なんとなく気づいてはいたけど、この人、口悪くない? まあ確かに、学内での成績が芳しくないのは事実だけど。
神園学園の教育ネットワークが示し出すRECシステムとの親和性を表す学内ランクで、僕は毎度ぶっちぎりの最下位を記録している。この場所に呼ばれているということは、恐らく九音さんはブービーなのだろう。RECネットワークから適正判定をもらえないとなれば、高校卒業後の生活は悲惨なものになると予想される。だから、あながちおバカというレッテルも、この世界の仕組みからすれば、真っ当な意見だ。ただ――
「そもそも学内ランクに関しては、いろいろと言いたいことが……」
「まあ、お察しの通り、というか、あなた達のことはあくまで〝ついで〟でしかないわ。本来の目的は、ある事件についての隠密捜査」
あの、僕の話、聞いてます? それに、何も察してはないんですが。
「そういうの、僕らに言っちゃっていいんですかね?」
「いいの。いざとなれば、あなたたちの機能を停止させればいいだけだし」
さらりと恐ろしいことを言わないでほしい。確かに管制塔を管理する局長様なら、マザーコンピュータを操作して、官制計に過剰な負荷を掛け、廃人にすることだって可能だろう。
「実は、エリア3の会合であなた達二人の労働局送りを提案した局員がいたの」
九音さんは「イヤァァァァ」という悲鳴を上げて、頭を抱えた。やめてあげて!
「落ち着いて九音さん。その提案は私が別案件に取り替えたわ。……いくらあなた達が受信不全症だとはいえ、違法者扱いはあんまりだもの」
「なんだ、知ってたんですね……てっきり、疑われてるのかと」
「勿論。ちょっとからかっただけ」
今までの茶番は何だったんだ、と憤ったが、そもそもこの人の発言は、全てが胡散臭い。何にせよ、最悪のケースは免れたと、少し安堵する。
「機能分配法なんて言いながら、均等に分配はできていないのよね。ファンクションコントロールアプリ然り、あなた達然り。大変ね、情報が受けられないっていうのは……」
顔色を曇らせ、三園さんは僕らを眺め見る。
この世界に過去、人類を悩ませた障害はほとんど消えたと言っていい。脳機能の解析技術が発達し、身体機能の正常化、進化は容易になった。
ただ、官制計が出来たことにより、新たな障害が生まれたのも事実だ。
受信不全症。僕らをこの世界から、逸脱させる原因となる病。僕は、僅かな動揺を悟られぬよう、努めて軽々しい言葉を選ぶ。
「まあ、僕は特に困ってはないですよ。一応補助サービスは受けられますし、頭の中がごちゃごちゃしてなくて、案外楽ですしね」
受信不全症は、官制計に蓄えた電波情報が脳に送られない状態に陥る現代病と言っていいものだ。症状は、全ての国民に官制計が埋め込まれ、一〇年が経った今でも改善されず、その原因は不明とされている。
そんな受信不全症の人間への対策として、個別に腕輪型の補助補助デバイスが貸し出されており、僕たちは外出の際、そのデバイスを介して、ネットワークを一部閲覧し生活している。外部デバイスに更新される受信情報の閲覧は可能なのだが、街中の人々や、学内の生徒達のように、情報を脳内に組み込み、機能促進に役立てることや、個人的にネットワークと接続することは叶わない。仕組みから外れた生き物が、僕たち受信不全者ということになる。
「そう……周囲と隔絶されることは怖いことだと思うけれど……」
僕たちを気遣ってか、三園さんの表情がにわかに曇る。しかし、その直後、
「ま、それは置いといて」
話題転換が下手くそだな、この人。一瞬だけでも見せたしおらしい態度は何処へやら、三園さんは不敵な笑みを浮かべ、改めて告げた。
「私がここに来た理由は、あなたたちに捜査の手伝いをさせたかったからよ」
的を射ない発言に、先ほどまで狼狽していた九音さんも、その動きを止めた。
「手伝いって……なんかヤバいことに巻き込まれるんじゃ……」
警戒しつつ言った俺を眺めて、ニコリと笑みを溢す三園さんの目は、全く笑っていない。そのお手伝いが、碌なもんじゃないことは、容易に想像できる。
「僕らに拒否権はないん……」
「ないわね」
最後まで言わせて。
「どうしても拒否するというなら、局長権限で、人間としての機能を停止させて……」
明朗に語る三園さんから逃げるようにして、壁際に駆けていった九音さんが、「キャァァァァ」という奇声を挙げて蹲っている。もう、九音さんのメンタルがピンチ。
「いやいや、そんなことはできないんでしょ? せめてその、捜査? の内容を教えてくださいよ。九音さんが再起不能になったらどうするんですか。虐めですか」
「あら、バレてた? ごめんごめん。ちょっとからかいすぎたかしら」
「各エリアの局長『ウィザード』でも、流石にそこまでの権限はないでしょうから。それに、僕たちは官制計とのリンクが遮断されているんですから、そもそも機能停止シグナルなんてものすら受けられませんよ」
「詳しいのね。意外だわ」
口元を歪め、三園さんは笑う。詳しいというか、噂話くらいなら、多くの人が聞いたことがあると思う。
管制塔には魔法使いがいる。正確には、その名に等しい超常的な能力を駆使する人間がいると。
国内一〇エリアそれぞれにそびえ立つ管制塔には、過剰な演算能力を脳に携えた所謂、超能力に等しい力を持つ人物が各所に配置されているという話で、特別指導校に学内ランクという序列制度が存在する理由の一つは、このウィザードに至る可能性を持つ者を育成する目的があると噂されている。
ウィザードの能力は多種多様で、各々が人知を超えた能力を持っているらしい。そもそも今の日本を統括する管制塔のシステムは、ウィザードの脳回路を解析したものだ、とも言われている。
三園さんの言う捜査の手伝いとは、恐らく、ファンクションコントロールアプリに関する事案に違いない。きっと、僕たちが、管制塔からの干渉を遮断する体質であることを利用しようというのだろう。管制塔からのシグナルに管理されている人々には、RECシステムの性質上、イレギュラーな行動は許可されていないし、その上、ネットワーク妨害を行えるアプリが相手となると、RECシステム管理下の人間には不利だ。
「私のお手伝いは、初心者にも出来る簡単なお仕事です。和気藹々、愉快に楽しみましょう」
三園さんは人差し指を突き出し、高らかに告げた。
いや、それ、ものすごく危険な香りがするんですけど……と怪訝な態度を示す僕に構わず、三園さんは説明を始める。
「あなた達は、私に付いてくるだけでいいわ。今から少しだけ細工をさせてもらって、それから私と共に付いてきなさい。私に付き従えるなんて、光栄だと思わないと……」
「付いてくる? おもり、ってことですか?」
さらりと細工、とか怖いことを言われた気もするけど、大丈夫だよね? それにしても、言動が安定しない人だと、思う。
ともあれ、三園さんは僕の発言が不服だったのか、こちらを蔑むような眼差しで睨んでいた。小柄で童顔な三園さんを見て、率直な意見を言っただけなのに。
「ははーん、二階堂くん。どうやら私を舐めているようね」
三園さんは僕の眼前に立ち、腰に手を当て、威嚇するように睨んでいる。ただ、小柄な身体故に、僕を見上げる形になっているので、大した威圧感はない。
「わかりゃせて……あ、げ……」
「どうしました?」
急に呂律が回らなくなった三園さんは、ふらふらとよろめいた。そのまま僕の肩に覆い被さるように、彼女は倒れ込む。
あまりに突然の出来事に狼狽える僕と九音さんの背後から、扉を開く音がし、人の気配が近づく。
「あれ。もうリミットが来ちゃったみたいだね、マイちゃん。ごめんね、君たち。彼女が余計な話ばかりしちゃったんでしょ、きっと」
振り向いた先には、この学園の校長、
久々に見た東神校長は相変わらず目元にくまを作り、ぼんやりとした印象を受ける人だと感じる。
やれやれ、とぼさぼさの髪を掻きながら、東神校長は三園さんを抱え、椅子へと運んだ。確かに、余計な話ばっかりだった。それは間違いない。
三園さんが見ていないと分かった途端、メンタルクラッシュ寸前だった九音さんが、息を吹き返したように口を開いた。
「あの……三園さん、どうしちゃったんです……か?」
東神校長は、僕と九音さんを交互に見た後、静かに語り出した。
「ああ、唐突なことで驚いただろう。彼女はね、ある一定の規制がかかっているんだ。彼女が管制塔から来たってことは、もう聞いているよね?」
僕らは、黙って頷く。
「彼女はRECシステム運営を任された人間だ。あの塔で育ち、これまで、このエリアを管理するセフィロトと共に生活してきた」
管制塔の中核にあるとされている、膨大なデータを送受信するためのコンピュータ、セフィロト。統合管制塔に設置されているセフィロトに紐付けされた各エリアのレプリカ。その構造の内部や実像は、一般市民には秘匿されているし、そのコンピュータの管理を、三園さんたちウィザードが行っているという事実も、明確に知らされたのは初めてだ。それにしても、なんてスケールの大きい話だろう、と気が遠くなる。
押し黙る僕を余所に、先ほどまで生気が感じられなかった九音さんが、脅えつつも訊ねた。
「それと、三園さんがそうなっていることには関係があるんですか……?」
「そうだねえ。マイちゃん達は、普通の人間とは異なる脳神経回路を持っているから、管制塔の外に出てしまうと、リミットがかかってしまうんだよ。まあ、人知を超えるとも言われるウィザードが、外部で危険な行動をしないための措置が、この状態って感じかな」
椅子に項垂れて座る三園さんを一瞥し、東神校長は言う。僕は、淡々と話す彼に尋ねる。
「そのリミットは、決まった時間に起きるんですか?」
「管制塔外部に出た場合においてのみ、能力使用による負荷が掛かる。能力を行使した数分後にリミットがかかり、彼女は眠る。その時間はおよそ一〇分程度だね」
「でも、三園さんは僕たちに『付いてこい』って言いましたよ……その、ファンクションコントロールアプリ関連の事件だかに……」
「そうだね。正確には彼女は捜査に参加しない。この状態では、足手まといもいいところだからね」
怪訝な態度を見せる僕に、東神校長は先回りするように告げた。
「僕たちのほうこそ、何の力もないんですけど……?」
ウィザードがわざわざ街に出向くほどの事案に、僕たちのような人間が帯同できるとは思えないし、本音を言えば、危険そうな事態からは極力逃げたい、というのもあった。
「君たちでないと出来ないことなんだよ。いや、君たちにしか可能性がない、とも言えるね」
曖昧に言葉を濁す東神校長は、僕たちに向き直り、言葉を継ぐ。
「既に状況は急を要する、って感じかな。正直、マイちゃんをここに連れてくるのも一苦労だったんだよ。それでも君たちを回収しなければ危険だと、賢人会が判断した。特例として、マイちゃんの外出を許可したのも、致し方ないと言うべきか」
急を要する事態、そして賢人会という聞き慣れない言葉に困惑する僕を一瞥して、東神校長は、視認公共ネットワーク上にモニターを立ち上げる。
「まずは、現状の把握をしてもらいたい。そして、危険に身を投じるかどうかは君たちの判断に任せる」
簡素な校長室の空間上に、いくつもの画面が映写され、僕たちの目の前には、無数の情報媒体が顕現した。旧式の立体ホログラフに、多くの情報が羅列している。四方を囲む文字列や写真に少し、目眩がする。
「これなら、君たちでも閲覧できるよね?」
画面を操作しつつ、彼は訊ねる。
彼はこの学園の校長で、勿論、僕たちの欠点については把握しているのだろう。
僕と九音さんのような受信不全症の人間用に、官制計を介在せずとも閲覧出来る方法は存在する。しかしまあ、官制計を使わない以上、僕たちの目の前に直接モニターが現れることはない。個人が展開する視覚上の画面を、公共のネットワークに委譲し、公共物として、展開しない限りは。
何というかややこしい話のようだけれど、要するに、今この部屋に現れているモニターは、東神校長が、学内の情報ネットワーク(ライブラリ)に直接アクセスし、そこから衆目の現実空間に投影しているに過ぎないというわけだ。官制計を正しく機能させる連中は、こんな風に誰かに頼らずとも、個人でネットワークに干渉できるのだから、この状況がいかに、前時代的で回りくどい方法なのかは猿でも分かる。
「僕たちはいつも、紙媒体でテキストを見てるもんで、なんか、目がチカチカしますね」
戯けた調子で言うと、東神校長は、僅かに微笑む。
「君たちはいつも純粋な空間風景を見ているだろうから、少し羨ましくもあるよ」
羨ましい、だなんて言われたのは、ほぼ初めてだろうと思い返す。そぐわない、社会のはぐれ者と揶揄されることはあっても、そんな風に表現されたことが意外に感じる。
「まあ、まずこれを見てくれ」
東神校長が指差す先に目をやる。その情報を見て、僕は首を傾げる。
「エリア4との交信が遮断?」
エリア4は、旧東京都であるエリア3の周辺地区を管理する地区の総称だ。かつて存在した関東近郊地区の管理は、中心のここ旧東京エリア3を除き、エリア4のウィザードが行っている。
「こんなことは以前にもあったんですか?」
「いや、管制塔にウィザードが配置されて以降、こんな事態は初めてだ。それに、交信ができないだけじゃなく、より厄介な状態が起きていてね……」
東神校長は、空中の画面をスクロールする。
「これだ」
画面上に記された報告文からは、只ならぬ状況が想像出来る。
「ウィザードの失踪……?」
画面上には、数日前にエリア4管制塔から、ウィザードの反応が消えた、と記されていた。
「本来なら、ウィザードが外出することは叶わない。それは、マイちゃんの状態を見て、分かるよね?」
過剰な演算能力を持ち、この国のネットワークを操作できるウィザードに課せられた措置。管制塔外部での活動制限。その現象を、僕たちは目の前で見た。
「ウィザードはその職務上、常時倫理ネットワークに接続して内部から地区管理を行っているんだ。仮に、今回のように外出したとしても、その管理権限から逃れることはできない。外部でまともに動けないのに、管制塔のマザーシステムに逆らって逃げようとするウィザードがいたら是非お目にかかりたいものだが、実際、彼女はそれを叶えたわけだね」
話によると、ウィザード達にとって管制塔は、謂わば、監獄に近いとさえ感じる。
今回の三園さんのように、職務上の都合で外出する際には、繋がれたネットワークから、リミットがかかる。なるほど、合理的な方法だ。あまりに的確で、常軌を逸している。
「とても人道的、とは言えませんね。まるで、人柱だ」
皮肉を込めた僕の発言に、東神校長は顔色一つ変えず答える。
「それが、彼女達の使命だからね。そのあたりは、僕程度がどうにかできるわけもない」
少し表情を固くした東神校長は、「話の続きをしよう」と、画面を操作する。
「問題はエリア4のウィザードが管理権限から逃れられたことにある。恐らくは、何らかの反逆活動の為、統合管制塔マザーからの介入をも遮断し、外部へ逃走した、と推察している。更に、その事象との関連性は不明だが、RECシステム下の一般市民が、謎の昏睡状態に陥るという現象も発生している」
この国の管理システムの全ては、セフィロトと、各エリアに存在するレプリカ、それを管理するウィザードの順に紐付けされている。三園さんの状態を見るに、特にレプリカとウィザードは一蓮托生の関係と言ってもいいのだろう。つまり、そのどちらかが欠けるということは、この国の安寧を根幹から揺るがしかねない。
それにしても、と思う。
こんな国の重大事項のような案件を、僕たちに伝えるメリットがあるだろうか。
RECシステムの安寧が脅かされていると聞かされて、実際に損害が現れていると知って、一般市民が混乱しないわけがない。この事態を知って、僕自身は、それほどの恐怖を感じないけれど、それは僕が受信不全というものを抱えているからであって、東神校長や三園さんが、この現状を公開する理由が判然としない。
「あの……大変なことが起こってる、っていうのは分かりました。でも、受信不全をもっていると言っても僕たちは、あくまで一般市民ですよ。こんな、手に負えない現象を伝えられても、どうしようもないというか。僕たちみたいな、落ちこぼれじゃ……」
落ちこぼれ、という言葉に反応した九音さんが、体をビクッと揺らす。
「そう卑下するもんじゃないよ、二階堂君。マイちゃんは説明が下手だから伝わらなかったと思うけど、あれでも彼女は君たちに期待しているんだ。いや、彼女は、このエリアの全ての人に期待しているのだろうけど……」
どこをどう聞いても、あの人は俺たちを馬鹿にしてたんですけど……。
「期待されても……僕たちにはこの国のネットワークは使えませんし、足手まといになるんじゃ」
「使えない人間でないと困るんだ。今回、相対するのは、システムに反するものだからね」
温厚な口調で話し続けていた東神校長が語気を強め、相対する、と繰り返す。
「その、相対する相手っていうのは、その脱走したウィザードですか?」
「そう。エリア4ウィザード、
東神校長の発言に、九音さんは脅えつつ、口を開く。
「システムダウンって……じゃあ、今、エリア4は……」
「完全に、コントロールを失っている、と予想されるね」
エリア間の交信は、ウィザードを介して行われるため、交信相手であるエリア4の管理者が不在の今、こちら側からの呼びかけは無意味なのだろう。
「もう少し穏便な手段を講じたかったんだが……エリア3にも、外部から攻撃された形跡が見つかってね。マイちゃんが未然に関知して防いだおかげで、システムに問題はなかったれど、どうやら、相手さんは本気でこの国の根幹を揺るがす気らしい」
エリア3管制塔の管理下にいる人間には、ネットワークから逸脱する行為が認められていない。もし仮に、エリア3のコントロールを乗っ取られでもしたら、このエリアの人間は、その乗っ取りを行った人間の支配下に置かれることになる。
それを防ぐ唯一の手段。管制塔シグナルの外にいる人間を使い、裏を突く。
「受信不全症の人間を、そのウィザード対策に使うってことですか」
東神校長は、静かに頷く。
「今回、管制塔の外にマイちゃんを脱出させたのも、君たちをここに呼んだのも、万が一のための保険なんだよ。先行部隊の報告によると、既にエリア3に身元不明の人物が数名侵入した形跡がみられるそうだ。……まあ、後手後手に回らざるを得ない状況もあってね」
各エリア管理局の許可無しに他のエリアに出ることは、本来ならば出来ない。そもそも、エリアネットワークに紐付けされているのだから、他エリアに出てしまうと、身体機能に異常が出かねないのだ。ということは、侵入した人間は、エリアネットワークを誤魔化す手段を持っている。つまり、概要不明の、ファンクションコントロールアプリ。その使用を疑うのが正しい。
「君たちには、管理局直属の実行部隊、『ディスチャージ』に参加してもらいたい。まあ、世間一般では労働局、なんて言われてる組織だけどね」
その言葉を聞いて、九音さんの表情が凍る。ややあって、彼女は口を開いた。
「ろ、ろ、労働局って、人間を道具のように扱う、って……きい、て……」
恐怖のあまり、しどろもどろの九音さんに、東神校長は優しく語りかけた。
「それは飽くまで噂だよ。秘匿されている情報だから、公には出来ないんだけど、労働局は官制局に実行できない仕事を賄う組織なんだ」
「僕らには、対抗する術がない。身体を鍛えてるわけでもないし、理知的な判断力も持っていませんし」
「そのあたりは心配しないでくれ。これを使ってもらうから」
後ろ向きな俺の発言を制して、東神校長は腕輪型の機械を差し出す。
「なんですか……これ?」
受け取り、しげしげと眺める。そのゴツゴツとした質感と、規則的な点滅を繰り返す謎のディスプレイ、そして、銀色に塗られた装飾。これ、見てくれは自害用の爆弾にも見えるんですが。
「けっして爆弾とかではないから、悪しからず」
僕の心根を見透かすかのように東神校長は微笑む。僕ってそんなに顔に出やすいタイプだったっけ、と自問する。
「この腕輪型ディスチャージデバイスは、君たち受信不全症の人間用に作られた補助デバイスの改良版だ。君たち受信不全者が、常人以上の力を発揮するための『攻撃性』補助デバイス、かな」
僕は、自分の右腕を見る。この補助デバイスは、日常生活をつつがなく送るためのものだ。
「攻撃性、って……」
九音さんは手元のデバイスを見つめ、脅えるように呟く。
RECシステムの管理下では、他者への攻撃を試みただけで、身体機能に制限をかけられてしまう。だから、この世界の人々は他者との接触に過度な恐怖を感じているし、それが高じてか、ここ数年、世間を騒がすような大事件は起こっていない。
「本当なら、このデバイスを使うことがない世界を望んでいたんだけどね……RECシステムに縛られた人間では、現状を打破する方法がないんだ。……唐突な頼みで申し訳無いが、君たちを頼らざるを得ない」
縛られた、と自虐的な言葉を述べた後、頼む、と東神校長が頭を垂れた。
損得勘定で動くとすれば、こんな不利益な条件はないだろう。システムの恩恵を受けられない僕たちでも、わずかながらこの世界の安寧は付与されている。少しだけ、我慢すればいい。多くを望まなければ、世界から排除されるようなことはないのだから。
誰かによって作られた安寧の下、平穏な停滞生活を、いつまでも過ごしていける、と思っていたし、今だってその考えが変わったわけじゃない。
だとすれば、この言い表せない感覚は何なのだろう。
「頭を下げてる場合じゃないわよ」
校長席に目をやると、先ほどまで屍のように眠りこけていた三園さんが、相変わらず偉そうに仁王立ちしていた。
「あれ、マイちゃん、お早いお目覚めだね」
「どうも、調子が優れないわ……凍耶、説明は終わった?」
「うん。首尾良く。彼らが了解するとは限らないけどね。選択するのは自由だからね」
「そう……。それはそうと、良いニュースと、悪いニュースがあるのだけれど、どちらから聞きたい?」
過去の映画のように、勿体ぶった言い口で三園さんは訊ねた。東神校長は、微笑を浮かべ、答える。
「どちらも聞かなきゃならなそうだね」
「そうなの。現状、どちらにも言えるのは、早くここから退散したほうが身のため、ということかしら」
三園さんはそう言うと、僕と九音さんの肩に手を掛け、
「奴らが狙っているのは、このエリアの制御権。そして、あなたたち、受信不全者の回収よ。現実的には、後者のほうを優先するでしょうね」
俺は、少し苛立ち、彼女に言う。
「回収? 何ですか? 分かるように説明してください」
「この場所に、雅が来る。あと、あの子を追っているディスチャージャーの部隊も恐らく同時に。私が眠ってる間に、厄介なことになってたみたいね……」
身元不明の侵入者。その一味を率いるのは恐らく、エリア4のウィザード、四ノ宮雅だ。だとすれば、真っ先に向かうべきは、管制塔のエリア制御室なのではないか。このエリアのセフィロトを手中に収めれば、エリアを支配できるはずだ。
「現段階で、エリア3ネットワークの一部が外部からの干渉を受けてる。恐らくは、ファンクションコントロールアプリね。管制塔には非常用回線に切り替えるよう伝えてあるから、そっちはまだ、問題なし。でも、あちらにはファンクションコントロールがあるってことを念頭に置かないと……とにかく、今は……」
と、三園さんが言い終わる前に、けたたましい音量で校内にサイレンが鳴り響いた。直後、淡々とした口調で、ネットワークの異常が告げられる。
『コントロールエラー。教育ネットワークをエマージェンシーモードに切り替えます。学内に居る皆様、今すぐ、エリア3パブリックネットワークへの接続切り替えをお願いします』
「……教育ネットワークにクラッキングしてきたってことは、やっぱり狙いはここ……受信不全者ってことね。舐めた真似してくれる。そんなにこの子たちが必要ってこと……」
三園さんは顔色一つ変えず、周囲を見回している。東神校長は、僕らに告げる。
「今すぐこの場所から、脱出しよう。ディスチャージデバイスの使用法は、後回しだね」
焦る三園さんと比べ、東神校長の様子からは、およそ焦りというものが感じられなかった。まるで、全てが想定の範囲内だ、と言わんばかりに。まあ、九音さんは相変わらず、狼狽え続けているのだけど。
コントロールエラーが発生した直後から、校内に騒がしい雰囲気が漂い始める。現在在籍すつ生徒達は、こんな異常事態を想定していなかったのだろう。それは勿論、僕もそうなのだが、完全に守られた街の、更に強固に保護された教育機関に、未曾有の事態が降りかかっているのだ。僕は、話し合いを続ける三園さんと東神校長に訊ねる。
「逃げる、って言っても、どこにいけば? 相手はRECシステム管理システムの管理権を奪える力があるんでしょ。どこに言っても無駄なんじゃ……」
「安心して。一朝一夕で奪えるほど脆弱なシステムじゃないわ」
強気な言葉に反して、三園さんの表情は浮かない。
「とにかく、神園学園のサブネットワーク外に出ないと危険なの。現状分かっているファンクションコントロールアプリの性能では、一定範囲のコントロールしか出来ないはずだから」
三園さんは淡々と、自分に言い聞かせるように話す。自信満々だった彼女の口ぶりが少し、澱んでいる。
噂に上るファンクションコントロールアプリの性能は、飽くまで、個人の管理情報の改ざんや、その個人に関わる極小の周囲に限定される。RECシステムのシグナル管理は、複雑怪奇に分割されている。教育施設範囲数キロに広がる教育ネットワークだけをとっても、多数のセキュリティが張り巡らされていて、一個人、もしくは、凡人が束になって挑んだところで、強奪できるものではない。にも関わらず、侵入者たちは、このエリアの核であるRECシステムを、その発現地点さえも狙っている。
相手は三園さんと同じ、ウィザードだ。そのことを念頭に置くと、常軌を逸した謀略も、あながち冗談とは思えない。
「凍耶。今すぐセフィロトと接続しなおして、中和シグナルを構成するから、彼らを外に……」
三園さんが東神校長に告げると同時。窓ガラスがけたたましい音をたて、弾けた。一瞬の出来事に、思わず僕は身をかがめる。周囲の状況は、掴めない。
と、喧噪の中で、 甲高い声が、窓の方向から聞こえた。
「おそーいなぁー。ほんと、平和ボケ。だめだよマイ、私たちはいつも全ての危険に目を光らせてないと」
恐る恐る身体を起こし、声のする方へ眼を向けると、窓の前で少女が、半分浮かんでいるような体勢でこちらを眺めていた。
「久しぶりだね、マイ。五年ぶりくらいかなぁ? それにしても、『予想以上に手薄』で拍子抜けだなあ」
「雅……どうしてこんなこと……だって、あなたは……」
三園さんは、何かをかみ殺すように言った後、雅とよばれる少女を睨みつける。
「まだ、なーんにもしてないよん。……何かするとしたら、これから、かな。優等生のマイちゃんには分からない、すごーいことが起きちゃうかも」
ふふん、と息巻いて、雅は呆気にとられた表情の三園さんを、見下すように続ける。
「うーん……説明してもわかんないよねぇ。マイにはきっと、わかんないさ。今のマイには、何も。……だから、先手必勝だ、ねっ」
言うと、雅の身体は宙に浮かび上がる。眼前で起こっている現象が理解出来ず、僕はただ、見ていることしか出来ない。ああ、人って、浮かぶことも出来るんだ。
と、どこか他人事のように分析していた僕の目と鼻の先に、雅の姿が現れた。
一瞬だった。空間が静止したかのように、コマ送りの映像が目の前に映し出された。思考が追いつく前に、窓際から五メートルは離れていた僕の側へ、彼女は瞬時に移動したのだ。彼女が携えた小さなナイフが、僕の首下に向けられていた。少しでも体勢を変えると、鋭く尖った切っ先が皮膚に触れてしまいそうだった。
これが、ウィザード。常人では体現できない能力を持つ、人間。
硬直した身体を、ナイフとは反対側へ捻ろうと試みる。だが、その命令は脳から身体に伝わらず、僕の身体は頼りなく床に座り込んだままだった。
先ほどまで雅が居た窓際に目をやると、三園さんと東神校長が倒れている。いつの間に? いや、そもそも、何が起きていた? 実感のない現象が多発して、僕の脳内は混乱し続ける。
そんな僕の気持ちなど知らず、雅は僕の顔を真っ直ぐに見つめて、口を開く。
「君が、受信不全者だね。あと、そっちで震えてる女の子もそうか」
部屋の隅で頭を抱えて蹲る九音さんを一瞥して、雅は言葉を継ぐ。
「一緒においでよ。そっちの女の子は無理そうだけど、君は、望みありそうだ」
屈託のない笑みを浮かべ笑う彼女は、その風貌を見る限り、とても悪人とは思えない。彼女は、僕の眼を見据え、
「君の眼は、何も欲していない。この世界を、受け入れていない」
酷く冷静に、言う。
見透かされた。僕の、知られたくない部分。知りたくはなかった、疎外感。
「もう一度、始めよう。この世界を終わらせて」
静かな声音の中に、深く、澱んだ意志のようなものが蠢いている。そんな印象を受ける言葉。
何も出来ない、と諦観をくすぶらせていた僕の前に、現実が降ってきた。
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