青年は少女を想う

 起きると、彼女はまだ寝ていた。

 時計を見る。午前6時。睡眠時間は2時間か。今日も眠れなかった。

 ふう。ため息をつくと、体中が気が抜けたようになって、すべての感覚が消えていくような気持ちになる。

 僕は不眠症である。ほとんど眠ることができない。そしてそのことを特に気にもとめていない自分がいる。むしろ眠れないで、壊れた体を引きずって生きていくことが正しいのではないかと思ってしまう。どこまでも崩れて、どこまでも傷ついていく。そういう姿にいつしか快感を感じている。

 ぶっ壊れてくれないかなあ、僕の体。何もかも、跡形もなく、木っ端微塵に。

 小さく、つぶやいた。音もなく唇の周りの空気だけが動いていく。

 彼女はすやすやと寝ていた。その気持ちよさそうな寝顔は、この世界の幸福を象徴しているかのようだった。なんて愛らしいのだろう。とてもこれから死ぬような人間には思えなかった。呼吸をするたびに肩が少し上下しているのがわかる。まるで体全体が脈を打っているかのように。

 もう少しだけ、僕のそばにいてくれないかな。死のうと思っても死にきれない、どうしようもないほど情けない僕のもとに。

 危険な願望だというのはわかっていた。楓さん。名前しかわからない人。鬱々とした目で死のうとしていた人。しかし唯一の希望は彼女しかありえないのではないかと、僕は思っていた。生きることは、綱渡りだった。一歩間違えれば奈落の底に落ちるのではないか。そんな恐怖がいつも僕をとらえていた。心も体も死んだようになって、それでも前を向いて歩いていかなければならない。

 彼女なら、一緒に歩いてくれるのではないか。

 彼女は、生きていくことがこの上なくつらいことを知っていた。彼女は、一緒に行動することの楽しさを知っていた。彼女は、僕のために一日生きることを選択してくれた。彼女なら。

 時計を見る。午前6時30分。会社に行く準備をしなければならない。

 会社になんて行きたくない。このままずっと、時が止まってくれればいいのに。

 それでも僕の体は、勝手に動いていた。長い年月の間で染みついた責任が、一時の感情で休息することを許してくれなかった。

 ベッドから起き上がって、台所に向かう。うず高く積みあがったコップ、皿、鍋の山は二時間前の葛藤の名残だった。丁寧にそれらの一つ一つを洗う。それから、ありきたりの朝食を二人分つくった。目玉焼き、みそ汁、サラダ。テーブルの上にいくつかの皿を置いても、彼女は起きる様子を見せなかった。一人、黙々と朝食を食べた。

 味がしなかった。昨日の不格好なハンバーグのほうが、よっぽどおいしかった。

 彼女の顔を見た。幸せそうな寝顔。死にたいと言っている人間の方が、よっぽど生き生きとしているように見えた。なんだか憎らしくなって、ベッドに置いてある四角形の枕を彼女の顔面に投げつけた。それでも、彼女は起きなかった。

 急いでスーツに着替えて、出勤する。玄関先で、行ってきますと言ったが、応えてくれる人はいなかった。

 満員の電車に揺られながら、彼女のことを考えていた。朝飯、ちゃんと食べたかな。いやまだ起きていないか。ゆっくり眠っているだろう。

 職場について、パソコンに向かって仕事をしながら、彼女のことを考えていた。何をしているのかな。テレビでも見ているのかな。彼女はいつ、死ぬのだろうか。

 午前中の仕事が終わり、コンビニでおにぎりを買っていた。あ、しまった。彼女のお昼ごはん、つくっていなかった。おなか減っていないのかな。でも、冷蔵庫には出来合いのコロッケがあったはず。あれを食べているのかな。

 午後も、単調な仕事をこなすだけ。上司にミスを指摘され、数年間何度も言い放った同じ文句を繰り返す。

 申し訳ありません。もう二度とこのような間違いは犯しません。

 頭を下げながら、彼女のことを想う。今ごろ、死んでいるのだろうか。死ぬとしたら、昨日僕が彼女を止めた場所だろうか。いや、あそこでは死ねないだろう。彼女にとっては死ぬのを邪魔された縁起でもない場所だ。だとしたら、どこの路線の、何番線の、何番ホームだろう。自殺をしたら、ニュースになるのだろうか。最近では地下鉄も止まるから、ネットで少し大きく取り上げられることも多い。

 ようやく上司から解放されてデスクに戻ると、地下鉄の構内で自殺をしたニュースがないかネットを漁った。そのような知らせはなかった。ほっとしたと同時に、彼女が今何をしているのかますます不安になってくる。もしかして、昨日とは異なる死に方をするつもりだろうか。ほかの自殺となると、どんなものがあるのだろう。ネットで検索する。薬物自殺、首つり自殺、ビルから飛び降りる自殺。選択肢なら、いくらでもある。

 ちゃんと、死ねているのだろうか。

 娘を心配する母親のような気持ちでそう思っている自分がなんだか可笑しくなった。どこの世界に自殺の成功を心配する親がいるだろうか。それでも、調べる手は止まらなかった。震える指で、マウスを操作する。画面に現れる膨大な情報を眺める。首つり自殺を失敗すると、脳に血液が流れない状態が続くためにかなりの後遺症を残すらしい。睡眠薬による自殺を失敗すると、胃洗浄をしなければならないらしい。硫化水素自殺なら、失敗すると植物状態になる。

 めくるめく恐ろしい言葉の連続に、僕はすっかり恐れおののいてしまった。またパラレルワールドに迷いこんでしまったのか。僕の目の前には、数えきれないほどの彼女がいた。寝たきりになって、言葉も話せない彼女。胃洗浄によって、体から毒物を排除されている彼女。首つりに失敗して、体から昨日のハンバーグを嘔吐している彼女。

 こんなに心配なら、会社なんて休めばよかった。でも、体が休むことを拒んでいる。どうしていいかわからなくなって、僕は泣き出したくなった。一度トイレに行って、鏡の前に立つ。青ざめた顔をしている僕の姿が、鏡に映っている。瞳からは、ポロポロと涙が零れ落ちていた。

 こんなことじゃだめだ。しようがないことじゃないか。僕には僕の人生があるように、彼女には彼女の人生があるだろう。そのストーリーをどうしたいのかは、主人公の自由だ。

 僕は自分の頬を強くたたいて、心の中に押し寄せてくる感情の流れを無理やりせき止めた。少し落ち着いた。昨日までの透明な感覚が体の中に湧き上がってくる。何も感じない。何も考えない。不安になってしまうから。

 そのあとは際限ない妄想に取りつかれながらも、それを振り払うように夢中で仕事をした。もう彼女のことは考えていなかった。日が暮れて、だんだんと人がいなくなった後も、黙々と作業を続けていた。気がつくと、時刻は深夜11時になっていた。

「おい。」

ふと、肩をたたかれた。振り向くと、今日の午後僕をしかりつけた上司が立っていた。これぞ中年男性の代名詞だと呼べるようなだらしのない太った胴体に、短い二の腕と足が付着している。ぷっくりと太った頬肉の間に挟まれた鼻の上には、ちょこんと申し訳程度に眼鏡が乗っていた。眼鏡のあちこちが汚れて傷がついているために、視線の先が自分に向いているのかさえ分からなかった。

「なんでしょうか。」

僕は恐る恐る上司を見た。なんだろう。また怒られるのだろうか。

「今日はそのまま会社に泊まるのか。」

「いえ、12時ごろに終電で帰ろうと思っていましたが。」

「もう上がって、ラーメンでも食べに行かないか。」

「えっ。」

自分が害のない人間であることを示しているかのように、上司は微笑んでいた。

 

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世界は僕らに微笑みかける ましろ @bokutokimi

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