青年と少女は一夜を過ごす 後編
彼女のもとまでたどり着く。彼女はふっと笑っている。
「この状況、さっきと同じですね。」
僕も自然ににやりと笑っていた。お互い、あまりにも愚かな人間なのだ。二人は、僕の家に帰ろうと歩みを進めた。
「どうしてあなたは、わたしが死のうとするのを邪魔したんですか。ずっと、疑問だったんです。他人の死なんて、どうでもいいじゃないですか。しかも、初めて会った赤の他人ですよ。関係ないじゃないですか。
わたしは、死のうとしていたんです。それは、わたしの意思です。その意思を、どうしてあなたは崩そうとするんですか。もう、嫌なんです。自分が傷つくのが。他人を傷つけるのが。この世界の中に自分が存在するのが、たまらなく嫌なんです。だから死のうとしていたのに。どうして、あなたは他人の決心を邪魔するのですか。わたしは、死にたかったのに。」
暗く、闇に染められたセリフを吐きながら、彼女の顔は晴れやかで、声色は明るかった。僕は目の前で楽しそうにふるまう彼女の映像に誰かが吹き替えを入れたのではないかと疑っていた。それほど奇怪な情緒が彼女を支配していた。
その疑問に、僕はどのように答えてあげればいいのだろうか。あまりにも子供らしい真実を口にする必要があるのだろうか。
君が、うらやましかった。それだけなんだ。僕も一緒に死なせてくれないか。
真剣な表情でそう言ったらいいのだろうか。僕の本心は確かにそう叫んではいたが、恐怖がそのセリフを口にすることを妨げた。彼女の怪しさに包まれていく怖さ。彼女とともにどこまでも堕ちていく怖さ。
「元カノに、似てたからさ。だから、目の前で死んでほしくなかったんだ。それだけだよ。」
僕は彼女の笑顔に応えるように、笑ってそう言った。彼女は僕の顔をじっと見つめて、納得したようにうなずいた。
「一日だけ。生きてみようと思うんです。あなたが、面白かったから。顔にご飯粒ついてるなんて嘘を言って、わたしの邪魔をするんですもの。あなたのことを少しだけ知って、それできっぱり、この世界はあきらめるつもりです。楽しくないので。」
その言葉に、僕はうなずいた。そうすること以外には、どうすればよいのかわからなかった。
僕が住む部屋につくと、彼女はすぐさま冷蔵庫を漁って、食材を探しているようだった。
「あの、ハンバーグ作ろうと思うので。あなたは、テレビでも見ていてください。すぐに、つくるので。」
エプロン姿をして、一心にパックに入ったひき肉を見つめる彼女の姿を確認したあと、僕はソファに腰かけて深夜番組を見ていた。
お笑い番組のバカ騒ぎと観客の雑然とした声が、静かな部屋に空しく響き渡る。彼女の行動が気になって、僕はろくにテレビも見れなかった。明日死ぬ人間だとしても、ここで会ったことには何らかの縁があるにちがいない。せめて名前だけでも、知りたかった。
「あなたは、名前はなんていうんですか。」
「わたしですか?楓といいます。」
楓、楓、楓。声を出さずに、心の中でつぶやいてみる。寂しく、悲しい音がする。人生の激しさや快活さや、喜劇や悲劇がすべて終わってしまったあとの静かな響き。それでも、残りかすのような汚い生き様で生きる。一つの確かな存在。
「ひゃあ。」
今まで冷静で落ち着いた口調をしていた彼女が、突然可愛らしい悲鳴を上げた。慌てて台所まで駆けつけると、信じられない光景が待っていた。
フライパンからあふれるほど一杯に油が入っており、その油の中でひき肉がプカプカと浮かんでいた。その肉塊は小刻みに少しずつ回転しながら、油の泡を体いっぱいに引き寄せて僕を見上げていた。それは,なかなか迫力のある風景だった。一つの完成された芸術作品のような狂気が、そこには展開されていた。
しかし、彼女はその状況に驚いているわけではなかった。彼女はフライパンの下で激しく燃えている炎に目を丸くしていたのだ。二、三歩下がって,怪訝そうな目つきでじっと燃えさかる火を凝視していた。
これは一体何の儀式なんだ?もしかして彼女はこうすることでひとりでにハンバーグができるとでも思っているのだろうか。わけがわからない。もしかして、料理というものを彼女は知らないのだろうか。いやそれどころか、世の中で生きていく上で最低限の常識さえ、身につけていないのではないか。僕には彼女が悪魔のように思えてきた.
「すみません。声を出してしまって。炎ってこんなにも燃え上がるものなのですね。ちょっと、感動してしまって。でももうすぐハンバーグが出来ると思うので、ゆっくりソファに座って待っていて下さい。」
彼女は屈託のない笑顔で僕にそういった。大丈夫ですよと言って、顔の前で手を振っている。どうやら本当に何も知らない人のようだ。
ふう。呼吸を整える。怒ってはならない。イライラしてはならない。そうすれば、ますますパニックになって良くない方向に進んでいく。まずは、この事態をどうにか乗り越えなければ。フライパンから油があふれて、炎に引火したら大変だ。
僕はすぐさま火を消して、油からひき肉を取り出した。引き出された肉の塊は油を滴らせながら、その醜い体を露わにした。これを急いで洗い場に捨てる。フライパン一杯の油は、隣に置いてあった鍋に移す。
「あれっ。なんでそんなことするんですか。これから、ハンバーグができるところだったのに。」
彼女は僕の作業の一部始終を見守りながら、ときどき悲鳴のような声色でそんなセリフを吐いた。僕はだまって、作業を続けていた。
これが彼女ではなかったら、とっくに怒って出て行ってくれと言っていたであろう。台所をめちゃくちゃにして、家の中の油を無駄遣いした罪は重い。しかし、僕は怒ることが出来なかった。彼女は何も悪くないんだ。彼女の夢の中でハンバーグは出来ていたんだ。ただ、現実が彼女の夢物語と違っていただけなのだ。次第にそう思い込んでいた。
「いいかい。」
なるたけ優しい声で僕は彼女の目を見た。ドキッとした顔で,彼女は僕の方を見上げた。
「君はこうすることでハンバーグができると思っていたかもしれないが、料理というのはそういうものではないんだよ。
料理にはやり方があるんだ。きちんとした作業の順番があるんだ。君の思いだけで、勝手に出来上がるような代物ではないんだよ。そのことをしっかりわかってほしい。」
振り向いて、つぶやくように、ゆっくりと僕は彼女に諭した。見ると、彼女はすっかり落ち込んでしまって、顔が真っ青になっていた。まるで別人のようになっていた。叱られた子供のように、下を向いて必死に自分の中に押し寄せてくる苦しみと戦っているようだった。
「ごめんなさい…。わたし、料理なんてまるでやったことがなくて。アキラさんがしていたのを時折見ていただけだったんです。」
アキラ?それは誰なんだ?心の中で疑問符を唱える僕がいたが、無視することにした。
「いや、僕は怒っているわけじゃないんだ。ただ、やり方がちがうと失敗する。そんな当たり前のことを言いたいだけだったんだ。大丈夫。できるさ。一緒につくろう。」
僕は一生懸命彼女を励ました。明日死ぬ人間にとっては、最後の晩餐になるにちがいない。普通の料理を、せめて人並みにおいしいとよべるものを、彼女に食べてほしかった。
それから二人は、ハンバーグづくりをはじめた。どうやらそれは彼女にとっては死ぬほど億劫で、とてつもない重労働のようだった。しかしその労働には楽しみと一体感があった。思えば、誰かと一緒に料理をつくるのは久しぶりだった。
何かを誰かと一緒にすることが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
彼女は信じられないほどよくミスをした。たまねぎをみじん切りにするときに指を切ったり、ハンバーグの具材をこねながら落としたり、フライパンの火加減を間違えたりした。だから、僕は彼女の行動を常に監視しながら、慎重に作業を進めなければならなかった。
ミスをするたびに、彼女はしょげていた。その姿を見て、僕は笑った。そうすることが、その場を和ませる特効薬だと信じて疑わなかった。彼女も笑った。こうした声のないやりとりの温かさが、体中の血液にめぐっていくのを僕はとても大切なことのように感じていた。
ごく自然で、当たり前のことだったのかもしれない。でも僕は気づけずにいたんだ。気づこうとしないで、割り切ってばかりいたんだ。世界地図が国境で分けられているように、世界には個人が互いに関係せず、興味を示さず、バラバラに散らばっているのだと思っていた。でもそれは違う。世界地図の上に国境を作っても大地はつながっているように、この瞬間楓と僕は個人でありながらつながっている。
嘘みたいなきれい事だけど、本当にそう思ったんだ。
ついに、ハンバーグができた。それは形が少し不格好ではあったが、十分においしかった。彼女は気が狂ったように、一生懸命食べていた。もしかしたら、一日何も食べていなかったのかもしれない。僕は彼女の境遇について不安を感じていた。
「すごく、おいしいですね。世界で一番、おいしいのではないですか。」
「自分で作ったからね。おいしく感じるんだよ。」
自分のこどものように、彼女をいとおしく見ていた。でも一体、何をしてあげられるんだろう。僕は彼女のことについて何も知らなかった。彼女がどこからきて、どのような過去があって、どんな考えや思いを持っているのか、全然知らなかった。しかしこれから死のうとする人間にそんなことを聞く気にはなれなかった。
電車に乗ったときに考えた突飛な妄想が僕の中で広がっていく。ここで、彼女と出会えたのにはどんな理由があったんだろう。言葉を重ねたこと、思考を共有したこと。それらの些細な、でも体中で抱きしめたいほど大切なできごとは何もない僕の人生のレールの上でどんな影響を、どんなプロットを与えているのだろうか。
二人は食べ終わって、一緒に皿洗いをしていた。時刻は午前4時だった。疲れきっていて、心がボロボロだった。皿洗いが終わると、床に布団を敷いてそこに彼女を寝かせ、僕は倒れこむようにソファに身を任せた。もう、限界だった。次第に遠のいていく外界。意識が自分のほうに向いて、現実が形をなくしていく。崩れていく世界の向こう側で彼女が名残惜しそうにおやすみと言っていた。僕も心の中でおやすみと言い返していた。
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