青年と少女は一夜を過ごす 前編
そうだ。僕は本当に純粋な、まったく子供らしい理由で彼女を死から遠ざけたにちがいない。
僕はもう一度先ほどのプラットフォームに引き返し、電車を待っていた。駅の構内には先ほどよりも多くの人間があふれていた。その多くの人間の中から僕は無意識に彼女の姿を探していた。なぜそんなことをするのか自分でもよくわからなかった。後から後からとるに足りない妄想が浮かんでは消えていった。
彼女は、僕の分身なのではないか。少なくとも僕の頭はそう思い込んでいるのではないか。
そんな考えが頭によぎって、僕は戦慄した。確かに彼女はよく似ている。それは雰囲気とか、顔とか、性格とかではなく、もっと深いところで確かに自分とつながっているのだ。
彼女も、僕も、もうすでに心の中で自分を「死んだ者」だとみなしているのではないか。
僕は死んだように生きていた。生きることに意味を見出せないように、死ぬことにも意味を見出せなかった。生きることも死ぬことも、僕には同じことだった。ただ死ぬ理由がないから生きるだけ。それだけだった。だから僕が求めているのは「静寂」なのだ。できるだけ何もしない。自分の考えや主張や意思をもたない。そうやって透明な存在のままでいることを望んでいた。
彼女はどうだろう。どんな事情があるかわからないが、とにかくあの瞬間彼女は死ぬために生きていた。自分の命を絶つために生きていた。そこには「躍動」があった。確固たる意思があった。自分を無に帰そうとする破壊的な感情。何もかもなかったことにしようとする恐るべき強さ。
僕と彼女は似ているようで似ていない。生きているか死んでいるかわからない状態であることはどちらも同じだったが、僕は静けさを、彼女は荒々しさを愛していた。
僕は彼女をうらやましく想っていたのかもしれない。彼女のようになれたらいいと心の奥底では思っていたのではないか。
だから、邪魔したのだ。自分の欲しいものを彼女が持っているから。それを彼女だけが持っているのがどうしても気に食わなくて。意地になって、嫉妬に気が狂って、自分が欲しかったことなんか忘れて、それを散々に壊そうとしたのだ。
目の前で止まった電車に乗り、疲れた体で家路をたどる。肉体はボロボロだったのに、奇妙なほど頭は回っていた。時折彼女の姿が脳裏にちらつく。きつく唇を結んで、勇敢に死のうとする顔が頭から離れなかった。人間はあんなにも大胆に死ねるものなのだろうか。その姿は到底かなわない強大な敵に立ち向かおうとする一人の兵士だった。あんなにも可憐に、猛々しくいられるものなのだろうか。
自殺。いつだって考えてきた。どんなときも思ってきた。子供のころからずっと。きっとすがすがしいのだろう。すっきりするだろう。この恐ろしい、可能性で満たされたパラレルワールドから逃れるためにはそれしか方法がないように思えた。自ら自分のストーリーに終止符をつける。人生の道の向こう側で待っている数知れない「僕」にさよならを告げる。いつでも押し寄せてくる行動選択の恐怖から救われるのだ。死のう。いますぐにでも死のう。何度も思ってきたのだ。しかしいつしかそんな気力も起こらなくなっていた。
子供のころゴジラが好きだった。何にも縛られず、だれの目も気にしないで欲望のままに建物を壊し、人間を殺し、放射線を放つ怪物が好きだった。破壊。破壊。破壊。何もかもぶっ壊して雄たけびを上げるのだ。ゴジラにとって自分の存在価値はそれだけだった。そこまで自分を投げ捨てて、自らの意思に服従することが僕にはできなかった。作り上げることのほうが壊すことよりもずっと大変なことを僕は知っていたから。それでも憧れていた。興奮して、震いつきたくなるくらい大好きだった。僕にはできなかったから。僕の目の前に広がる未来を壊すことができなかったから。臆病で、情けなくて、泣いた。そうしたらいつのまにか屍のように生きていたのだ。
気がつくと、住んでいるアパートの前に立っていた。どのようにして帰ったのか思い出せなかった。毎日毎日帰っていれば、自然と足が家へ家へと向かうようになるのだろうか。ポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。玄関が見えてくる。扉の閉まる音がする。靴を脱ぎながら、意味のないことをあえてしてみる。誰もいないのに、あいさつをする。
「ただいま。」
「おかえり。」
返事が返ってきた。。。
心臓が飛び出るほどびっくりした。とうとう自分は精神を病んで、幻聴が聞こえるところまできたのか。それともあまりの寂しさに、架空の人間を作り出し、その声が聞こえたのだと勝手に脳が判断したのか。いずれにせよ、自分が狂っていることに間違いはない。日常生活に支障が出るのも時間の問題だろう。明日にでも、病院に行ったほうがいい。
ぎゅるるる。唐突におなかが鳴った。そういえば、おなかがすいていたことさえ忘れていた。
「あ、あの。料理。わたしがつくりましょうか。料理だけはわたし、自信があるんです。」
またイマジナリーフレンドが話しかけてきている。僕は自分自身にあきれてしまった。こういうものは無視するのに限る。下手に関わったら、それこそ精神状態は悪化するだろう。いないものだと自分の頭に刻み込まなければ、いつまでも消えないだろう。
しかし、僕もずいぶんきれいで優しい澄んだ声を想像したものだ。
靴を脱いで、すたすたと居間へ急ぐ。近くにあるソファに身を任せる。このまま寝てしまう勢いだ。
「スーツ姿のまま寝てしまうのはいけないと思います。しわがついてとれなくなるので。それから、眼鏡も外したほうがいいです。眼鏡壊しますよ。ソファで寝るのもだらしがないです。体痛めます。」
まるで実の母のように細かいところまで指摘するイマジナリーフレンドである。間違いなくこの高い声は女性だ。僕は女性を欲していたのか。こんなにも包容力のある女性を。今度婚活でもしてみるか。
「あの、わたしの話を聞いてください。このままだとよくないと思ったので、わたし言ったんですよ。しっかり起きて、ご飯だけでも食べてください。元気がなくなります。」
疲れているのに、耳元でガンガン言われると、さすがに頭が痛い。現実の女性なら少しは遠慮するが、自分の妄想なら気兼ねがない。しつこいし、言ってしまおう。
「うるさい。寝かせてくれ。疲れているんだ。僕の妄想なら、少しはおとなしくしてくれないか。」
「あなたの妄想なんかじゃありません!わたしです!先ほど駅で会ったわたしです!」
はっとして、振り向いた。玄関で真剣な表情で立っている一人の女性が見えた。彼女は確かに、帰りの電車を待つ僕の横をすれ違い、死のうとしていたあの女性だった。
これは僕の妄想なんかではなく、一つの現実なのか?それともこの鮮明な映像でさえも、僕の脳がもたらした作り物なのだろうか。
もし現実なら。ぞっとした。体の中に恐怖の感情が芽生えるのがわかった。なぜ彼女は僕の家にいる?何をしにきた?死ぬのではなかったのか?会えた感動よりも、彼女がここにいる恐ろしさのほうが勝った。相当ためらったが、とりあえず僕は得体のしれないその女性に話しかけることにした。
「なぜ、僕の家の玄関にあなたは立っているのですか?どうして、僕の家がわかったんですか?目的は何ですか?僕は殺されるのでしょうか。」
彼女はにっこりと微笑んだ。その仕草によって僕を安心させようとしたのかもしれないが、口元が歪んでいたせいで僕には逆に不気味で怪しく見えてしまった。
「わたしは、あなたの家に泊めてもらうためにここにいるのです。もちろん、あなたの家までは尾行してきました。あなたの後ろにぴったりと離れずにいたのに、あなたは全然気づきませんでした。わたしは今日、生きるための寝床すらないのです。お願いですから、一晩だけ泊まらせていただけませんか。料理くらいなら、つくるので。」
もう警察に連絡を入れる心の準備はできていた。もはや現実だと仮定したほうが、話が早い。こんな鮮明な妄想はついぞ見たことがない。もし本当の出来事であるなら、このストーカー女はかなり狂っている人物だ。百歩。百歩譲って、家に泊まらせてほしいのだとしてもだ。普通に考えて、見ず知らずの男の家に泊まろうとするか?何かを企んでいると考えた方がよっぽど自然だろう。犯罪に巻き込まれるか、騙され金目のものを盗まれるか、どっちにしろいい方向に転ぶわけがない。とはいえ、下手に刺激すると何をされるかたまったものではない。何とかばれないように警察に通報するしかあるまい。
「ごめんなさい。少し頭を冷やして整理がしたいので外に出てもよろしいでしょうか。」
「はい。」
意外にも彼女は素直だった。
彼女の隣を通り過ぎるのがたまらなく嫌だったが、致し方あるまい。僕は彼女に軽く会釈をしながら、玄関を出て鍵を閉めた。
ほっと息をついた。アパートの階段を降り、二三分とぼとぼと意味もなく外を歩いて、深呼吸をした。ポケットから携帯電話を取り出し、「110」と打ってみる。あとは発信のボタンを押すだけなのだ。
指が、止まった。
なぜ、止まるのか。
同情。自分でも怖いくらいの大きな同情なのか。彼女が僕と同じではないかという大それた妄想のせいなのか。それとも。僕は彼女と同じ場所にいたいと心の底では思っているのではないか。あの、何を考えているかわからない危険な人間と。
それこそ、狂っている。
面白いなあ。人間というものはずいぶん面白いものだ。巡りあわせというのは不思議だ。人間の心は不思議だ。一緒にいたり、離れたり。嫌いだったのに、好きになったり。先ほど会った知らない人と一夜を共にする。こんな経験二度とないだろう。ここまで頭のおかしな二人の出会いはもう二度と起こらないだろう。その奇妙さを、狂気を、僕は抱きしめていた。
もうどう転んでもいいじゃないか。もはや捨てた人生なのだ。
投げやりで、自暴自棄な発想だった。なぜだか、僕は彼女を信じることができた。それは、たとえどのようなことになっても、何をされても、許せるということだった。一目会ったときから、彼女は僕の一部で、僕は彼女の一部だと思い込んでいたからなのかもしれない。とにかく、僕はこれから永遠に発信ボタンを押すことはできないだろう。
いきなり、僕の右腕を何かがつかむ感覚があった。見ると、まじめな顔で僕を見つめる彼女が隣で立っていた。この人は本当に尾行がうまい人だ。僕は恐怖を通り越して、ただただ感心していた。
「あの、警察だけはやめてください。非常識な言動だとは思いましたが、なぜかあなたなら信じることができたのです。それで、わざわざ無理なお願いをしたのです。迷惑だと思うのであれば、帰ります。警察にだけは、通報しないでください。」
「わかった。」
僕は携帯電話を閉じた。彼女はそれを弱弱しいあの目で確認してから、僕のそばから離れ、ふらふらと歩きだした。その姿は、いかにも頼りなく、壊れそうで、危うげだった。いまにもばらばらに砕け散ってしまいそうだった。僕はその光景が夜の闇に消えてしまうまでじっと見つめていた。そして、彼女の姿が暗闇に完全に染まったしまう直前になって、大きな声で叫んでいた。
「一晩だけなら、大丈夫。泊めても、いいよ。」
彼女は僕の声に振り向いていた。その顔は、駅で会ったときと同じように、不思議そうな様子だった。僕は無意識に走り出して、彼女のもとへ追いつこうとしていた。
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