世界は僕らに微笑みかける

ましろ

青年は少女に出会う

 もし人生というものが一冊の小説であるなら、いま僕は何ページ目を生きていて、どの文脈の中にいるのだろう。

 ふとそんなことをとめどもなく考えながら、走る電車の中で揺れていた。

 そういう感傷的な発想は実際、はやばやと捨て去るべきなのかもしれない。生きることは、いわばアルファベットや平仮名の順番のように、ただの物事の羅列でしかないだろう。そこに意味を見出そうとすることは、とても危険なことのように思えた。そんなバカバカしいことを考えていたら、自分の中から突拍子もない妄想がシャボン玉のように次から次へと出てきて、永遠に苦しめられるのではないか。自らの歴史に後悔ばかりがつきまとっているような気がして、僕は寒気を覚えた。

 それでも、人間は意味もないことをつらつらと考えてしまうものだ。

 あのとき、あの人と出会ったことは僕の人生の中でどんな意味があったのか?僕はあの場面であんなことをしてしまったけど、それはこの広大な小説の中でどのような役割をもつのだろう。あのとき、違うことをしていればいま僕は何をしていたのだろう。どんな人間になっていたのだろう。

 僕は人生の無限の可能性に身震いしていた。もし生きることのすべてが原因と結果の結び合わせでできているとしたら、つねに僕の行動の一つ一つによって無限の小説のプロットから一つが選び出されるというわけだ。僕の目の前には途方もない数のストーリーが待っていた。僕はその中から確かな意思をもって僕にしかつくれない小説を練り上げなければならなかった。なんて億劫な、なんて面倒くさい作業だろうか。

 子供のころに小学校の先生がよく言っていた。

 夢をもちなさい。目標をもちなさい。あなたたちには輝かしい未来が待っている。努力すれば、なんにだってなれるのよ。

 その言葉を聞いたとき、底知れない恐怖に襲われたことをいまでも覚えている。確かにその通りだった。この途方もないパラレルワールドは僕をどこにでも導くだろうし、いくらでも姿を変えさせるであろう。だから、人生の道の先にはあきれるほど数多くの「僕」が微笑んで待っているのだ。

 気持ちが悪い。この世界が、この現実が、本当に気持ち悪い。

 放射状に見える人生の道の分岐点。あらゆる方面からささやかれる声。僕の足を引っ張るおびただしい数の見えない手。

 僕は世界がここまで恐ろしいものなのかと愕然としていた。神様によって運命が決定づけられていると言われたほうが、どんなにか僕を安心させたであろう。子供のころの僕が恐れたのは、お化けでも悪魔でも妖怪でもなく、いままさに生きているこの現実、そしてその現実に意味を持たせようとする大人たちだった。どんな妄想や悪夢や怪談話よりも、僕を不安と恐怖の渦に巻き込んだのだ。

 人生が、多くの行動選択を僕に強いる人生が、大きな目で見下ろしていたんだ。

 生きるのが本当につらかった。あなたの夢はなに?あなたは何をしたいの?と母や父や姉や親戚が、学校の先生が質問するたびに僕は躊躇していた。僕には思考というものがなかった。したいことがなかった。叶えたい夢がなかった。ただぼんやりと、何も考えずに生きていくことしかできなかった。それなのに、無理にでも人生設計を課そうとする周りを心底憎んでいた。

 思えば、つまらない人生なのだ。食べて、寝て、働いて。結局はその繰り返しだろう。そういう単純な物事に話を落ち着かせないと、到底生きられない。そうはいっても、僕の頭は許してくれない。たった一つの人生。何かをやり遂げなければ。ここに、この場所に自分が生きているという証をつかまなければ。

 そうなのだ。僕もいつしか大人になっていたのだ。だからいつか僕の子供に、人生とはどのようなものなのかを教えないといけないだろう。

 気がつくと、電車は乗り換えなければならない駅に到着していた。僕は電車を降りて、階段をのぼり、プラットフォームで次の電車を待っていた。

 ひどくつかれていた。死んでいるように生きていた。死んでいたほうが、よっぽど楽だった。なぜ苦痛を味わいながらそれでも生きているのだろう。

 次の電車が遠くのほうから見えてきた。

 ふと、電車を待つ僕の横を一人の女の子が通り過ぎた。足早に歩く彼女の顔を僕は偶然にも見てしまった。きれいな顔だった。目鼻立ちの整った寂しげな顔をしていた。しかし何よりも僕を引きつけたのは、まったくの知らない人なのに、僕はその人の顔を見たことがあると思ってしまったことだった。

 どうしてそのような気持ちになったのだろう。どこかで会ったことがあるのだろうか。話したことがあるのだろうか。あんなにきれいな人だったら、街角ですれ違っても覚えているはずなのに、僕にはまるで見当がつかなかった。

 あの目だ。あの、何も見ていない目を僕はどこかで眺めた気がする。

 はっとした。何も見ていない目。見ようとしない目。それは自分の目だった。毎朝会社に行く前に鏡の向こうがわに映る僕のうつろな目。希望も、夢も、目標も持ったこともなければ、失ったこともなく、思考力をもたないあの目。

 もう一度彼女を見た。すでに彼女は、僕の前方3メートルを先ほどと変わらない速度で歩いていた。電車はすぐそこまで来ていた。猛然と進んでいく彼女は歩くスピードをゆるめなかった。

 僕はとっさに彼女のもとへ急ごうと走り出していた。

 彼女は正確なタイミングで右から現れてくる電車に追いつこうとしていた。口をつぐんで、鋭い視線を飛ばしながら、前へ前へと突進していた。僕は走った。どうして走っているのか自分にもよくわからなかった。

 僕は彼女にやっと追いつき、彼女の左肩を強くつかんだ。

「いたっ。」

小さくつぶやくと、彼女は歩くのをやめた。二人の目の前を電車が通過していった。彼女は僕のほうを振り返り、目を細くして恨めしい顔をしながら言った。

「なんでしょうか。わたしに何か用でもあるのでしょうか。」

そのとき、僕は取り返しのつかないことをしたことを悔いた。僕は何をしているのだろう。死にたい人間は死なせてあげたほうがよいではないか。彼女が死を選んだ決心をなぜ破壊してしまったのだろう。僕に他人の生死を決定する資格でもあるのだろうか。しかし、もうどうにもならないことだった。

「あの。」

僕は言葉を必死に探していた。しかし、この状況にふさわしい言葉など見つかるわけがなかった。

「顔にごはんつぶ、ついてますよ。」

彼女はきょとんとした顔をしていた。僕自身、なぜそのようなことを言ってしまったのかわからなかった。とにかく何か言わなければならないと思って、あせっていたのだ。

「えっ。」

かすかに声を漏らして、彼女は自分の顔を触った。その後に携帯電話を取り出して、画面に映る自分の顔を眺めていた。当然だが、顔には何もついていないのだ。

「あの、すみません。見間違えました。」

僕は白状した。この謝罪には、彼女に干渉したことに対する詫びの気持ちも混ざっていた。早くこの場所から離れること以外は考えていなかった。

「いきなり話しかけてしまってごめんなさい。それでは。」

僕は気まずさに赤面しながら、それだけ言ってその場を去った。振り向きざま、彼女が不思議そうにしているのがわかった。

 しばらくは足元しか見れなかった。意味不明な行動をした自分が恥ずかしかった。三十分ほど駅の構内をさまよってから、少しずつ恥ずかしさが遠のいて、顔を上げることができるようになっていた。そうして、自分の一連の行動について分析する余裕が出てきた。

 目の前で死のうとする人間の邪魔をする僕。

 僕の中にある正義感や倫理や価値観が、僕を走らせたわけではなかった。死にたきゃ、勝手に死ねばいいじゃないか。僕は昔からそう思っていたし、自分から見ず知らずの他人に接触するなんて考えたことがなかった。それにいま僕が彼女を止めたところで、彼女はいつか自殺するだろう。僕のしたことは彼女の生きる時間を延ばしただけに過ぎない。意味のないことだというのはわかっていた。

 もしや、彼女に惚れていたのだろうか。その解釈も疑問の余地があった。きれいな人だとは思ったが、心は平静としていた。いま彼女の顔を想っても、僕は少しもドキドキしなかった。

 一番合理的な考えは自分の目の前で死なれたら、電車が遅れて帰る時間が遅くなるということだった。しかし、死なれたら面倒だからと言ってあそこまでするだろうか。ますます訳が分からなかった。

 原因はもっと、幼稚なことのように思えた。

 

 

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