小さな逃亡
沙希子は疲れていた。毎日同じことの繰り返し。毎朝夫を見送ったのち、子供たちを学校に連れていく。そして10時半にこの店に来て、開店準備を始める。
ラーメン屋のくせに妙にレトロな家具で揃えられたその店は、沙希子がこっちに来てまだ間もない頃、数少ない日本人の友人の一人が連れて来てくれた場所だった。遠く異国の地にやって来て不安がなかったと言えば嘘になる。しかし、これから始まる未来への期待の方が大きく一度訪れたきり、5年が経った。
夫の仕事も日本にいた時よりも順調だったし、子供たちも現地の生活にすぐ馴染んだ。それが幸せだという事も、沙希子はよく知っていた。
幼いころから沙希子はどこか遠くへ行きたい、という漠然とした思いがあった。それは不安にも似た感情で、どうしたら良いのだろうと焦燥感だけが募り、居ても立っても居られなくなる。
だから夫の海外赴任が決まった時も、迷わずに付いて行くとすぐに決めた。
こっちに来て5年が経った時、沙希子はホームシックにかかっていた。小さな町だったので、日本食が食べたくなっても、材料が揃わないのだ。月に何度か夫に頼んで2時間かけて大きな町へ行き、沢山の食材を買うのだが、半分も使わないうちに腐らせてしまうのだ。そんな沙希子を夫は責めた。そして、家に籠ってばかりいないで、何かをすればいいと提案した。
沙希子は重い腰を上げ、免許を取った。そして中古車を買ってもらい、片道30分の所にある5年前に一度だけ行った事のある、あのへんなラーメン屋で働き始めたのだ。
はじめ夫は面食らっていた。何かをすればいい、と言ったもののまさか働き始めるなんて思っていなかったようだ。生活には困っていなかったし、貯金もできる収入がある。でも沙希子は一度やる、と決めた事はやり通す性格だったので、そのまま働き続けた。
しかし、単調な生活は沙希子にとってやはり不安、焦りでしかなかった。
その日も、朝ごはんに納豆を食べた事以外はいつもと同じだった。夫を見送り、子供たちを学校に連れていく。そして、ちょっと片づけをして、シャワーを浴びる。10時までは一人の時間だった。本を読んだり、テレビを見たり、そんな優雅なことは決まってできず、ぼーっとしているとたちまち10時になってしまう。
ぽんこつなドイツ車に乗り、30分のドライブを楽しむ。毎日通る同じ道。ラーメン屋の駐車場に着くと、店の横におしゃれなファッション雑誌の1ページに載っていそうな、ボヘミアン調なキャラバンが停まっていた。その開いた扉からは、これまたおしゃれな内装が沙希子を釘付けにした。中のソファーに向かい合って腰かけている、老女と若い娘。二人はどんな関係なのだろうか?沙希子はちょっとドキドキしながら、後ろ髪を引かれる思いで、ラーメン屋に入った。
ピンクのテーブルを拭きながら、沙希子は考えていた。ああ、遠くへ行きたいな、遠くに来てしまったくせに、もっと遠くへ行きたい。店の窓から外を見ると、まだそこにはあのキャラバンが停まっていた。
沙希子は雑巾をテーブルに置くと、勢いよくドアを開けて外に飛び出した。
キャラバンのエンジンを掛ける音がする。沙希子はキャラバンの真正面に駆け出して、言った。
ーねえ、私も連れて行って。
後ろの扉が開いて、若い娘がゆっくり手を差し伸べた。その手を沙希子はしっかりと掴んだ。
沙希子の小さな逃亡はこうして幕を開けたのだった。
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