渦巻
*これは芥川龍之介の作品、歯車へのオマージュである。
一年の留学後私は元の高校へ戻り、何となく息苦しさを感じながらも生きていた。何かが変わると期待していたわけではないが、変わったことといえば父が病気がちになったくらいだった。父は家を出ていた。そんな事はどうでもよかったが、兎に角下校時間迎えに来る時、車の後部座席に酒臭いあの女を乗せてくる事だけは止めて欲しかった。あの女だけはどうにも好きになれなかった。酒の匂いをプンプンさせている癖に妙に礼儀正しく、私が助手席に乗る前に後ろから降りてきて、ドアを開けてくれる。
父はあの酒臭い女の所に転がり込んで、家には帰ってこなかった。父はあの女に一緒に死んでくれ、と凄んだそうだ。
私はあの女に嫉妬していた。私なら一緒に死んであげれると思っていたし、なんで父は私と一緒には死にたくないのだろうと残念に感じていた。
午後の授業が始まり、退屈な気怠さの中私は黒板と向かい合い、意味もなくノートをとった。ふと、何か違和感を感じて黒板を凝視した。それは初め小さな透明の渦巻きだった。その渦巻きが視界を占領して、次々と増えていく。そうなると、もうノートをとっている場合ではなくなり、黒板に何を書いているのかさえ分からなくなる。私は、先生に言って授業を抜け保健室へ行った。
私は、いよいよ気が狂ってしまったのではないかと不安になった。しかしベッドの上で横になっている内に、その無数の不気味な透明の渦巻きは消えてしまった。
先生から連絡を受けた母が迎えに来て、私は近くの総合病院へ行った。そこでCTスキャンまでしてもらったのだが、異常なしと言われた。
それから暫くは、その渦巻きが私の前に現れる事はなかった。
父は日に日に体が悪くなり、入退院を繰り返していた。私はよく学校の帰り道、父のお見舞いに県立病院へ寄った。父は病院が嫌いだ。そんな所では死にたくないと言っていた父が、そこに閉じ込められている。私は冷たいウーロン茶を買って父と一緒に飲んだ。雲行きが怪しかった。そして間もなく私の心の嵐の様な雨が降ってきた。土砂降りだった。遠くで稲妻が光った。父はあの酒臭い女に電話を入れている。私は自転車で帰ると言ったが、父は心配しなくていいから、と言ってあの女が来るのを待った。
女はいつものように礼儀正しく、遅くなってすみませんと私に謝った。土砂降りの雨の中女はトランクに私の自転車を詰め込む。私は足がすくんだ様になって、そこに立っているだけで精一杯だった。
車の中で私たちは一言もしゃべらなかった。
高校を卒業して、私は地元で就職した。父は相変わらず病院で、もう先が長くないような感じだった。船の話をしたそうだ。船に乗ろうとしたのだが、満杯で乗れなかったそうだ。
私は父の枕元へ行き、意識が朦朧としている父をみつめた。父は目を開けて、私をみつめた。そして指で私の唇をなぞって、可愛いよ、と言った。
それが私の聞いた父の最後の言葉だった。
父は、鎌倉の病院で桜の散る季節に亡くなった。
横浜に住む父の姉が、父の最後の世話をしてくれたようで父は火葬する前に大分へ戻ってきた。実を言うと、火葬して骨だけ戻す筈だったのだが手続きがうまくいかず、私は父の亡骸を見る事が出来た。きっと骨だけ見ても、私は父が死んでしまった事に納得しなかっただろう。父は微笑んでいた。
その日私は久しぶりにあの渦巻きを見た。桜が散る、真っ青な空。小さな無数の渦巻きが雨粒が水たまりに落ちるように広がっていく。心地の良い頭痛に身を任せて、私は瞳を閉じた。
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