鬱陶しい背中

夫とはいつも背中合わせに寝た。鬱陶しい背中がせわしなく動き回り、香夜子はよく眠れなかった。それが原因なのかはよく解らなかったけど、香夜子は夫がよく寝ていることを確かめて、十代の非行少女の様に家を抜け出した。

夫とは恋愛結婚だったと思う。でも香夜子の中には未だに納得できない、失敗したのかもという苛立ちがあった。三十を目前にして焦っていた事も事実だったし、彼が実は初めての相手だという事もあった。

香夜子は恋愛というものの経験が全くないまま結婚してしまったのだ。

香夜子は車に乗り込むと、結婚指輪を外した。自分でも、本当に貞操観念がないな、と重々承知だった。だけど、この衝動は抑えられない。香夜子は生まれてはじめて本当の恋をしていた。夫の時は、恋に恋をしていたままごと遊びの様なものだった。でも今回の恋は違った。相手の事を思うと苦しくて、切なくて、ご飯ものどを通らない、まさに少女漫画によく出てくるあれだった。

千鶴さんとの出会いは、まさしく偶然だった。夫の帰りが遅かった虚しい夜、むしゃくしゃしてやけ酒を飲んでいたバーで隣に座ってきた、それが彼女だった。七つ年上の大人の女性、だけど華のある優しそうな人だった。酔っていた、そして千鶴さんが女性だから、というのもあった。香夜子はその夜自宅には帰らず、千鶴さんの部屋で夜を明かした。

初めは、ただの友達だった。少なくとも香夜子はそう思っていた。だけど千鶴さんは香夜子の事が好きだと言った。その好きの意味を香夜子は長い間はき違えていた。だけど、千鶴さんがもう会えないから、と言ったとき彼女の好きの意味を香夜子はようやく理解した。香夜子はその友情を失うのが恐かったし、千鶴さんという存在が自分の生活空間からいなくなる事を想像できなかった。

きっと香夜子の中でも千鶴さんへの一種の憧れというか、信頼というか、恋というか、よく解らない感情が混じりあって、同じ好きになっていったんだと思う。それは、理解不可能な感情で香夜子はずいぶん長い間戸惑った。女の人を好きになるって、考えた事もなかった。だけど、今ならわかる。香夜子は性別を超えて千鶴さんの人柄に惹かれたんだ、そして愛してしまった。

「ずるいね」

千鶴さんはよく香夜子をからかう。

「香夜ちゃん、なんだかんだ言っても絶対あの男の所に帰ってしまう。ずるい。」

「じゃ、ちづさん私と連れ添ってくれるの?」

「何それ、プロポーズ?」

「ちづさん、私ちづさんしか愛していない」

よく眠った千鶴さんの大人のくせにあどけない顔を覗き込んで、香夜子はそっと部屋を出る。そして、あの鬱陶しい背中の待つ家へと車を走らせる。

「私は、ずるい」

そっと香夜子はつぶやく。

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