八日目⑦

 写真やパネル展示、当時使われていた生活品が壁を埋め尽くしている。

 美荷樓が建築されたきっかけは、一九五三年十二月二十五日のクリスマスに石硤尾周辺で発生した大火事だった。この火事により四十人が死亡。住宅が密集していたため、瞬く間に広がり、約六万人が家を失った。

 そんな人々に住居を提供するべく、一九五四年に建造された。

 当時最先端とされたH型建築を用いられた六階建てで、二棟をつなぐ中央部に共有施設、トイレなどが設置されていた。


「一棟に百六十世帯、三百人以上が居住してたわけだから、その倍の六百人以上が美荷樓に住んでいたんだ」


 部屋の広さは十一平方メートルほど、三畳半もない狭さ。詰め込み型の一部屋に定員が五人だったため、狭い部屋を有効活用しようとロフトを造って二段ベッドにし、子供たちはベッドを勉強机のかわりにして生活していた。

 各階には六つしか共同トイレがなく、しかもドアがない。


「プライバシーなしとは、トラブルの毎日だっただろうなあ」


 七〇年代になると、壁をぶち抜いて広くしたり、外廊下を封鎖して台所を作ったり、トイレも各部屋に取り付けていく。

 終戦直後の一九四五年、香港の人口は六十万人だった。

 二年後には三倍の百八十万人に増加し、国共内戦に勝利した中国共産党が一九四九年に中華人民共和国を成立したため、共産化を恐れて大陸から年間三十万人以上の移民が香港へ入ってきた。

 中国大陸では一九五〇年代の大躍進政策の失敗、六〇年代から七〇年代の文化大革命と混乱が続き、中国からの難民が絶えず流入し続けた。本土から逃げ込んできた多くの資本家や企業家、知識人が香港の経済発展に貢献し、移民の安価な労働力をつかって製造業が発展していくのだ。


「日本でも団地が建てられたのは、一九五〇年代からだった。符号するのは面白い。その後、香港は上へ伸びていったのは日本と違って地震がないからなのか」


 美荷樓当時と現在の香港建築を比較すると、考えられないほど超高層化している。

 土地を管理する政府がなかなか放出せず、建築許可が下りてもすでに供給不足なため、高層建築になってしまうのだ。ただでさえ山が多いため不動産開発はむずかしく、世界でも主要な金融センターがあり、第二公用語の英語が通じ、法人税も安いことが、商業ビルの密集と高層化の要因にもなっている。付け加えて、不動産価格が高騰する中、富裕層が投資目的やセカンドハウスとしてマンションを購入している現状がある。


「香港に住む現在の人たちは、どういった暮らしをしているのだろう」


 誰に問うでもなしにサクヤは呟いた。

 歩きながら、以前トモが教えてくれた話を思い出す。

 親が購入した住宅がある場合、子供も同居し、2~3LDKの間取りに二段ベッドで生活する。相続税がかからないため、そのまま居住し続けるケースも少なくないらしい。賃貸の場合、日本円で十八万円ぐらいのワンルームを借りるが一人で住むことはなく、ルームシェアをし、二ベッドルームの家賃半額分で借りる。日本円でおよそ十二万円ほど。香港での手取りが二十五万円であるから、給料のおよそ半分は家賃で消える計算だ。

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