五日目⑦
サクヤとトモは、ビーチに足を伸ばす。
誰もいない砂浜は広く、きれいだった。海を見渡せば遠くに水平線が見える。
トモは南シナ海の向こうを指差し、うっとりした笑みを浮かべて呟く。
「三五〇〇キロの彼方から、美しい浜辺に来れたね」
そうだね、と声をあげてサクヤは目をひそめる。
「そんなに離れてるんだ」
しばらく砂浜を歩いていくと、いい感じの木陰にハンモックを、サクヤは発見した。
「誰もいないし、揺られてみよう」
早速、サクヤは足を投げ出し寝そべり、トモも隣のハンモックに寝転がる。
揺れる視界の遠くに砂浜と海が望める。ほどよい風が頬をなでていく。
サクヤは体から力が抜けて、うっとりしてしまう。
「あ……これはやばい」
そう呟くと隣から、
「そうね……」
眠そうなトモの声が聞こえた。
ここで読書したら、確実に小一時間は眠れるだろう。
試してみようと、サクヤは持ってきたウィリアム・サマセット・モームの短編集『コスモポリタンズ』を読みはじめる。三十編からなる短編集であり、一編目は一九二四年、最後の話は一九二九年に書かれた作品だ。
劇作家であり医者であり、諜報部員として働きもした作者は、大変な旅好きで生涯長期旅行をしている。
作家として世に出るとスペインヘ旅行し、パリに長期滞在中にイタリア各地を訪れ、第一次大戦が起こると、ベルギー戦線の野戦病院で勤務、イギリスの諜報機関に転属するとスイス・ジュネーブに滞在するも健康を損ない諜報活動を一時休止し、米国へ渡り、タヒチ島など南太平洋の島々を訊ね、日本からシベリア経由でペトログラードへ向かう。
一九二○年代には船旅で世界各国を巡り、ニューヨークをはじめアメリカ各地や南太平洋、中国大陸、マレー半島、インドシナ半島などを訪れている。
まさにコスモポリタン、国際人なのである。
その旅先で出会った人々から得た着想から生まれた、本当のような創作のようなショートストーリーの数々がまとめられている。
彼は「読書は人を聡明にしない、ただ教養ある者にするだけ」と言葉を残している。
まったくもってそのとおり、サクヤは同意しつつ淡々とページをめくる。まぶたが重く、めくる指を動かすのも億劫になってきた。
「九十年前のリアル・トリッパーはあじわい深い。観光もいいけど、リゾートの過ごし方ってこれだよね」
しばらくして、
「そうね……」
寝言のようなトモの声が聞こえた。
ひょっとすると寝言かもしれない。そう思いながらサクヤは目を閉じ、うたた寝をはじめた。のんびりハンモックに揺られたら、誰だって眠ってしまうに違いなかった。
どれほど眠っただろう。
目が覚めると、辺りは眠る前と変わらない明るさだった。トモは起きているのだろうか。横を見ながら声をかけてみる。
「そういえば、キョウとカコが行った五行山って、どこにあるかトモは知ってる?」
返事はなかった。眠った彼女を起こすのも悪いと、目を閉じかけたときだ。
「ホテルから南西に歩いて十五分くらいのとこ。山全体が大理石でできているらしく、パワースポットで観光客には人気なんだって」
寝ぼけたようなトモの声が聞こえてきた。
「寝てた?」
「少し。サクヤは?」
「わたしもちょっと寝たかな。山登りより、のんびりがいいよね」
サクヤのつぶやきに、トモは噴き出した。
「してるじゃないの」
カコとキョウが向かった五行山は別名、マーブルマウンテン。ベトナム語でグハンソンと呼ばれる連山だ。石灰岩と大理石でできており、それぞれの山には名前がついている。
金山(キムソン)
水山(トゥイソン)
木山(モックソン)
火山(ホアソン)
土山(トーソン)
二百年前、ベトナム全土を最初に統一した最後の王朝、阮朝の二代目帝王、ミンマン帝により陰陽五行説にのっとて名付けられた。
かつて大理石を発掘していたこれらの山々は、今ではベトナム人にとって参拝して巡る聖地となっている。
いい伝えによれば、かつてノンヌオックビーチの海中から龍が出現し、卵を産み落とし、その卵からうつくしい娘が産まれ、残った殼が五つの神秘的な山に変わったのだそうな。また、中国明代の小説『西遊記』で、孫悟空が五百年間も下敷きにされていた山でもある。
またの名を、両界山。
東勝神州傲来国花果山山頂の仙石から生まれた悟空は、天界で官職を与えられたが、地位の低さが気に入らず大暴れして神々を困らせた。救援に来た阿弥陀如来が、自らの右手の五本の指を金・木・水・火・土の連山とし、その下に悟空を押さえつけた。それが五行山である。
五行山はその後、唐の時代になって両界山と呼ばれるようになった。
これは、山の東半分が唐、西半分は韃靼に属したからだ。
こうして悟空は五行山の下に五百年間閉じ込められる。その後、観音菩薩が訪れ、「唐から天竺へ向かう取経の者がやってきたら助けてもらい、その者の旅を助けるように」といいつけられ,、その言葉どおり、天竺へ向けて長安を出発した玄奘三蔵が双叉嶺を越えてこの地にやってきた。悟空はやっと救出され、三蔵の旅に供として従うのである。
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