二日目⑧

 昼食後、参加者全員で記念写真を撮り、迎えに来たタクシーに乗ってホテルまで送ってもらう。なかなか稀有な体験だった。

 ホテルに戻ったサクヤは喉の渇きを覚える。陽盛りに喉から胸の奥へ涼気を通す飲み物といえば、ビールしかない。

 午後からはダラダラ過ごそうと決めて、両替とビールの買い出しに出かけた。

 今回の旅の目的は、ダナンにある。近くにはランタンが灯る世界遺産の街、ホイアンがあるので、まずはそちらへ訪れようと言い出したキョウの提案をサクヤは聞き入れたのだった。

 一六世紀から一七世紀、日本との間で行われた朱印船貿易で、朱印発行数が一位だったホイアンは、ベトナム戦争の戦火を逃れたことで当時の街並みが今も残り一九九九年、ユネスコにより世界遺産に登録された。

 その話を知ってサクヤは興味を持ったが、是が非でも行こうとするキョウほどの関心は持てなかった。

 それでは、何に惹かれてホイアンへ行こうと決めたのか? 

 サクヤの目に留まったのは、ビンフン・ヘリテージホテル。世界遺産に宿泊してみたい、と思ったのだ。

 漢字で『永興』と書く、ビンフン・ヘリテージホテルは、ホイアンの歴史保護地区の中心、チャンフー通り中央に位置する。築二百年ほどの中国家屋を利用して造られた趣あるホテルなのだ。外観も内装も当時の雰囲気を忠実に再現している。ロビーには中国風の重厚な家具、磁器の壺が並び、その奥は中庭となっている。間口が狭く、奥行きが広い。中国風商家の特徴的な構造だ。

 階段のところで靴を脱ぎ、サンダルに履き替えて二階へ上がる。

 一階に二部屋、二階に四部屋の全六室。

 二階のチャンフー通りに面した二部屋が、有名なヘリテージスイート(旧チャイニーズスペシャルルーム)であり、サクヤたちが泊まっている部屋である。

 206号室の前にある208号室の扉上には、〈マイケル・ケイン〉と読める。

 二〇〇二年に封切りした映画『愛の落日』の撮影で、俳優のマイケル・ケインがこの部屋に滞在したのだ。

 イギリス作家、グレアム・グリーン原作の政治サスペンス『おとなしいアメリカ人』を映画化した『愛の落日』の舞台は、ベトナム解放戦線がフランス占領下で独立をかけて戦っている一九五二年のサイゴン。

 主人公は、ロンドン・タイムスの初老にさしかかった特派員トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)。彼は、イギリスに妻子を残したまま、美しいベトナム女性フォングを愛人として囲い、ジャーナリストとは名ばかりの優雅な暮らしを楽しんでいる。そこへ援助団体の一員として着任したばかりの若者、アルデン・パイルが現れファングに接近していく。あせるファウラー。ベトナム情勢も次第に混迷を深くしていく。ファウラーとフォング、パイルは複雑な関係に陥っていく男女の物語である。

 映画を見たこともなければ、作品の存在もしらず、聖地巡礼といった、ロケ地巡りにも興味がなかった。

 惹かれたのは、世界遺産に宿泊できる一点に他ならない

 部屋の間取りは六十平方メートルほど。作業机や鏡台、クローゼットの家具類もアンティークな作り。クローゼットの中にはセーフティボックス、派手なガウン、バスローブが置かれている。バスルームはアンティーク調でなく大理石づくりになっており、可動式のシャワーに木製浴室となっている。いい感じだが、湯の出が弱いので溜めるには時間がかかる。

 テレビにはNHKワールドチャンネル(英語放送)が入っていた。

 建物も部屋の中も一種の博物館。チャンフー通りを行きかう人々を眺められるバルコニー。外を眺めているだけで世界遺産の観光になるのだ。

 買い物から戻ったサクヤは、バルコニーへ向かい、ほっと息をつく。


「ベトナムの京都っていうのはどうかと思うけど、ほんと、いい眺め……電線がなければ」


 視界の邪魔、蜘蛛の巣みたいにうっとおしい。

 サクヤはテラスの椅子に腰掛け、缶ビールをすする。

 青虎マークのラルーは、フランス植民地時代、フランス人のビクター・ラルーがベトナムで作った百年以上の歴史があるビールである。ベトナムビールの持つ独特の甘さ、少し酸味のある口当たりにスッキリした喉越し。飲みごたえよりもサラサラとして飲みやすい。暑い日にがぶ飲みするにはもってこいの、ダナンではポピュラーなビールである。


「サクヤー」


 耳に届く声に階下をのぞけば、麦わら帽子をかぶるキョウが手を振っていた。

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