6


 逃げ出そうと思った。だけど、こんな時に限って私はしょうもないドジをする。持っていたパンが、音を立てて床に落ちていく。

 カーテンの下の男と目が合った。よく見知った男だった。彼は、さっきまで抱き合っていた芹野から手を離して、やっぱり邪魔そうに私を見ていた。

 私は、気が付いたら二人に詰め寄っていた。パンも、時間を破ったこともどうでもいい。振り向いた芹野の表情が、とても辛そうで、放ってはおけない気がした。


 「……香月、なにしてんの、ねえ、芹野も、あんたたち、なにやってたの」

 「……渡瀬って、ほんとどこにでも湧いてくるよな」

 「香月こそどこにでもいるじゃん」

 「……一応言っとくけど、俺は、そういうんじゃないから。みれいには絶対言うなよ」


 すぐ隣にいた芹野のことを軽く突き飛ばして、次に私を一瞥し、香月は部屋を出て行った。ばたん、と勢いよくドアが閉まる音が、とても遠くで、ひとごとみたいに聞こえた。

 みれいの彼氏で、容姿端麗で、成績は悪いけれど人望はあって、私以外には誰にでも優しい香月が、私以外に冷たい態度を見せるのを初めて見た。香月はオンオフの切り替えが異常なくらいに上手い。相手に合わせてうまく媚びを売り、信用と地位を勝ち取ることにとことん長けている。そんな香月が一切の飾り気を取り除いた、黒々とした中身を見せる相手は、私くらいしかいないと思っていた。相当嫌いな相手にしか見せないであろう素振りだと思っていたのに。香月は芹野の事が、私と同じくらい嫌いなんだ。


 「ちょっと、大丈夫?」


 我に返った私は、床にへたり込んでいる芹野に手を伸ばした。「十五分は来るなって言ったよね」と私を睨みつける瞳は真っ赤だった。病的なほどに白い肌と、瞳の色のコントラストが綺麗で、息を呑んでしまいそうになる。でもこいつは、さっきまで男と抱き合っていたような奴で。他人の性的嗜好については様々あることを理解しなければいけない世の中になってきているのはわかっているし、私とみれいも傍から見れば同じような物なのに、いざ目の当たりにするとどう声を掛ければいいのかわからなくなる。そんなふうに思っているのを芹野も察したのか、気まずそうに目を逸らして、「あんなの見せてごめん」と初めて素直に謝った。

 ひざ掛けの事、やけにご機嫌だった事、全部踏まえて考えると、芹野は香月の事が好きなのだろうという結論に至る。普段からセクハラまがいの質問ばかりしてきたのに、今更「あんたって男の方が好きなの?」と聞くことには引けてしまう。香月も香月で、いつもあんなにみれいみれい言っているくせに、(たまに他の女に浮気もするけど)まさか男もいけるとは思わなかった。パニックになって頭の上にクエスチョンマークを量産している私が、黙り込んだ芹野にかける気の利いた言葉など、思い浮かぶはずもなかった。


 「……好きな子って香月のことだったの?」


 咄嗟に口から飛び出た直接的すぎる質問に、なんてデリカシーのない、と自分でも思うし、芹野も何も言わずに床を睨みつけている。本当は、こんなことを言いたかったわけじゃない。何も浮かばない頭の中で、芹野の言いつけを守っておくべきだったなと、今頃になって思うのだ。

 次に放つ言葉を、張りつめた沈黙の中で探すけれど、当然なにも浮かばない。私より先に、芹野が口を開いた。


 「……そうだよ、ワタラセは、どうせ軽蔑するんだろうけど……」


 そう呟く表情には、諦めと、どこか悲哀さが滲んでいた。

 私は、床に投げ出されていた芹野の手を取った。はじめて、彼に触れた。さっきまで体温が上がっていたせいか、思っていたよりも熱かった。


 「そんなことよりも、好きな人からあんな乱暴にされるほうがおかしいって。大体、香月には付き合ってる女も居るんだし、それでいて他の奴とあんなことするんだよ、ほんとにクズだよ、あいつ」


 そこまで言い切った時、真っ赤な瞳の芹野と、ようやく目が合った。私が私らしくないことを言ったからか、物珍しそうにこっちを見ている。もし私に女の子の友達がいたら、こんな風に恋の話をするのかもしれないが、生憎今までの人生、そんなものとはまったくの無縁だったのだ。


 「……香月くんは、自分を好いてくれる人が好きなんだ。それが男でも女でもどうでもいいだけ。誰かを夢中にさせて、依存させて、自分無しじゃ生きていけなくなるまで追い詰めて、あっさり捨てるのが好きなんだ」


 四年も一緒にいるからわかるよ、と芹野は言う。香月がどれだけ人間としてダメかなんて、私が教えなくても芹野は知っていた。四年の付き合いの中で、何があって、どういう経緯でこんなことになっているかなんて、私が知る権利も余地もないし、今聞いても、絶対に頭が追い付かない。


 「ぜったいに叶わないし、叶っちゃいけない恋だと思ってたのに、中途半端に餌だけ与えられてさ、期待しちゃうじゃん」


 赤く腫れた瞳の奥の光が、また揺らぐ。簡単に崩れてしまいそうなほど、儚くて、危うい。制服の袖で目尻を拭って芹野は、私が握った手を、弱弱しく握り返した。


 「芹野」

 「……みなも」

 「……えっ?」

 「……もうちょっとだけ、手握っててよ。何もしないから」


 昼休み、音楽室は静かに時を刻む。窓側でふたり、愛されなかった彼と、愛されることに疲れた私。

 私は、壊してしまわないように、ほんの少しだけ、強く手を握り締めた。ついに腕で目を隠して、肩を震わせる芹野の背中を、反対側の手で摩ってあげたかったけれど、私の手は、勇気は、やっぱり簡単には芹野には届かなかった。それどころか、音楽室に来れるのは今日で最後かもな、なんて、ここまで来ても自分の保身を考えてしまう自分に嫌気がさしていた。

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罪の名のエーテル 夢野ピ子 @Denchiii

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