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芹野の言ったその言葉が、ずっと気にかかっていたけれど、私は何も聞けずにいる。芹野は今までにないくらい機嫌が良い。無理矢理に「秘密」を聞き出そうとして、それが彼の気分を下げてしまったら、もう二度と元には戻れない気がした。
当たり前だけど、私にみれいや香月という人間関係があるように、芹野にも芹野の人間関係がある。私の知らない人と、知らないところでコミュニケーションを取り合って、笑ったり泣いたり怒ったりしている。いつもはここで、ずっとずっと二人きりだから、芹野の世界は私だけで、私の世界は芹野だけ、というような、ある種の錯覚をしていた。だけど実際は全然そんな事なくて、私がみれいに振り回され、不愛想な香月に申し訳なさを覚えているその間にも、芹野はクラスの可愛い女の子と親睦を深めていたわけだ。
こっちの機嫌が悪くなりそうだった。私はこんな感じだから、生まれてこの方彼氏が出来たこともないし、好きになった人に限っていつも、電車でOLに痴漢をして退学になったり、私たちが考える「B」を遥かに凌駕するレベルのB専だったりする。自分の男を見定めるセンスは、悪い方向で、とても優秀なのではないかと思う。このまま、これからも音楽室にずっと二人で居て、たまに会話をして、数日に一度こんな笑顔を見せられると、単純な私は、芹野の事を好きになってしまう。たぶんきっと、恋愛的な意味で。
勝算のない戦いを続けるほど馬鹿ではないし、好きになってしまった人をすぐ諦められるほど頭は良くできていない。だから、最初から好きにならなければいい。私はいつも、そうやって心にブレーキをかけるから、「好きになってはいけない」と思い込むのは得意だった。いかに相手に対して恋愛的に幻滅するポイントを探すか大事で、一度冷めればもう後は早い。
ただ私は、この音楽室で過ごす時間は手放したくないのである。
私が何かを失いたくないと感じることは、芹野が私に対してにっこりと笑い、その秘密に関して自分から嬉々として語るのと同じくらい珍しいことだと自負することにする。衣食住の関係で世話になっている家族を差し引くと、私の人生は、「無くなっても別に困らないもの」だけで構成されているのだ。特に、人間関係に対しては強くそう感じる。私の持つ人間関係などみれいと香月くらいなのだけれど、みれいには一方的に付きまとわれているだけだし、香月とは一定の距離を保ち、お互いの幸せと平穏を適当に願い合っている、とても希薄な関係でしか繋がっていないのだ。明日みれいが死んでも私は特に困りはしないだろうし、香月がみれいを手放して他の女と付き合い始めたとしても、どうぞお幸せに、としか思わないだろう。
だけど、音楽室に居ることを否定されると、私はもう学校には居れない。つまり私はここに依存している。芹野には、私の事を否定されたくない。
「ワタラセ。今日は大事な用事があるから、昼休みはここを僕の貸し切りにさせてよ。十五分くらいでいいからさ」
芹野は穏やかに微笑んでいる。私は、なんだかもやもやした気分のまま頷いた。
□
昼休みを告げるチャイムが鳴る。音楽室から出たくないと主張する芹野に代わって、私が購買に行き、いくつかのパンを買うのが日課だった。今日はそれに加えて、芹野から十五分間の音楽室立ち入り禁止令が出ている。
普段の私なら、それを素直に聞き入れただろう。購買でパンを購入する時間を五分として、残りの十分間は、適当に校内をぶらぶらして、音楽室に戻る。過干渉は、するのもされるのも大嫌いだ。私は芹野の願いは聞き入れるし、困った時には芹野に私の頼みも聞いてほしい。ほどほどの距離感を保ち、より快適に暮らせるように利用しあう、そんな人間関係が、一番楽だ。どちらかがどちらかに入れ込んでしまった時、その関係は崩れる。男女の付き合いと言えば大抵これで、「友達」なんて都合のいい関係は、よほどの人格者同士で、さらに運も良くないと成立しないと思っている。
ただ、今日の私はなぜか、芹野に過干渉がしたかった。今まで私は、芹野本人にも言われるほどデリカシーのない質問をしては彼をイラつかせてきたけれど、一度拒否されたら素直に引き下がるし、あまり深くは入れ込まずに付き合いを続けてきたつもりだ。だから、私は芹野の事をあまり知らない。
つまらない有象無象のような人間には興味はないが、一週間くらい一緒に過ごしても、ほとんど何の情報も得られない芹野のことは、やっぱりかなり気になっていた。今まで出会ったことのないタイプだったし、姿形も整っているし、その身に纏った儚くアンニュイな雰囲気に、過去に何かあったんだろうなぁ、もしくは現在進行形で何かがあるんだろうなぁ、と感じて、興味は尽きない。どうやら私は物憂げなオーラが好きらしい。みれいや香月のように、外見が整った奴なんてのはこの世にごまんと居るけれど、芹野だけは少し違う気がして。
パンを買った後、私はすぐ音楽室に戻ることにした。私をわざわざ追い出した十五分間、芹野が何をしているのかが知りたかった。
音楽室のある棟に向かう。通り過ぎていく生徒たちは、隣の友人と会話をしながら、あるいは一人で、暇そうに、呑気に歩いていく。私にはそんな奴等とは違って、やることがある。久しぶりに感じる、生きている心地に、心臓が脈を打つスピードも速くなる。
時計を確認して、ふう、と息をついた。芹野に提示された時間までは、あと七分あった。私はパンを持って音楽室のドアの前に立っている。ドアにガラス窓が組み込まれているとはいえ、ここからでは音楽室の全貌は見えない。だけど、見たところ、芹野はいつもの定位置にはいなかった。
芹野が私に内緒で、音楽室を貸し切るほど大事な用事って、なんなんだろう。そう考えた時に脳裏に浮かんだのは、午前中ずっと機嫌が良かった彼の姿だった。きっと恋だろうと勝手に予想していたけれど、音楽室に好きな女の子でも招待しているのだろうか。それなら私が積極的に邪魔をしてやろう。三人でパンでも食べて、和やかな昼休みを過ごすのだ。
直前に少し躊躇したが、私は引き戸に手を伸ばす。静かにそれを引いたとき、目の前に広がったのは静まり返った音楽室だった。やっぱり、この部屋は他とは全然空気が違う。どこか遠くで聞こえる誰かの楽しそうな声でさえ、幻想的で荘厳なものに思わせる。ふと訪れた、一瞬の沈黙の後、誰も居ない音楽室に風がふわりと入り込む。舞い上がったカーテンの下に、人影が二つある事に、やっと気が付いた。
そして、その二つの人影が、唇を重ね合わせていることにも。
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