068 : BIRTHDAY -4-

「嫌だ!」

 悲嘆にくれた叫び声。その声は疲労と乾きに掠れ、もはや男女の区別もつかない。声は何かから逃げるかのように、ただ、ただ、走り続けた。

 山を越え、海を渡り、町を駆け抜けた。その間も声は叫び続け、その器たる体は走り続ける。

 身も心も、やせ衰えていく。しかしその苦しみによってのみ、『器』は自らの存在を確かめ、唯一の救いに涙するのだった。

 幾度も夜が来て、朝を迎えた。

 夜が長くなる。闇が濃くなっていく。

 そうするうちに『器』は、地平線に続く草原へと辿り着いた。

 周囲には、人間どころか小さな虫の姿すらない。辛うじて生えた周囲の草木も、もはや渇きに沈んでいた。

「精霊達すら、ついに言葉を失ったのか」

 『器』がぽつりと、呟いた。その手に一条の槍を持ち、じっと虚空の一点を見る。

――さあ。

 どこかから、楽しげな声が聞こえてきた。歓喜と憎悪にうち震えた声。親しげで、それ故におぞましい声。

 ああ、いけない。

 心が揺らぐ。決意が覆されてしまう。

 いけない。

 選んではいけない。

 けれどこの手を取れば、――この手を取らなければ、その時は。

――ああ、ああ!

 私の思考が、闇に沈む!

 

 唐突に、ぱちりと目が開かれる。それは拒絶に等しい覚醒であった。

 なにやら、嫌な夢を見た。しかし寝ぼけ眼をこするアルトが認識していたのは、それによる不快感のみであった。一体何の夢を見ていたのやら、記憶の端にも残っていない。それどころかアルトには、自分がいつ眠りについたかさえわからないのだった。

 ぼんやりしたまま首を回すと、頭上に見慣れぬ天蓋が見える。ああ、そうだ。ここはマラキアではないのだった――。久々に味わう柔らかなベッドの感触に、心許無い意識が揺らぐ。

 既に陽は落ちきっていた。灯りのない部屋は闇に満ちており、窓からこぼれる月明りだけが、室内の物の輪郭を浮かび上がらせている。

 肌寒さを感じて、アルトは小さく身を震わせた。どうやら掛け布団もかけず、ベッドカバーの上で眠っていたらしい。寝返りをうつと、今度は靴を履いたままでいるらしいことに気がついた。

 ふと、心に違和感が落ちる。自分は何故、そんな格好のまま眠ったのだろう。

 しかしそう思うそばから、再びとろんと視界が揺れた。ああ、眠い。再び眠ってしまいたい。この甘い香りに包まれたまま眠っていられるのなら、どんなに幸せなことだろう。

 ぼうっとする頭を枕にうずめ、不自由な右手で胸元を探る。それは無意識のうちの行動であった。だが壊れた金のペンダントは、やけに冷たく指を刺す。

 その冷たさは針のようであった。冷たく、優しく、

(――!)

 異変を伝える、痛みの針だ。

 まるで冷水を浴びせられたかのように、さっと意識が覚醒していく。腹のうちにヒヤリとするものを感じながら、アルトは思わず咳き込んだ。甘ったるい、しかし鼻につく刺激臭が、この寝室に充満している。

 嗅いだことのない臭いだ。しかし強烈な眠気を誘う。

 やっとの事で体を起こすと、ぐらりと視界が揺れていた。飛び起きようとしたはずが、何故だか体の動きが鈍い。言いようのない不快感に目が回る。

(もう、夜だ)

 夕方には、王との晩餐に行かなくてはならないのではなかったか。その後だって戴冠式の準備の為に、すっかり予定が埋まっていたはずだったのに。そんな事をまず考えて、アルトは頭を抱え込む。違う。考えるべき事柄は、既にその段階を超えている。

 次から次に疑問が浮かぶが、そのどれにも答えは出ない。考えるそばから思考力が拡散して、一向に思いがまとまらないのだ。

(この臭いが、原因か……?)

 驚き戸惑う精霊達の気配を感じながら、辛うじてベッドを這い出でる。しかし体のあちこちがピリリとした疼きを伴い痺れており、少しも力が入らない。

 バランスを崩し、膝をつく。それでもやっとの事で窓へ辿り着くと、アルトは荒々しく窓を開け放った。

 掛け金が指を離れると、深閑とした夜の空気が肌に触れる。しかし一方で得体の知れない不快感は、胸の内にうずまきとどまっていた。

 気分が悪い。吐きそうだ。だが、何故こんな事になった?

(確か、部屋に兄上からの使者が来て)

 牢へ訪問する件の話をした。クロトゥラと兵士が部屋を去るのを見送って、それから――。

 何やら、甘い匂いを嗅いだ。

 窓にもたれて咳き込んでいると、まるで体の中身を全て刳り抜こうとしているような気分になる。座り込みたくなるのを必死で堪えて、アルトは右手を大きく振った。意識を保つだけでも精一杯だ。このままではいけない。今、目を閉じれば、きっと再び眠ってしまう。

 眠ってはならない。ここで眠ってしまえば、相手の思うつぼなのだから。

 だがそこまで考えて、アルトは思わず苦笑した。『相手』とは、一体誰のことだ。

 敵は、一体、誰なのだ。

 風を、と、心の中で呼び掛ける。だが二度三度と腕を振ってみても、精霊達が応えてくれる様子はない。

(力を貸してくれ、……どうか)

 四度目に腕を振りきると、ひゅるりと風の唸る声。任せろ、とでも言わんばかりの力強い音に、アルトは窓の桟へとしがみついた。窓枠を吹き飛ばすのではという勢いで、強い風が吹き込んで来たのだ。

 棚の上に置かれていた花瓶が落ち、パリンと小気味のよい音をたてる。枕元に置かれた水差しが倒れ、ベッドの天蓋がめくれ上がった。歯を食いしばって堪えていると、また唐突に風が止む。

 恐る恐る振り返れば、嵐にでも遭ったかのように秩序を失った部屋が視界に映った。こうまでなると、いっそ何やら清々しい。アルトはまた三度咳き込み、ふらつきながら立ち上がる。

 どうやら部屋の空気は一掃できたようだが、気分の悪さは相変わらずだ。しかし聞こえてきた音に、アルトははっと息を呑んだ。

 かたりと小さな物音がした。隣室、応接間の方からだ。

(足音――)

 音から察するに、一人、誰かがそこにいた。クロトゥラが帰ってきたのかとも思ったが、それにしては様子がおかしい。その足音は遅疑逡巡する様子でうろうろと歩き回り、遂に覚悟を決めたふうに、この寝室へと向かってくる。――状況から判断するに、あの香りを焚いた張本人だと見るべきだろうか。

 見れば風に荒らされた部屋の中に、デュオから預かったままになってしまった剣が落ちていた。こちらの得物はこの剣と、残り一つの火薬だけ。視界はいまだ覚束ないが、援軍が来る頼りもない。だがやっとの事で剣を拾い上げると、また少し、朦朧とする意識が定まった。

 そうでなくてはいけない。いざとなったら、戦わざるを得ないのだから。

 覚悟を決めて、足元にぐっと力を込める。しかし扉を開いて入ってきた人物を見て、アルトは言葉のないまま瞠目した。

 肩の高さで切り揃えられた金の髪に、深い色の瞳、人の良さそうな面持ち――。あの臭いを気にしてのことだろう、口元に布をあててはいたが、見間違えるはずはない。

――お前と、たった一人の弟と話がしたくて、メレット宮からとって返してきたのだ。

――もっともお前は私のことを、兄だなどとは思っていないかもしれないが。

(どうして、ここに……!)

 そこに立ちつくしていたのは、他でもないルシェルで話したあの男、ラフラウトの『偽者』であった。

 ごくりと唾を飲み込んで、一歩後ろへ後退る。一方で男は部屋を見回し、愕然とした表情で、「香薬を吹き飛ばしたのか」と呟くように言った。恐る恐るアルトを振り返る顔は土気色で、哀れになるほど怯えて見える。

 逆だろう、とよほど言ってやりたかった。何故お前が怯えるのだ、お前は俺を騙したのに。

 お前はきっと、俺を始末しに来たのだろうに。

「これが、……『狭間の力』を持つ者の業」

 男がぽつりと呟いて、その顔に畏怖の色を残したまま、静かに浅く笑い出す。アルトが眉間に皺を寄せると、相手は笑いを苦笑に変えた。

「……。あのまま眠っていた方が、お前にとっては幸いだっただろうにね」

 男の言葉にぞっとするものを感じて俯くと、驚きのために一度は止まったと思っていた咳が、アルトの胸をまた揺さぶった。すると男は笑うのをやめ、「香薬を吹き払っても、吸い込んだ毒は浄化できないみたいだな」とやけに落ち着いた声音で呟く。

(――毒)

 アルトの顔が青ざめたのを、男もどうやら見て取ったのだろう。その表情に再び病んだ笑みを浮かべると、「そんなに心配しないでいい」とまず言った。

「毒とは言っても、せいぜい感覚を麻痺させる程度のものだ。命を奪う威力はない。……、いいか。できることなら、お前に危害を加えたくはない。だからどうか、そのまま蹲っていてくれないか。お前はそれで済むんだ。事が終わるまでじっとしていれば、それでいいんだ」

 男の声ははっきりとしていたが、命令をする口調ではない。それどころかどちらかといえば、アルトにそっと言い聞かせるような、穏やかで、優しげな音をしている。

(どうして)

 想定外の言葉に、戸惑いを隠すことが出来なかった。この男は、一体何を言っているのだろう。危害を加えたくないとはどういうことだ。目の前にいるこの男は、ラフラウトの名を騙ったこの人間は、敵のはずではなかったのか――?

「この城で、一体、何が起きているんだ」

 やっとの事でそう問うも、男が答える様子はない。アルトは剣を杖にし、なんとか一歩踏み出すと、食い下がるように続けた。

「お前は何者なんだ。目的は何だ、何をする気だ。……答えろ!」

 男はそれでも、答えない。ただふとアルトに背を向けると、ぽつりと一言、「カノン」と呟く。森で捕り物をした時のような覇気など、もはや彼の声には微塵も感じられなかった。

 心細げなその肩は、――むしろ今にも、泣き出しそうだ。

「カノン……。それが、お前の本名か?」

「――投獄されていたマラキアの人間は、逃がしておいた」

 アルトの問いに被せるように、男がそう言い、溜息をつく。続いて男はアルトに口を挟ませるまいとでもするかのように、口早にこう言葉を連ねた。

「お前が友人だと言っていた兵士のことも、殺すなとは命じておいた。もっとも、既に俺にはたいした権限もないし、あんまり抵抗するようなら、命の保証はできないが」

 囁くようなその声が、暗闇に蝕まれた部屋へ染み渡っていく。

 青白い月光が照り輝く、それは美しい夜だった。

「なぜ」

 本心からの言葉が、ぽろりと口を突いて出る。すると男は一瞬ちらりと振り返り、アルトに向かってこう言った。

「アドラティオ四世が受けた予言において、この国の王子は三人でなければならなかった」

 聞き覚えのあるその言葉に、はっと小さく息を呑む。

 仄かに漏れ入る月の光が、『カノン』の横顔を照らしていた。深い蒼の眼、王とよく似た金の髪。大人びてはいるものの、本物のラフラウトと比べれば、その面立ちにはまだいくらかのあどけなさが残っている。だが、――

(似てる。ラフラウトや、……父上に)

 心の中で、ぽつりと呟く。同時にアルトの両腕に、不快な鳥肌が走っていった。

――私が授かる子供は三人。それ以上でも以下でもいけない。全てが息子。それも、皆違う母を持つ。

――お前は俺の息子だ。少なくとも俺は、心の中でそう信じてた。

 開け放された窓を通り、静かな夜風が二人の間を駆け抜けていく。するとカノンは目を伏せて、静かにぽつりと、呟いた。

「憐れみくらい持ちたくもなる。……俺達は、その馬鹿な予言に踊らされた同士だもの」

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