067 : BIRTHDAY -3-

「一体、どうなってるんだ……!」

 拳を机に打ち付ける。手を付けてもいないティーセットが、かちゃりと涼しい音をたてた。

 アルトとクロトゥラの二人は今、首都スクートゥムの王城二階、通常ならば他国からの来訪者を通すらしい貴賓室の一つにいた。

 中央に応接間、奥には別個で寝室と書斎がついている、この国で考えられるおよそ全ての贅を凝らしたような造りの部屋であった。しかし細かな彫刻のなされた梁も、見事な硝子細工の花瓶も、疲れ切った二人の目にとまる程の魅力を持ち合わせてはいない。この部屋の事で強いて感想を挙げるとするなら、クローゼットにかけられた見覚えのある服に違和感を覚えたことくらいだろう。聖地ウラガーノで置き去りにしたそれらの服は、ようやく主を得たこの部屋に、既に我が物顔で居座っていた。

 部屋の中を苛々と、クロトゥラが落ち着きなく歩き回る。アルトは行儀悪くソファの上へあぐらをかいて、強く奥歯をかみ締めた。

――どうか、私に償いの機会をくれないか。

――同じように母を失った者同士、私達は助け合っていけるんじゃないかと、私はそう思っているんだ。

 森で出会った『ラフラウト』は、確かにそう言っていた。

 嘘を吐いているようには見えなかった。信じられると思っていた。

 ただそうであってほしいという希望から、信じこんでしまっただけなのだろうか。――だがまさか、こんなふうに裏切られるとは思ってもみなかったのに。

「ルシェルで会話した、あの『偽者』の事だけど」

 クロトゥラがそう切り出したことに、アルトは小さく身震いする。

 『偽者』という言葉が耳の奥を強く衝いて、得体の知れない吐き気を誘う。しかしこうなった以上、クロトゥラの言葉ほどあの男を正確に言い表しているものはないだろう。門前で顔を合わせた、冷たい瞳の色の男をこそ――、王は「ラフラウト」とそう呼んだのだ。

 王とよく似た切れ長の眼に、すらりと通った鼻筋、頬の線。森で会った『偽者』も、本人を意識したのやら、肖像画を真似たのやら、特徴を似せてはいた。だがあれは明らかに、別人だ。

「あいつは一体何者で、何の目的で俺に近づいたんだと思う」

 アルトが先んじてそう問うと、クロトゥラは苛立たしげに溜息を吐きながら、まず「わからん」とだけ言った。それからどっかと椅子に座ると、こう続ける。

「わからないけど、本物のラフラウトと何の関係もない可能性はゼロだと思う」

 力強く断言する言葉に、アルトは目を伏せ、しかし頷いた。アルトもそれと同じ事を考えていたのだ。

 『ラフラウト』を味方だと信じ込ませて利を得るのは、結局のところ『本物』のラフラウト一人なのである。ルシェルで出会った『偽物』は、アルトに「共にスクートゥムへ向かおう」と申し出た。実際はアルトがデュオを追い、単独行動をした為に彼の思惑からは逸れてしまったわけだが、そうでなければ今ごろ既に、相手の策略の内にいたかもしれなかった。

「クロトゥラは、『偽者』と一緒にメレット宮まで行ったんだったよな」

 「ああ」と短く答える声。

「メレットへ行ったのは初めてだったけど、場所から考えても、建物の規模から考えても、あれは本物のメレット宮だった。……でも俺が見た限り、あの『偽者』は宮殿の人間からも『ラフラウト』として扱われてたんだ。宮殿の人間と、あらかじめ示し合わせてあったとしか思えない」

「宮殿には、正面から入ったのか?」

「いや、裏からだ。俺があのボロボロの身なりで正面から入ったんじゃ、宮殿の人間に不信がられるだろうって話になった。多分それも、実際は『偽物』側の都合だったんだろうけど」

「『本物』公認とは言え、宮殿へ正面から大手を振って入れるほどの身分じゃないってことか」

 つとめて冷静な声音でそう返し、紅茶を一気に流し込む。冷えきった紅茶が喉の奥を通っていくのがわかったが、しかし、乾きは少しも癒えやしない。

 そうしていると、不意に戸を叩く音が聞こえてきた。聞いて二人は顔を見合わせ、何も言わずに頷きあう。

 明日の式典の打ち合わせは夜行うと聞いていたし、晩餐には早い時間である。だがアルトからの用はなくとも、アルトに用を持つ人間はいるということだ。クロトゥラが居ずまいを正し、剣を確かめる一方で、アルトは頬の傷を冷やしていた濡れ布を置き、柔らかなソファに座り直す。「なんだ」とぶっきらぼうに声をかければ、予期した言葉が返ってきた。

「ラフラウト殿下より、言伝を言いつかって参りました」

 何か仕掛けて来るのなら、今だろうとは思っていた。

 緊張に高鳴る鼓動を、押し殺すように目を瞑る。一度大きく息をつくと、「入れ」と短く声をかけた。

 戸を開けて入って来たのは、すらりとした長身の男だった。年は五十の半ばだろうか、道中遭遇したのと同じ、ラフラウトの私兵隊の制服を身にまとっている。

「……何用だ」

 声を落としてそう問うと、兵士は無言のまま、手にした書状を広げてみせた。そこに「許可」の文字を見て、アルトは眉間に皺を寄せる。

「牢への立ち入り許可証をお持ち致しました。アーエール殿下がご所望との話を聞き、わが主が手配されたものです」

 城門で皇王に願い出たのを、聞いていたのか。先程のやりとりからそう時間は経っていないのに、随分と手回しのはやいことだ。

「もし必要であればと、囚人のリストもお預かりしております。ご覧になりますか?」

 感情の起伏を感じさせない口調で、兵士がそう話す。差し出されたもう一つの書類を手に取ってみれば、思っていたよりずっと多くの名が書き連ねてあるのが見て取れた。

 長く相容れなかった貴族の名もあれば、毎日顔を合わせていた使用人の名も連なっている。そこにナファンの名を見つけて、アルトは静かに奥歯を噛みしめた。ナファンが統率していた一団には、マラキア以外に帰る場所のない人々を始め、マラキアで負傷した者達が集っていたはずだ。だがざっと見渡してみても――リストの上に、名前が足りない。

(一部逃げおおせたのか、それとも)

 洞でのことを、思い出す。

 きりきりと、胸の内が軋む音を立てていた。しかし兵士は素知らぬ顔だ。

「夜になると牢の警備が増員されるため、出入りの手続きが面倒になります。訪問されるなら、昼のうちがよろしいかと愚考しますが」

(――それで、『必要なら囚人のリストを』になるわけか)

 どうやらこの兵士は、今、アルトを牢まで連れて行きたいようだ。そんなことを考えながら、アルトは内心臍を噛む。

 手を回したのがラフラウトだと聞いた以上、罠である可能性を疑わない道理はない。ここは適当な理由をつけて、牢への訪問自体を見送るべきだろう。アルトの思考の冷静な部分が、辛うじてそう説いている。

 だが、それでも――。今すぐにでも牢まで駆けて、彼らの安否をこの目で確かめたい。その強い衝動に、抗えないものを感じているのも確かであった。

 会いたい。故郷の人達に。

 一日も早く。一時も速く。

 ふと見れば兵士は悪びれた様子もなく、「それから」と更に言葉を続ける。その思った以上に鋭く、刺すような目が捉えていたのは、既にアルトではなかった。

「クロトゥラ様に、お客様がお見えです」

「……俺に?」

 虚をつかれたらしいクロトゥラが、怪訝な様子で問い返す。すると兵士は再び視線を落として、こう答えた。

「はい。火急の用ゆえ、すぐにでもお越しいただきたいとの事です。イェル・ド・ホートヴェクセル様と名乗っておいででした」

 その名を聞いたクロトゥラの顔が一気に色を失ったのを、アルトは見逃さなかった。ホートヴェクセル、聞いたことのない家の名だ。名の響きにも馴染みがない。だが一つ、心当たりがあった。

――僕とクロトゥラの生まれ故郷は、クラヴィーアとの国境に近い、シナヴリアって小国家の小さな町だった。

――二人きりでやっていけるほど、甘い世界じゃなかったからな。ジェメンドみたいな暗殺組織に与してた。

(洞で言ってた、組織の上司だろうか)

 クロトゥラは、『今回の仕事』の期限はアルトがこの首都スクートゥムへ着くまでなのだと言っていた。ならばこの呼び出しも、契約の終了にあわせて部下を連れ戻しに来たと考えるのが妥当であろう。それにしてもクロトゥラがこうまで表情に影を落とす理由は判じかねたが、口を挟む事はしなかった。この友人が、問われる事を全身で拒んでいるような、そんな気がしたからだ。

「クロトゥラ様へ名を伝えればすぐにわかる、と言われたため言伝を預かりましたが、もしお心当たりがないようであれば、こちらで追い返しておきましょうか?」

 クロトゥラの態度を見れば事の次第は明白だろうに、兵士はあくまでも事務的にそう言った。しかしクロトゥラはただ表情を曇らせるだけで、一向に返事をしようとはしない。

 ああ、悩んでいるのだ、とアルトはすぐに理解した。この優しい友人は、何の力も持たないまま王権争いの真っ直中に踏み入ったアルトを、一人置き去りにするとは言えずにいるのだろう。

 二人のどちらも、十分過ぎる程に理解していたのだ。ラフラウトに信用を置くことが出来ない以上、もはやアルトが頼りにできるのはただ一人、アドラティオ四世だけになってしまった。しかし皇王にしてみても、何を考えているやらわからない。

 既にどの道、どの選択肢が、絶望に繋がっていてもおかしくはないのだ、と。

 「クロトゥラ」と声をかける。相手がようやく顔を上げたのを見てアルトは穏やかに微笑んだ。

「仕事か」

「ああ。思ったよりも早かった」

「行かなきゃならないんだろ?」

「……ごめん」

「謝るなよ」

 口元は微笑ませたまま、眉根を寄せて、苦笑する。

――この件が終わったら、組織に戻るつもりでいる。俺にはまだ、あの組織の力を使ってやらなきゃならないことがあるから。

 この頼りになりすぎる友人を手放すことは、正直なんとも心許ない。だがアルトは改めてにこりと笑うと、力強く頷いてみせた。

「行ってくれ。俺は大丈夫だから。――ただ、そのホートヴェクセルって人に会った後、牢にも寄ってくれないか。俺が何とかしてみせるから、待っててくれって伝えてほしいんだ」

 俺が何とかしてみせる。だがそうして口に出す側から、アルトは心の中で、それとは正反対のことを考えていた。敵も味方も不透明なこの場所で、一体どれだけ自由に身動きすることが出来るだろう。どれ程までなら、意志を通すことが可能だろう。そんなことを思ったのだ。

 『偽物』のラフラウトにも、そうとは知らず踊らされるところであった。否、ひょっとすると今もなお、誰かの策中にいる可能性だって否定できない。何が敵で何が味方か、今のアルトにはこれっぽっちもわからないのだ。そう考えると目の前にいる兵士も、この部屋も、先程飲んだ紅茶も、着ている服でさえ、何もかもが偽りで、自分に害を為す毒であるような思いに駆られた。

 じわり、じわりと吐き気が襲う。

 このタイミングでクロトゥラに迎えがきたことも、誰かの策略の内なのだろうか。そうだとしたら、牢のことといい、敵はぞっとするほどアルトの弱みを心得ている。

 敵わない。

「……。俺はマラキアの人間に顔を知られていないから、彼らを安心させられるかはわからないけど」

「ナファンに伝えてくれればそれで良いよ。ナファンなら貴族側にも、使用人側にも、ある程度顔が通るから」

 脳裏に渦巻く弱気な思いを、口に出そうとは思わなかった。

 助けてくれとは言えなかった。

 だからアルトは息を吐いて、せめて平らかにこう続ける。

「『仕事』の話の内容が、契約の更新であることを祈ってる」

 呟くように言うと、クロトゥラが小さく息を飲んで、しかしすぐに「御意に添えるよう、尽力します」と言葉を返す。佇む兵士は少しも表情を変える事なく、ただ静かに頭をたれた。

 「ご案内します」と兵士の冷静な声。アルトはソファに腰掛け、クロトゥラが今まさに出ていこうとするのを見て、ふと声をかけた。

「気をつけて」

 自分でも、なぜそんな言葉が口を突いたのかはわからなかった。

 クロトゥラは驚いたように瞬きして、それから眉間に皺を寄せる。その口許が、音を伴わずにこう返した。

「――おまえも」

 パタンと扉の閉じる音。だがそれに続いて、鍵をかける音などはない。思わずそんな事を確認してしまった自分に気付いて、アルトは自嘲の笑みを浮かべた。一人で部屋に取り残されたせいだろうか、自然と聖地ウラガーノでの事が思い出されたのだ。

(あの時とは、何もかも全て変わってしまったような気さえするけど)

 広い部屋を見回し、立ち上がると、テラスへと続く窓のカーテンをひく。外を覗けば先程通った、市街が一望できた。

 整備された石畳の大通り、連なる屋台、彩る草花。活気に溢れた人々の声が、この部屋へまで届いてきそうだ。

(これが、スクートゥム……)

――王子のくせに、国の首都であるスクートゥムにも行ったことがないなんて、とんだ笑い話だ。

 マラキアから出ることを禁じられていた頃は、いつだってそんなふうに思っていた。国の象徴たる王の住む町。この国の全てが集う町。自由に行き来を許されていた兄達をどれだけ妬ましく思っていたか、今でも記憶に鮮やかだ。

(それなのに)

 それ程望んだスクートゥムの町並みが、今はあての外れた景色に思えた。

 窓の向こうに見たかったのは、こんな景色ではなかった。求めていたのは、――そう。青々と草木の茂った、マラキアの田舎めいた風景だったのに。

 しかしそんなことを考えて、アルトは思わず苦笑した。スクートゥムの窓からスクートゥムの町を臨む、そんな当たり前のことに落胆するなんて、随分おかしな事のように思えたのだ。

(ウラガーノの窓から夕日のいた町を見たように、この窓も、どこかおかしな場所に繋がっていてくれたらよかったのに)

 そうであれば少しくらいは、この鬱々とした気分も晴れただろうに。

 ずるずる窓辺に座り込むと、レースのカーテンを手にしたまま、アルトは深く息を吐く。ここまで支えてくれていた友人の目がなくなると、かえって自由を得たような、そんな気分になったのだ。

(俺も、牢までついていけばよかったかな)

 本当は今だって、牢へ駆けていきたい思いは山々なのだ。

 馴染みの顔に会いたかった。

 一言でいい、話したかった。

 安否を問うて、無事を伝えて、そうして、……それから。

――まさかそんな事を言うために、ここまで旅したわけではあるまい。

 一緒に、泣いてほしかった。

 目を閉じる。どこからともなく漂ってきた甘い匂いが気になったが、それが一体なんであるのか、確かめようとは思わなかった。

(もう、立ちたくない)

 歩きたくない。指の先すら動かしたくない。

 涙すら、少しも零れはしなかった。

 精神的にも体力的にも、もはや限界が見えていた。

「『僕』のことは、助けてくれないのに」

 以前言われたその言葉が、喉の奥を通って行く。

「夕日……。お前もあの時、こんな気持ちでいたのかな」

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