060 : Fragment -2-

 アルトより幾分幼いその少年は、明るい目をしてそう言った。それからアルトに歩み寄り、自らが首に下げていた、金のペンダントを取り出してみせる。まだ開かれていないそのペンダントは、陽を受けきらりと輝いた。

「デュオが本当の父親ならよかったのに。俺達はずっと、そう思ってた」

 あまりに素直なその言葉に、アルトの肩が、びくりと震える。それを見た少年はやれやれと肩を竦めたが、話をやめる気配はない。

「このペンダントをもらった朝だって、本当はそれを伝えようとしてたんだ。覚えてるだろ?」

 そう話す少年の瞳が、悪戯っぽい光を湛えて輝いている。

 ああ、見たことのある光の色だ。そんな事をふと思う。こんなふうにきらきらとした瞳の色でさえ、昔はアルトのものではなかった。

「マラキアを発つ明け方、俺達はあの部屋から最後の脱走をやらかした。そういえば、そうやって部屋を抜け出す方法を教えてくれたのも、元はといえばデュオだった」

「……。木の登り方や、ロープの結び方の事か」

「そうそう。他にも物の作り方とか、生き物の世話とか、悪戯の仕方も、抜け道も、デュオは何でも知っていた。俺達の、自慢の友達だった」

 じわり、じわりと、言葉が肌に染みこんでいく。その耳触りのよさに、不意にアルトは怖くなった。

(そんなこと、俺だって十分わかってる)

 言われるまでもないことだ。しかしそれなら、何故こんなにも不安になるのだろう。

 何故こんなにも、自分の心に背を向けたくなるのだろう。

 そうしている間にも、少年は笑顔を絶やさずアルトの顔を覗き込んでいる。しかし、その笑みはどこかせっかちだ。にこにこと微笑む一方で、黙り込むアルトの言葉を催促し続けている。

 アルトは思わず溜息をつくと、自分でも驚いたことに、その頬に苦笑を浮かべた。

「本当の父親だったらって、思ったことはあったよ」

 ぽつり、と言葉をこぼす。少年は表情を崩さない。

「あの頃のデュオは、俺にとっては数少ない、対等にいてくれる友達だった。友達で、相談役で、……父上とは違って、いつも側にいてくれて。だけど」

「だけど?」

 少年が静かに問うてくる。しかしアルトは、すぐには言葉を続けられずにいた。

 舌が思うとおりに動かない。特別に感情が高ぶっているわけでもないのに、一体なんだというのだろう。

 その理由を、アルトは既に知っていた。知っていたからこそ、この目の前に佇む少年が少し、憎らしい。

「だけどそれは、デュオがただの友達だったから思えたことだ。もしそうだったら、って、空想するのが楽しかっただけなんだ。もし俺が王子でも何でもなくて、マラキアの地に縛り付けられることもなくて、……そうしたら、どんなによかっただろうって」

 少年は微笑んだまま、それでも口を開かない。

 人気のないこの闘技場に、暖かな風が吹いていた。心にひどく懐かしい、マラキアの風だ。

 マラキアの春はいつも優しい。季節の訪れと共に土の香りが目を覚まし、草木は誇らしげに葉を広げていく。また一方では色鮮やかな花々が舞い、アルトの心を浮き立たせた。

 マラキアの春が好きだった。アルトが七つの誕生日を迎えた、あの一度きりを除いては。

「母上が亡くなられたばかりの春、俺達の世界は真っ暗だった」

 少年が何の感情も感じさせない声で、唐突にそんなことを言う。

「ナファンに母上が病死されたと聞かされた時から、何かがおかしいとは思ってた。母上には毎日会っていたけれど、どこかを病んでいる様子なんてこれっぽっちもなかったんだから。……だけどまさか自殺だなんて、あの時は考えもしなかった」

 穏やかな風が、二人の頬を撫でていく。

「事実を知ったとき、きっと、俺は母上に愛想を尽かされたのだと思った。兄上達は幼い頃から文武の才に秀でていると噂されていたのに、俺はちっともだったから」

「その上、その考えを裏付けるようなタイミングで、父上からはマラキアを離れることを禁じられた。父上はきっと、母上にさえ見捨てられた俺の顔など、見たくもないのだろうと思った」

「世界が崩れたような気がした。――あの時の俺は、劣等感の塊だった」

 アルトが口を開くと、少年もまた、言葉を紡ぐ。アルトにはいつの間にか、それが自分の言葉なのか、少年の言葉なのか、区別がつかなくなっていた。

 けれど恐らく、区別をつける必要など、はじめからなかったのに違いない。

「だけど、デュオに救われた」

 二つの声が重なって、アルトは一度、言葉を切った。喉を潤わそうとして唾を飲み込むと、不意に視界が歪んで見える。

 それが涙のせいだと気付くまでに、そう時間はかからない。

「あの人は、俺の悩みなんてみんな笑い飛ばしてくれたから」

――アルト。

 初めてその名で呼ばれたのは、確か出会って初めての夏のことだった。

「……それ、俺のことか?」

「ああ。一瞬、そう見えたのさ」

「誰か、知り合い?」

「いんや。――古い言葉で、高原の風って意味さ」

 白い大きな雲の形。それを見上げた、まぶしそうなデュオの表情。その瞳の色は、燦々と照る陽の光にさえ勝って見えた。

 その時、将来はこんなふうになりたいと思った事をよく覚えている。力強くて、優しくて、悲しみや嫉妬の心なんて振り払って進んで行けるような、そんな人間に、自分もなりたいと強く思った。

 きっとあの頃もデュオは、アルトが思っていたよりずっと複雑な感情を胸に秘めていたに違いない。けれど思い出の中の彼は幼いアルトの瞳に焼き付いた姿のまま、英雄然として、色鮮やかに輝いて見えた。

――昔がどうだったって、デュオが俺の友達でいてくれたこととか、ナファンが世話を焼いていてくれたこととか、……そういうのが嘘だったって事には、ならないと思うから。

「デュオの側は、とても居心地がよかったから」

 呟くと、その言葉が細い風にでもなったかのように、闘技場の石の間に生えた葉を揺らしていく。

 空に融けていく。

 紡ぐ言葉も、頬を濡らした水滴も。

「だから少し、怖かった。デュオの話を聞いて、本当にデュオの息子だったなら……王子じゃなかったなら、マラキアのことも、継承権も、全て捨てて逃げられるんじゃないかって、そんな事を一瞬でも本気で考えてしまったから。……餓鬼だな、俺は。結局デュオにも、クロトゥラにも、八つ当たりしただけだったんだ。――最低だ」

 吐き捨てるようにアルトが言うと、少年はまた、朗らかに笑う。

「なら、二人に謝らなきゃ」

 その言葉は柔らかで、しかし瞳にはぎらりと光る強さがあった。

 立ち塞がる者に喰らいつく、いきり立った獣の目だ。それが一瞬、金色に輝いたような気がして、アルトは問うように眉をしかめる。しかしその後どれほど目の前の少年を眺めてみても、二度と、その奇妙な色は見て取ることが出来なかった。

「それともまだ、逃げたいと思ってる?」

 少年がふと、そう問うた。彼はすらりと右手を挙げて、頭上の空を指さしてみせる。つられるように視線を上げれば、闘技場の向こうの空が、いつの間にやら真っ黒な分厚い雨雲に覆われているのが見て取れた。

 心なしか、空気も重くアルトにまとわりついている。そしてその合間からは、何やら不吉な音が響いていた。

「それも一つの選択肢だよ」

 少年の言葉に、アルトの頬が思わず緩む。笑ったのだと自覚するまでに、ほんの少し、時間が要った。

 穏やかに、微笑む類の笑みではなかった。

 「まさか」と応える背後には、低く大地を踏み鳴らす、複数の足音が聞こえている。

 がちゃがちゃと鳴る音は、ベルトに鞘が擦れる音だろうか。その音の正体に思い当たって、アルトはパン、と音をたて、自らの頬を両手で挟むように叩いた。

 そうして、少年に向かって手を延べる。

「行こう」

 鏡に映ったように差し出された少年の指が、柔らかく、アルトの手に触れる。

 

 完全に目覚めたルシェルの小径を、息を切らせて疾く走る。しかしもう少しで宿へ着くというところで、アルトは一度、置いてあった木箱の影へと身を潜めた。大通りへと足を進める、町人達に行き会ったからだ。

「おい、一体なんだってんだ? 朝から妙に騒がしいと思ったら」

「知らねえよ……。誰か、聞いてくるやつぁいねえのか」

「馬鹿言うな、おいそれと近づけるもんか。見ろよあの制服! サンバール殿下の私兵隊だ」

 ああでもない、こうでもないと身のない会話を交わしながら、一団が目の前を通り過ぎていく。アルトはフードをかぶり直し、人々が道を曲がっていくのを見計らって、また小径を駆けはじめた。

 あんなに町を歩き回ったのに、何故だか、宿へはどう向かうべきだか手にとるようにわかっていた。手前の道を右に曲がり、その先をずっと進んで、それから。

「アルト!」

 宿を目の前に突然呼び止められて、慌てて辺りに視線を配る。少女特有の高い声に、聞き覚えがあった。

「――エイミ?」

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