059 : Fragment -1-

「慣れない喋り方は、やっぱり緊張するな……。舌、噛むかと思ったぜ」

 ラフラウトが去るのを待って、クロトゥラがまずそう言った。端から見れば緊張のかけらも感じない態度で体を起こし、肩を回しているようにしか見えないのだが、当人は気付いていないのだろうか。

 しかしそうは思っても、今のアルトはとてもではないが、他人に対してとやかく言えるような気分ではなかった。

(初めて、兄上とあんなふうに話したな)

 それだけではない。ラフラウトはしっかりとアルトの目を見て、確かにこう言ったのだ。

――わかるさ。お前の声は、父上にそっくりだからな。

 噛み締めて、アルトは短く息をつく。

――お前は俺の息子だ。少なくとも俺は、心の中でそう信じてた。

――俺の名は、アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア。そうだろう、デュオ? じゃなきゃ駄目なんだ。俺がアドラティオ四世の子じゃなきゃ、王位継承者じゃなきゃ、この旅も、この旅に命を預けてくれた人達の思いも、全て無駄になるんだから。

 畢竟、真実は一つしかないのである。そんな想いが不意にすとんと、アルトの心に落ちてきた。

(どちらかを信じるしかないのなら、答えは決まってるじゃないか)

 信じるべき『真実』は既に絞り込まれている。アルト自身も、それを選んだはずだった。

 それでいいのだと、自分自身に言い聞かせる。しかし、その時。

「……迷ってるのか?」

 いつまでも黙ったままでいるアルトに、クロトゥラがふと、そう言った。アルトは弾かれたように顔をあげると、慌てて短く問い返す。しかしその形相が、よほど必死だったのだろうか。クロトゥラは意表を突かれた様子で瞬きして、言葉を選びながらゆっくりと、こんな事を言った。

「いや、俺はラフラウト殿下のこと、信じるべきか悩んでるのかと……あの人と話す間、ちっともこっちを見なかったから……」

 言われてアルトは小さく溜息をつき、「そうかな」とだけ短く答える。

 一瞬、思考を読まれたかと思った。

 デュオの言葉とラフラウトの言葉が、入り乱れて交互に脳裏をこだましている。だからてっきり、『そのこと』を問われたのだと思ったのだ。

(だけどクロトゥラは、デュオとの話を聞いていたわけじゃないんだから)

 そんなことなど、始めから尋ねるはずはなかったのに。そうして考えていると、一方で、クロトゥラが訝しげに眉間へ皺を寄せたのがわかった。彼はふとアルトの顔を覗き込むと、こんな事を問うてくる。

「お前、さっきからおかしいぞ。何かあったのか?」

「……何も」

 短く言うと、アルトは心中の靄を吹き払うように溜息をついた。伏し目がちに俯いて、そこにある何かを押し殺すように、強く拳を握りしめる。

「迷ってなんかないよ、クロトゥラ。兄上のことは、俺なりに考えて出した結論だ。あの人はご自分の素性や胸中を明かした上で、俺に信じて欲しいと言ってくださった。信じられるさ。――兄弟なんだから」

 言ってアルトは、クロトゥラに背を向けるように身を翻して歩き始める。やけに喉が渇いていた。水でも、果物でも、何でもいい。何かで喉を潤したい。

 しかしそうして逃げるように立ち去ろうとしたアルトの背を、クロトゥラの言葉が追ってきた。

「『信じられる』じゃない。……おまえのそれは、『信じたい』だろ?」

 振り返る。ぼさぼさになった髪が、鬱陶しく視界を遮った。

 クロトゥラの目が射抜くように、真っ直ぐアルトを見据えている。しかしどうやら、クロトゥラの側もそれと同じような印象を受けていたらしい。「睨むなよ」とまず言って、彼は続けてこう口にした。

「別に文句をつけてるわけじゃない。お前の『信頼』なしに、俺はここにはいないんだから」

「――だったら」

 言いかけて、アルトは反射的に口を閉ざす。クロトゥラの視線が不意に、和らいだからだ。驚いた。目の前に佇むクロトゥラは、今にも泣き出しそうな顔をして、アルトの事を見ていたのだ。

「お前は始めからそうだったよ。マラキアでデュオ殿達の素性を知ったときもそう。俺やシロフォノが目をつけられていたときだって、疑う素振りも見せなかった。……けど、それなら信じたことの責任をとれよ」

「責任?」

 恐る恐る問い返す。するとクロトゥラは頷いて、迷う素振りもなく、言った。

「昔がどうだったからって、デュオ殿がお前の友達でいたこととか、そういうのが嘘だったって事には、ならないんだろ?」

「! ……それ」

 聞いてアルトは瞠目した。聞き覚えがある。確かアルト自身が、マラキアで口にした言葉だ。

――それで、アルト。僕らはデュオ殿のことを全面的に信じてもいいのかな?

 デュオがバラムの城主だったと知った時のことだ。シロフォノからの問いへ答えるのに、アルトには、欠片ほどの迷いもなかった。

――昔がどうだったって、デュオが俺の友達でいてくれたこととか、ナファンが世話を焼いていてくれたこととか、……そういうのが嘘だったって事には、ならないと思うから。

「俺が出て行った後、デュオ殿とどんな話をしたのかは知らない。だけどどうやら、お前の信頼ってのは案外簡単に揺らぐみたいだな。……それともそもそも、おまえの『信じる』っていう言葉は、裏切られないための予防線か何かのつもりなのか」

 刺すようなクロトゥラの言葉に、アルトはさっと気色ばむ。頬に熱が宿っていた。何も知らないくせに、と、余程叫びたい心境だった。

 微動だにしない友に駆け寄って、その胸倉につかみかかる。てっきり避けられると思っていたのに、クロトゥラは、されるがままでそこにいた。そうして自らに食らいついてきたアルトを見下ろし、吐き捨てるようにこんな事を言う。

「その反応は図星だな。さっきからやけに上の空だと思ったら、なんだ、そんな事か」

「……っ!」

 握りしめたままでいた拳が、瞬時に強く風を切る。ぱしんと乾いた音がした。

「俺の気なんか、知らないくせに……」

 喉から声を、絞り出す。クロトゥラは片手で軽々とアルトの拳を受け止めて、つまらなそうに目を細めた。

「知らないさ。お前だって、俺の気なんて知らないだろ?」

 言って、胸倉を掴んだままでいたアルトの腕を払い落とす。振り落とされた腕がじんと痺れるのを感じながら、アルトは奥歯を噛みしめた。

 俯いたまま、顔を上げることが出来なかった。目を合わせるのが怖かった。きっとこの友は今、自分に軽蔑と落胆の眼差しを向けているのだろうと、そう思えてならなかった。

「……。多分そろそろ、医者が宿に着いた頃だと思う。闇医者だけど、その辺のごろつきに聞いた限りじゃ、腕は確かだって話だった」

 淡々とした事務的な口調でそう言って、クロトゥラがアルトに背を向けた。「どこへ」と問えば、「風車小屋だろ」と素っ気のない返答がある。そういえば風車小屋で馬を借りるとか、ラフラウトがそんな事を言っていた。

 呆然と佇むアルトを置いて、クロトゥラがその場を去っていく。去り際に一度振り返り、一言だけ、言い残した。

「……忘れるなよ。お前自身が言ったんだぜ」

 

 明け方の町を、一人、歩く。

 何も考えられなかった。

 何も考えたくはなかった。

 活気づく市場の中を歩いても、人の声も、精霊の声も、一向に聞こえてはこない。あてもなく足は動き続けたが、どこに向かっているものだか、アルト自身にもわからなかった。

 数人の子供達がきゃあきゃあと声を上げながら、アルトの前を走っていく。ふと首を回せば、にこにこと微笑みながら彼らを見送る、優しげな母の姿があった。アルトははっとなって顔を伏せると、また再び歩き始める。

――おまえの『信じる』っていう言葉は、裏切られないための予防線か何かのつもりなのか。

 アルトの腕を振り払った手には、細かな傷がいくつもあった。

(失望、させたかな)

 心の中で呟くと、小さな棘が、喉を通っていくようだ。そんなことを考えながら、歩く速度を上げていく。大通りを過ぎ、小径に入り、見知らぬ場所を抜けていく。

 デュオはあれからどうしただろう。手当は無事に受けただろうか。アルトのことを、待ってくれているのだろうか。

 戻らなくては。そう思う。けれど足は無意識のうちに、宿への道を避けていた。

――昔がどうだったって、デュオが俺の友達でいてくれたこととか、ナファンが世話を焼いていてくれたこととか、……そういうのが嘘だったって事には、ならないと思うから。

(あの時は、あんなに簡単に言えたのに)

 建物の隙間を縫うように巡らされた小径は、陽が入らず薄暗い。その事に気付いたとき、ふと、アルトの腕に鳥肌が立った。何故だか不意に、その薄闇が何か恐ろしいもののように思えたのだ。

 逃げるように踵を返し、今度はその場を駆け抜ける。どこでもいいから、光の下にいたかった。このままではいけないと思えた。

 駆ける。しばらく行くと、誰かの声が聞こえた気がした。

 道の向こうに、光の差し込む場所がある。駆けて、駆けて、やっとそこまで辿り着くと、アルトは短く息を呑む。

 そこは見慣れた場所だった。石造りの観客席に、手入れの行き届いた広い舞台。正面には本部と審判席が、奥には王族のためにしつらえられた特別観賞席がある。その全てに、覚えがあった。

(マラキアの、闘技場――)

 その観客席に、アルトは今、立っている。

 あり得ないとはわかっていた。マラキアからもう何日も旅をして、今いるここはルシェルの筈だ。だが聖地ウラガーノの窓から見知らぬ町を見下ろしたあの時と同じように、自分が今いるその場所に、何故だか少しの違和感もない。

 だから不意に聞こえてきた声も、アルトには、当たり前に受け止めることが出来ていた。

「――だったらよかったのに」

 小さく呟く幼い声。辺りを見回し声の主を捜してみると、いつの間にやら、目の前の席に幼い少年が腰掛けている。少年はアルトに背を向けたまま、またぽつりと、小さな声でこう言った。

「ずっと、そう思っていたはずだったのに」

 アルトは答えず、ただ少年の背中を眺めていた。幼い肩はまだあどけなく、しかし迷いなくぴんと背筋を伸ばす姿は、いじらしくもあり頼もしい。少年はそれきり、しばらく何も語ろうとはしなかった。肌に馴染んだ風だけが、二人の頬を撫でていく。

 アルトにはその少年が、誰であるのかわかっていた。

「今はもう、そんなふうには思ってないよ」

 沈黙に耐えきれなくなって、アルトがぽつりと呟いた。すると少年はくすくす笑って、はっきりとした声でこう返す。

「俺に、嘘をつけると思う?」

「嘘なんかじゃ、ないさ」

「そんなことを言ったって、無駄だって事はわかっているくせに」

 少年が立ち上がり、ひらりとアルトを振り返る。アルトと同じ金色の髪が、ふわりとゆれて風に踊った。アルトと同じ深碧の眼は、可笑しそうに笑んでいる。

「自分に嘘はつけないよ」

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