055 : Contrast -1-

「バラムから、スクートゥムへ……」

 アルトがそう呟くと、デュオがまた自嘲の色を深くして、「あれもやっぱり春だった。――人目を気にしてカランド山脈を越え、この町にも立ち寄ったもんだ」と付け加える。

 心の奥が、ずきりと痛んだ。アルト自身が今こうして苦労を重ねながら挑んでいる旅路を、デュオはもう十六年も前に、同じように旅したという。その時もやはり冤罪をおわされていて、けっして楽な道程ではなかっただろう。

 それでもデュオは、共に来てくれた。

(俺ならそんな道程を、二度も旅しようとは思えない)

 ちらりと窓へ視線を向けると、思いは余計に強まった。カーテンなど無い、薄い硝子がはめ込まれているだけの質素な窓。夜更けの空の下に見出せるものは闇ばかりだが、その先に黒々と影を落とす、カランド山脈があるはずだ。

 別れた仲間達は無事だろうか。スクートゥムへ行けば、全てがうまくいけば、また会えると信じて良いのだろうか。

 指先が震えていることに気付いて、アルトは拳を握りしめた。そんなことをしたところで、アルトの思いなどデュオには既に筒抜けだっただろう。それでもこの弱気な自分を、少しでも隠してみせたかった。

 せめてそうでもしなくては、彼の言葉を聞く資格などないように思われたのだ。

(だって、デュオをそんな目に遭わせたのは)

 一方で、デュオもアルトから視線を逸らすように目を伏せると、不自然にさえ思えるほどの冷静な声で続けた。

「王都軍に追われちゃいたが、ジェメンド程の妨害には遭わなかった。それでも、到着まで優に八日はかかったがな。――そうしてスクートゥムまで辿り着いた俺が見たものは、町中に配られていた号外記事だった」

「記事?」

 恐る恐るアルトが尋ねると、「そうさ」と短く色の無い言葉が返ってくる。

「ジルウェット……アドラティオ四世と、モノディアの婚儀を知らせる記事だ」

 デュオはアルトの方をちらとも見ずに、間を置かないまま言葉を続けた。その様子はあえて、アルトに言葉を挟ませまいとしているようにも見える。

「モノディアの素性には一切触れない、ただ王室へ媚びを売るばかりのくだらない記事だったが、婚儀の話は事実らしかった。わけがわからなかったよ。戦線復帰するためにモノディアと別れてから、たった一月半だ。その間に、一体何があったって言うんだ? ……だが事の次第を確かめようにも、モノディアについていたはずの側仕えに連絡はつかない、城には近寄ることもできないで、八方塞がりだ」

 デュオの歯切れが、だんだんと悪くなる。それで、アルトも気がついた。

 デュオの大きな手も、いつの間にやら小刻みに震えている。だがその震えは、先程のアルトのように未知の過去への恐怖からきたものではないだろう。

 怒りだ。無表情なデュオの怒りが、その震えや瞳に宿した炎を通じて溢れ出しているのだ。

「首都で暮らしていた頃に知り合った、裏の人間にも力を借りた。だがそうしている間にも、季節は夏になっていく……。モノディアのことは信じていた。ジルウェットの后だなんて、何か余程の事情があったんだろうと、そして俺が迎えに行くのを待っているだろうと、信じたかった。それなのにその『事情』がなんなのか、一向に掴める気配はない。それで俺は直接話を聞くために、城へ忍び込むことに決めたんだ」

 自らの震えに気付いたのだろう。デュオは左手で利き手を握りしめ、目玉だけを動かして、静かに視線をあげてみせた。指先にはいっそう力が込められたようだったが、震えは一向におさまる気配がない。

「その間に、城主を失ったバラム城が軍事的に解体されたこと、王が南のリビルに長城を建て始め、国境拡大のための戦争にも終止符を打とうとしていることは聞いていた。……そうしたら、もう俺に帰る場所なんてないんだと思えてな。だったら最後に一度くらい、無謀なことをやってやろうと思ったのさ。王城の内部については、よく心得ていたからな。誰にも見つからずにモノディアやジルウェットを探し当てるなんてこと、不可能だってわかってたんだ」

 すきま風が吹いて、再び炎がちらちら揺れる。きっと風が気を利かせてくれたのだろうと、そんなふうに思えてならない。アルトの細い前髪は、鬱々とした表情を隠すようにふわりと揺れた。

 その一方で、デュオの言葉は容赦なく続く。

「俺は今まで、既に二度死ぬつもりでいた。二度目はマラキアで、王都軍に囲まれた時だ。あの時はおまえに生かされたな」

 城壁上の物見台から見た、眼下を取り巻く軍隊や、古鉄色の国旗に囲まれたあの風景が、不意に脳裏を過ぎっていった。威厳と諦めに満ちたデュオの背中を、アルトは生涯、忘れることはないだろう。

(デュオはやっぱり、あの時、死ぬつもりで――)

「一度目は、モノディアだ」

 想像していたとおりの、しかし先程よりは幾分緊張を解いたその言葉に、アルトは弾かれたようにデュオを向く。相手も変わらず手を手で握りしめ、壁を睨み付けてはいたが、それでもちらりとアルトに目配せした。

「まさに王城へ潜り込もうとしていた日の、晩のことだ。あの時のことは今でも忘れない。急に奇妙な眠気が襲ってきて……裏通りにある古宿の一室で、俺は不思議な夢を見た。断片のように短い夢だったけどな」

「夢」

 思い当たるところがあって、アルトは短く問い返す。するとデュオはぎこちなく微笑んで、その問へ頷いて返した。

「やけにリアルな夢だった。ほれ、夢ってのは雲の上を歩くような、浮ついた感じがするもんだろう。それが一切なかったんだ。だが俺には、それが夢だとすぐにわかった」

 アルトは音も無く生唾を飲み込んで、視線でその先を促す。

 デュオの答は簡潔だった。

「龍が、いたのさ」

 

 そこは一面の白であった。部屋のようなのに壁はなく、昼のようなのに太陽はない。そんな中を、デュオは一人歩いていた。見たこともない場所ではあったが、心許なさはこれっぽっちも感じない。

 

「向かう先が知れていたからだ。静謐な白の中に、小さな金色が見えていた」

 それは懐かしい色だったと、デュオは言った。そこが一体どこであるのかとか、自分がどうしてそんな所にいるのかだとかは、ちっとも考えなかったという。

 

 無遠慮な靴音だけが、こつこつと場に響いていた。

 目の前の金色はそれを見て、ぽつりぽつりと呟くようにこんなことを言う。

「城へ来てはいけない。あなたの命を縮めるばかりよ……。今は、お願い。どうか先にバラムへ帰って」

 ゆるゆると、進む足を止める。そうしてしばらく黙っていたが、デュオは不意に顔を上げると、目の前の人物に――透けるような金の髪をしたその人に、静かにこう問いかけた。

「俺が城へ乗り込もうとしていることを、なぜ知ってる」

 尋ねた声は掠れており、いかにも疲れきっていた。彼女を取り戻すためだけに動いたこの数ヶ月に、どうやら全ての勢いを殺がれてしまったらしい。そんな事を思うと、否応なしに苦笑が滲む。

「知ったんじゃないわ、わかったの。あなたはそういう人だから」

 その言葉には抑揚がない。

「だけど、だめよ。あなたは帰らなきゃ」

 ずっと聞きたいと願っていた声だった。取り戻そうと追い求めた、たった一人の人だった。

 だからこそ、その突き放すような言葉は、疲弊した胸に突き刺さる。

 

「腹立たしかった。その言葉に全てを否定されたような気さえした。馬鹿だよな。あいつがその時どれほどの覚悟でそこに立っていたかなんて、考えようともしなかった」

 そう話すデュオの言葉も、感情を伴わない平坦な音に聞き取れる。

 しかしアルトは知っていた。そしてデュオも、とうに気付いていたのだろう。それが自らに激昂する者の、行き場のない思いの表し方だということを。

「……どうしてあの時、俺はあいつを追い詰めるようなことしか言えなかったんだろう」

 静かな呟きは、かえって心にこだまする。

 

「一体どこへ帰れと言う」

 尋ねると、知らずのうちに語気が強くなった。それでも相手は、彼女は怯まない。

「私達が出会った場所へ」

「バラム城は既に、王の命令で解体されることになっている。知らないのか」

 それを聞いた瞬間だけ、彼女は些か迷いを見せた。目を伏せて拳を握りしめ、しかしそれでも、すぐに言葉を紡ぎ出す。

「それは、私も聞いたわ……。そしてそこに残った兵士達が、あなたの帰りを待ち続けていることも知ってる。彼らは、あなたの命令にしか従わないから――。だからあなたには、バラムへ帰って彼らを説得して欲しいのよ。このままバラムにいては危険なの。もっと南へ行けば、フーリス川の下流へまで行けば、王の手は届かない。それに」

「それに?」

 デュオが低い声で唸るように言うと、相手はびくりと肩を震わせ、言葉を切った。

 さっと顔が青ざめる。怯えているのだ。わかっていても、次から次に溢れ出す言葉を留めようという気は、起こらない。

「尻尾を巻いて、お前を置いて、この俺に逃げ帰れっていうのか? それを伝えるために、こんなふうに俺に会いに来たとでも?」

 沸々と湧き上がる怒りを堪えることなど、出来なかった。

「――違うだろう! お前は他にも、俺に話さなきゃならないことがいくらもあるんじゃないのか。何が先に帰れ、だ。俺には、ジルウェットからお前を取り返すことなど不可能だって言いたいのか」

 荒々しく歩み寄ると、彼女は覚束ない足取りで後退る。そこへ詰め寄るようにして、デュオは一言、怒りの限りを込めて言った。

「お前を攫って帰る気でいた。お前も、それを望んでいると信じてた! ――后の位はそんなにも居心地が良かったか、モノディア!」

 声を荒げて手を伸ばす。しかし相手の腕を掴もうとした、まさにその瞬間の事だ。頭上から耳をつんざくような唸り声がして、デュオは反射的に顔を上げる。

 何かが光って、視界が眩んだ。同時にびゅんっと音をたて、目の前に光るしなやかなものが迫ってくる。

「――伏せろ!」

 咄嗟に叫んで腕を伸ばし、モノディアのことは突き飛ばした。しかし続いて自分自身も避けようと身をよじるが、間に合わない。

「デュオ!」

 短く叫ぶ、モノディアの声。しなる何かに叩き伏せられ、デュオは激しく咳き込んだ。咄嗟に受け身はとったものの、あまりに突然の出来事に、どうにも状況が飲み込めない。しかし、そう悠長なことも言ってはいられないようだった。

 頭上に羽ばたく音を聞き、デュオは短く息を呑む。

(金の、鱗――)

 体を起こしながら、目の前のそれを凝視する。

 彼の頭上を飛び回る巨大な影の正体は、身体中を堅い鱗で覆われた獣であった。見たことのある、馴染みの獣だ。だがだからこそ狐に抓まれたかのようで、信じられない思いに瞬きする。

 今までにも城の装飾や、都の絵画では幾度となく見てきた姿だ。しかしそれが実在して、なおかつ自分の目の前で自由に動き回っているとなると、容易に受け入れられはしない。

「龍……!」

 叫んだのか呟いたのか、デュオ自身にはわからなかった。

 ただ白いだけの世界で、獣は舞うように空を飛び回る。デュオはしばらく呆然と、その姿を眺めていた。しかし獣が再びデュオめがけて降下してきたのを見て、剣を帯びていたはずの腰へ手を伸ばす。

(無い)

 嫌な汗が頬をなぞる。しかしその瞬間、すぐ背後でモノディアの声がした。

「いけない! この人は敵じゃないわ。だめよ、だめ、お前は誰も傷つけてはだめ――!」

 呼びかける声にはっとする。そうして彼女が目の前に立ちふさがったのを見て、デュオは思わず、叫んだ。

「馬鹿、やめろ!」

 手を伸ばす。しかしその手が、彼女に触れることはない。

 視界が割れた。そんな気がした。

 景色が歪んで、龍が、モノディアが、遠ざかっていく。

(夢が、覚める)

 そう思うと、やけに合点がいった。しかしそれに委ねてはいられない。これがただの夢でないということは、既にデュオの中で確信へと変わっていたからだ。

(やめろ、もう少しだけ――今は)

 あの獣から、彼女を守らなくては。

 しかしデュオはその直後、どうやら要らぬ心配をしたようだと悟ることになる。羽ばたく力を落とした龍は、寄り添うようにモノディアの側へ降り立った。そうして顔をすり寄せる仕草に、もはや敵意は感じられない。

 モノディアが、静かに顔をデュオに向けた。

「お願いよ、デュオ。あなたにしか頼めないことなの」

 その表情は先程よりもいくらか熱を持ち、恐れの色など感じさせない。代わりにすらりと、頬に涙の線が通った。

「私も……私もきっと、必ず、帰るから」

 

「――遠のいていくモノディアが、最後にぽつりとそう言った」

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