054 : Exhaustion

 酷い顔だ、とまず思った。

 備え付けられた鏡はひび割れているし、手にしたランタン以外に光源のない水場は、薄布で視界を覆ったように仄暗い。それでも十分に見て取れるその様に、アルトは静かに苦笑した。

 顔を拭った薄っぺらいタオルを脇に置き、そっと自らの頬に触れてみる。しばらくは水たまりに映ったものを見る程度だったから、こんなに酷いとは思っていなかった。目の下にはうっすらと隈ができ、頬の一部には青痣が居座っている。額の切り傷を消毒しようと前髪をかき分けると、指先は腫れたニキビに触れた。

 クラヴィーア王国ゼルバス地方、首都スクートゥムに程近いこの町ルシェルへ辿り着いたのは、町もすっかり寝静まった真夜中のことだ。

 人気のない夜の大通り。静かに月夜に照らされる、屋根の低い古びた家々。明かりの零れる建物からは、時折控えめな笑い声が聞こえてくるものの、外を歩く影は無い。港町のシャリーアとは違いこの町の夜は静けさに包まれており、既に大半の店がその戸口を閉めていた。

 静まりかえったその道に、かたかたと響く車輪の音。それが段々と速度を下げ、いずれゆっくり動きを止めると、アルトは幌からひょいと顔を出した。そうして注意深く辺りを見回し、人の姿はないようだと確認すると、音を立てずに馬車から降りる。

「ねえ、また、あえる?」

 ぐずりながら尋ねたエイミに、答えることが出来なかった。次いで視線を向けられたクロトゥラは、困ったように「ごめんな」とだけ言ってエイミの髪をなでつける。それからデュオに肩を貸すと、そっとアルトに目配せした。

 別れに時間をとるわけにはいかなかった。この親切な親子がこれ以上、自分たちのせいで厄介ごとに巻き込まれたのでは、後悔するにしきれない。

 だからただただ感謝の辞を述べて、レイジス達親子とはこの町に着いてすぐに別れた。

 ランタンを掲げ、共用の水場から少し離れた部屋へと向かう。ぼろ宿だが、十件近い宿を渡り歩いて従業員をたたき起こし、ようやく得ることが出来た休息の場だ。主人は老獪そうな顔をした男だったが、いかにも訳ありといったアルト達を見て、恐らくは口止め料を含んでいるのだろう高額な宿泊料を請求するにとどまった。

「ああいう輩は、かえって信用するに足る」

 値踏みするような視線に不安を覚えたアルトだったが、今はそう断言したクロトゥラの言葉こそを信じるより他にない。そんなことを考えながら扉に手をやると、ちょうど部屋を出ようとしていたクロトゥラ本人に鉢合わせた。

「顔、洗ってきたか」

 そう問う彼の表情も、滲み出る疲労に蝕まれている。彼自身もそれなりの怪我を負っているのに、馬車を降りてからここまで、デュオを背負うように歩いてきたのだ。アルトは頭の上がらない思いを感じながら、頷き、答えた。

「ああ。傷が染みるけど、少しさっぱりした」

「そうか。じゃあ次、俺も行ってくる」

 言いながらさりげなく、クロトゥラが後ろ手に部屋の戸を閉める。それから密やかな声で、一言、「あの人は凄い」と呟くように言った。

 薄暗い廊下には月明かりがさしていたが、手元のランタンの灯りのせいで、逆に周囲は闇と見えた。ランタンの火が揺らぐのと共に、それに灯されたクロトゥラの顔も陰りを見せる。アルトは灯りをもった手を降ろし、静かな声でこう問うた。

「……デュオの傷、そんなに酷いのか」

 「酷い」と短く答える声。クロトゥラの応えは澱みない。

「脇腹の傷だけじゃない。腕に二か所、足に一カ所。余程の精神力がなければ、馬車に揺られてここまで来ることなんか出来なかったと思う。この町に着いてからだって、俺だったらきっと宿を見つける前に倒れてた」

「手当は」

「したけど、所詮は素人の応急処置だ。たかが知れてる」

 吐き捨てるようにそう言って、クロトゥラが廊下を歩いていく。しかしふと振り返ると、はっきりとした口調で、目は合わせぬままこう続けた。

「明日にはここを発たないと、即位式までもう日がない。……ここから先は、俺たち二人で進むことになる。だから聞きたいことがあるなら、今晩の内に」

 アルトは答えなかった。

「これだけの町だ。探せば闇医者の一人や二人、必ずどこかにいると思う。俺はそっちをあたってみるから、お前は」

 アルトは答えなかった。そうして、手に持ったタオルを強く握りしめる。クロトゥラはそれ以上何も言わずに、アルトに背を向け去っていった。

 軋む廊下を歩く音が、段々に遠ざかっていく。ぼんやりとそれを聞いていると、何か暖かいものがアルトの頬を撫でていくのを感じた。

(――精霊)

 カランド山脈での戦いのうちに出会った、否、その時ようやく存在を自覚した、この世界に生きる何か。目には見えないのにそこにいる。声はないのに言葉がわかる。アルトは彼らを、不思議なほど当たり前に受け入れた。

 何故? と自らに問うてみる。

 何が? と自らそう返した。それがあまりに滑稽で、アルトは思わずふと笑う。

(問わねばならない事柄が、俺にはあまりに多すぎる)

「おい、そこにいるんだろ? 廊下なんかで一体何をやってんだ」

 不意に部屋から聞こえた声に、「うん」と短く答えてみせる。扉に手をやりノブを回すと、目の前に蝋燭の灯った埃っぽい室内が広がった。

 狭い室内はお世辞にも清潔とは言い難く、歩けば靴底がじゃりじゃりと音をたてる。木で作られた寝台には薄っぺらい象牙色のシーツが敷かれていたが、まるで素っ気のないテーブルに布を敷いただけのようなそれは、アルトが今までに考えていた『ベッド』の姿からは掛け離れたものだ。

 そこにデュオが、背中を丸めて腰掛けている。アルトは力任せにランタンを置くと、「どうして起きてる」と強い口調で言った。

「怪我、酷いんだろう。横になってろよ」

「たいした事ないさ」

「たいした事、あるだろう!」

 思わず大声を出してしまってから、慌てて口をつぐむ。目つきの悪い宿の主人が、すぐ階下の部屋で眉をひそめたのが目に見えるようだ。

 デュオが短く息を吐いて、困ったように頬を掻く。それからアルトと目を合わせ、いつものように微笑んだ。

「……悪かった。けど、勘弁してくれ。寝転んだままじゃ話しにくい」

「でも、無理に」

「話さなきゃならない。そうだろ?」

 囁くような小さな声だった。それなのに何故か、びくりと肩を震わせてしまう迫力がある。アルトが立ち竦んだまま何も答えずにいると、デュオは苦笑するように小さく溜息をつき、身振りでベッド横の椅子へ腰掛けるよう促した。

「全て話さなきゃならない。俺は今まで逃げてばかりいたが、もうそういうわけにはいかんだろう。おまえはどうだ? おまえは……初めてマラキアを発ったあの日と、今も同じ気でいるのか?」

 マラキアを発ったあの日。デュオがいつのことを指してそう言っているのか、アルトはすぐに思い当たった。アドラティオ四世がマラキアを訪れてすぐの事、アルトが聖地ウラガーノへ出発しようとした日のことだ。

――お考えください! あの男が、あなたさま、そしてあの方に何をしたのか。

――疑って何になる、何ができる! もう俺達は……手をひかなけりゃならないところまで、来ちまったんだ!

 旅立ちの日にデュオとナファンの諍いを聞き、一介の馬番には持てようはずもない、金のペンダントを受け取った。

 それでもアルトは一言も、事実を問おうとはしなかった。知りたくなかったのだ。デュオにもナファンにも、そしてマラキアの全てにも、当時のアルトが信じていたままの姿でいてほしかった。

 故郷を離れる自らを、せめてそうすることで甘やかしたのだ。

 アルトはぐっと奥歯を噛みしめて、冷水に浸していたタオルを握りしめた。絞ったそれをデュオへ投げつけて、自分はどっかと椅子へ座る。そうして短く目を瞑った。

「あの時の俺とは、もう違う」

「大人になった、って言いてえのか」

「わからない。でも同じじゃいられない。その事は……痛いほど、わかってる」

――知らないままで良いんだよ。

 脳裏にこびりついたあの言葉が、今は心底忌々しい。

――知らないままで良いんだよ。そうすれば、君は気ままな風でいられる。

 ガタのきている窓から、すきま風が通り過ぎる。カランド山脈からの風が降りてくるこの町は、春先とは言えまだ肌寒い。

「何も言わねぇ方が、良いかも知れないと思ったこともあった。だがそのせいで、カランドでは余計に辛い思いをさせたな」

 沈んだ口調で告げる声。アルトは黙り込んで、しかしじっとデュオの目を見据え、ゆるゆると小さくかぶりを振った。

 蝋燭の炎が、揺らぐ。

「俺がモノディアと出会ったのは、バラムへ行って一年経つか経たないかって頃のことだ」

 向かい合った二つの影も、壁に映って揺れていた。その誠実なかげぼうし達は、大なれ小なれ形を変えながら、近づいたり遠のいたりを繰り返す。

「俺が預かっていた南部戦線は、当時バラムから南東へクラヴィーアの領土を広げている最中だった。勝ち戦が続いて、兵の士気も上がりっぱなし。今になって考えると、あの頃は随分良い波に乗っていたもんだ。

 ……だがその途中で、同盟国であるレシスタルビアにお家騒動が起こってな。支援が打ち止めされて、戦況は膠着しちまった。なんとしても稲刈りの時期までには片をつけたかった俺たちは、引き返さずにフーリスって川の辺りで野営を張ることにした。――その野営地に、女一人で乗り込んできたのがモノディアだ」

 聞いて、アルトは瞬きする。なぜそんな物々しい話の中に母が出てくるのだろうかと、怪訝に思ったからだ。対するデュオはその疑問を想定していたかのような様子で頷くと、「俺も始めは驚いた」と素直に言った。

「あいつはそこより西にあった、ルーカスって田舎町の娘だった。戦いの経験なんか勿論無い、武器すら持たない民間人。なのにあいつは臆する様子もなく、総大将だった俺にいちゃもんをつけてきやがった。『あんた達のせいで行商人が怖がって、町までちっとも物がこない。クラヴィーアを豊かにするはずの軍人が、私の町は殺す気か』ってな」

 言いながら何か思い出したのか、ふと、デュオが小さく笑みを見せた。それが今でも彼の中に、故モノディア妃との思い出が根付いていることを物語る。

 だからアルトはそれとなく、彼の顔から目を背けた。

「勇ましい人だったんだな」

「ああ。勇ましい女だった。あいつにどれだけ背を押されたか、数えられやしねえ」

「それで好きになったのか」

「そうだ。この身を賭けて守ろうと思った。――結局、守られたのは俺の方だったが」

 自嘲気味に掠れる声は、低く憂愁に包まれている。

 デュオが前屈みに体を傾げると、ぎしぎしと堅い寝台が鳴った。やはり傷が痛むのだろう。そうして身じろぎする頬にはまた、大粒の汗がにじみ出している。アルトはもう一度横になるよう促そうとして、しかし言葉を飲み込んだ。そんなことを言ったとして、彼が素直に応じるとは思えない。

 ならばせめてと盆に張った水でタオルを絞り直し、再びそれを押しつける。その時一瞬、目があった。

 何故だか強く心が疼く。

 デュオの目に、静かな炎が宿っていた。それは優しさや悪戯心の混ざった、いつもの瞳とはあまりに異なっている。

「俺たちが夫婦になって、二月も経った頃のことだ」

 そうして言葉が続けられて、アルトは自分でも気付かぬうちに、小さく息を呑んでいた。

 鳥肌がたつ。

「第二王子が生まれて一年経った祝いの席に、俺達二人もスクートゥムへと招かれた。だがその頃、ちょうど東の凰楼が藍天梁と手を組んで、戦線に押し寄せてきたんだ。だからモノディアと何人かの側仕えを、先にスクートゥムへ向かわせた。それが間違いだった」

 デュオの語気が段々と、強く、速くなっていく。同時にアルトは、彼の瞳に映るものの正体に気付いてしまった。

 ただ、ただ、瞳の奥深くで燃えさかる炎。――それは。

「凰楼の兵を駆逐して帰った俺に突きつけられたのは、王都からの通達書だった。内容はお前がマラキアで見たものとほぼ同じ。俺が敵と内通している証拠を押さえた。貴族としての権利とバラム城の城主としての位を剥奪し、国外追放に処する、と――。首都にいるはずのモノディアのことは、何一つ書かれちゃいなかった。だから俺は身の潔白を証明するため、そしてモノディアを迎えるために、スクートゥムへと向かったんだ」

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