051 : The soldiers' rests

「……なあ! このトンネル、一体いつまで続くんだ!」

 叫ぶようなクロトゥラの声。アルトはトロッコの縁を掴み直すと、「そろそろのはずだ!」と叫び返す。その間にも二度、舌を噛んでしまった。

 一瞬顔を持ち上げると、車輪の散らした火花が見えた。風が細い髪を掻き乱し、鬱陶しく視界を遮っている。

――つまり、転がり落ちるって事か?

――まあ、平たく言えばそういう事。

 三人を乗せたトロッコは、事実転がり落ちていた。ジェメンドを撒いた事は確かだが、想像を遥かに超える速度が出ているために、立っている事すらままならない。

 ここまで来ると、いまだ横転せずに済んでいる事が奇跡のように思われる。それもこれもカーブのない真っ直ぐな線路が続いた功績に他ならないのだが、おかげでトロッコはすっかり制御不能になっていた。下手に止めようとしたところで、ブレーキの棒が折れるだけだろうことは想像に容易い。だから、その終着点に予想はついていた。

 向かい風で乾燥しきった瞳に、じわりと涙が滲んで来る。それがどうにも染みるので、アルトは思わず目を瞑った。その時だ。

「お前ら、歯ぁ食いしばれ!」

 舌打ちと同時に、デュオがそうがなりたてる。反射的に目を見開けば、飛び込んで来た光に目が眩んだ。

 出口だ! 心が叫ぶ、声を聞いた。しかし安堵の気持ちはない。その時既にアルトには、トロッコの線路を遮断するように横たわる、倒木の姿が見えていたのだ。

 トロッコの縁を握り締めると、次の瞬間、胃の辺りがフワリと浮かんだ。得体の知れない浮遊感の後には、いくらか白んだ明け方の空に視界の全てを埋め尽くされる。

(――雨、止んだんだな)

 そんな考えが、悠長に脳裏をよぎっていった。外の空気はじわりと湿って、青々と茂る緑のにおいで満ちている。ほんの一瞬、まるで体の重さが無くなったかのように感じられた。

 ああ、自由だ。

 誰かが耳元で囁いた。空から地へ貫き止めるような雨は止んで、自由になった。するりと通り抜ける碧が、心をさらっていく。

 さあ、おいで。

 おいで。はやく、自由に。

 手が、虚を、掴む。

「ぐっ……!」

 どうやら投げ出されたようだと気付いたのは、一瞬遅れての事だった。

 咄嗟に頭はかばったが、打ち付けられた背中は痛み、息が詰まって咳き込んだ。その声の背景に、トロッコの大破したらしい音が聞こえてくる。

「二人とも、無事か?」

 押し殺したクロトゥラの声。アルトがぐらぐらと揺れる頭を振りながら体を起こすと、すぐ隣からもがさっと、茂みの揺れる音がした。

「……ったく、とんでもないもんに乗っちまった。まあ、はなから上品な到着なんて期待しちゃあいなかったが」

 デュオだ。どうやらうまく生い茂った草地に飛び込んだらしく、口で言うわりにはけろりとした表情をしている。アルトがほっと溜め息をつくと、彼は心配無用とばかりに笑って、腕を上げてみせた。

「お前らとは、踏んできた場数が違うのよ」

 とはいえ戦いで受けた傷は相変わらず彼の脇腹を赤黒い染みで覆っており、額からは脂汗が滲み出している。アルトは傷の具合を尋ねようとして、しかし、言葉が続かず俯いた。

――あなたの母君はバラムの元城主と愛し合っていながら、その命を皇王へ売ったのです。

――君の母君から快活な笑顔を消し去り、命を奪ったものって何だと思う?

 何か鉛のようなものが、胸の内に居ついていた。心の中は奇妙なまでに静まりかえっているというのに、得体の知れない思いに気を取られて、デュオに顔を向けることが出来ないでいる。

 兄の差し向けた兵達。騎士の誓い。母に恨みを持つという暗殺者。爆音、血、雨、遠のく背中、それから。

――たった一つ残った、嫁さんの形見だ。

 剣を握りしめたまま離そうとしない右の手首を、指先まで冷えきった自らの左手で掴んでみる。震えはなかった。しかしその事に安堵する一方で、真っ黒な恐怖が心の内を巡っていく。

(すり替わる)

 それは自分でも気づかないほど、自然に。

 握り締めた剣に、紅がこびりついている。オスティナートを切り捨てた感触は、いまだその手に残っていた。肉を切り裂く鈍い手応え。骨を掠める軋んだ感覚。戦いの中だったのだ。生きることを望むなら、誰かを生かすことを望むなら、それを恐れてはいけないのだと、頭のどこかでは理解していた。そうしなければ、いつか心が死んでしまう。

――このまま先へお進みください。焦れることなく胸を張り、従える者の威厳を持って。

 そうできたなら、どんなに良いだろう。そう思うとちくり、と、小さな針が喉を通っていく気がした。そうして堂々と歩いていけたなら、期待に応えることが出来たのなら、きっとこの胸も、もう少しは安らいだのだろう。……本当に?

(すり替わっていく)

 非日常が、アルトの信じた日常を、凌駕し書き換えていく――。

「ひとまず、今いる位置を特定しないといけないな」

 クロトゥラの声に、アルトははっと顔を上げた。それから小さく息を吐き、ぎこちない仕草で頷いてみせる。いつの間にやらクロトゥラは、簡単にではあるがデュオの傷の手当をすませていた。

 握り締めた指を一本一本ほぐすように離して、剣をしまう。アルトは一度溜息をつくと、デュオに肩を貸そうとしているクロトゥラへ、声をかけた。

「俺が肩、貸すよ。おまえは地図を見てくれないか?」

「ん? ああ――」

 煮え切らない返事の後に、クロトゥラが視線を泳がせる。意図をはかりかねてアルトが首を傾げると、今度はやけにはっきりと、こんな事を言ってきた。

「いや、いい。俺がやる」

「けど俺、地図の見方がよくわからないから」

「ついでだから覚えたらいい。教えてやるよ」

「……。なんでそんな、頑なに」

 釈然としないまま眉をひそめると、不意にデュオと目があった。彼は何か答えようとしたクロトゥラの言葉を遮って、悪戯っぽい顔をアルトに向けてみせる。そうしてにやついた口調で、一言。

「おまえじゃチビすぎて、俺の杖にするには頼りねえのよ」

 言って、からかうように笑い出した。アルトが「はぁ?」と間抜けな声を出す隣で、クロトゥラまでもがわざとらしいくらい明るく、腹を抱えて笑い出す。取り残されたアルトはしばらくぽかんとしてから、火照る頬に居心地の悪さを感じ、足元の草を蹴飛ばした。

「年の割に小柄だっていう自覚は……あるけど、……チビって程じゃ」

 「大体、まだ成長期だし」と続けるも、馬鹿笑いする二人の耳に届いているとは思えない。段々と募る苛立ちに、アルトは深く溜息をついた。無言でクロトゥラの持つ地図を奪い、歩き出すと、ようやく二人もついてくる。

「なあ、ふて腐れるなよ」

「残念ながら、身長に相応しい程度に中身もお子様なので」

「別に、チビじゃ悪いって訳じゃねえし」

「あれだけ笑っておいて、どの口が物を言ってるんだ」

 口先で文句をたれながら、ふと、足元の水溜まりを覗き込む。通り過ぎる一瞬そこに映った人々の姿を見て、アルトはそっと目を伏せた。

 足を引きずるようにして歩く、三つの人影があった。

 傷を負った壮年の男は口元を笑ませながらも眉間に皺を寄せ、腹を庇うようにして歩いている。それを助ける青年は顎を前につきだして、下を向いてなるものかとでも言いたげに先へ進んでいた。水鏡へ俯く少年の顔には表情がなく、いかにも心許なげだ。

(杖にするには頼りねえのよ、か)

 苦笑する。それだけでも生気のない無表情のままでいるよりは、よほど人間らしく思えた。

 コンパスの針を合わせて方角を定め、山脈に背を向け歩いてゆく。不幸中の幸いと言うべきか、三人がカランド山脈を首都の方向へ抜けることが出来たのは、間違いないようだった。しばらくは山を抜けるために獣道の旅をしなくてはならないが、地図によれば、程なくルシェルという大きな町へ続く街道に行き当たるはずである。荷の多くを失ってしまったために行商人のふりをすることは難しくなったが、ルシェルには職を求めて田舎から出稼ぎに来る労働者が多くいると聞く。ならばその一団に潜り込めば、町へも入ることが出来るだろう。

 即位式まで、そう時間は残されていない。町で身なりを整え、馬を買い、そして何より、清潔な場所でデュオの手当をしなくては。

 その日の晩のことだ。三人は誰が言うともなく、木の根を枕にして泥のように眠った。崩れ落ちたと言った方が、あるいは正しかったかも知れない。頬に落ちた若葉も、掌を這っていく虫達も、彼らの眠りを妨げるような力は持ち合わせていないようだった。

 

 ぽつりと何かが頬を打ったのを感じて、アルトはうっすらと、力なく瞼を動かした。許されるのならもう少しだけ、この心地よい微睡みに身を委ねていたい。心の底からそう思ったが、しかし次の瞬間には、そのささやかな願いは子供の甲高い声によってかき消されてしまっていた。

「わあ……! 起きた! おとうさーん、お兄ちゃん達、起きたよー!」

 一体、誰の声だろう。緩慢に幾度か瞬きをして、考える。誰かが隣で跳ね起きた。慌ただしいな、一体なんだというのだろう。そんなことを思ってから、しかしアルトも同じように、がばっと慌てて体を起こした。

 どうやら先程頬を打ったのは、木の葉から滑り落ちた水滴であったようだ。アルトはそれを手で拭うと、子犬のように駆けていく幼い少女の姿を見た。彼女の進む先には古びた幌馬車があり、彼女の父親とおぼしき男が、両手を広げて少女のことを抱き留めている。

「こら、エイミ。お前が起こしてしまったんじゃないのか?」

「ちがうわ! あたし、おかおを見ていただけだもの。そうしたらね、あの綺麗な金色のまつげが、自分からくすぐったそうに動いたの。ほんとうよ」

 春の暖かな日差しの中で、少女が必死にそう言った。夢でも見ているのだろうかと、アルトは眉間に皺を寄せる。おそらくいつもの、やけに現実味を帯びた夢に違いない。しかしそう思った瞬間に、すぐ隣からデュオの声がした。

「――二人とも、疲れはとれたか」

 岩の上に腰掛けて、彼は笑ってそう問うた。顔色は昨日より少しよくなって、どこに持っていたのやら、シャツまで清潔なものに着替えている。アルトが目をぱちくりさせながらその様子を見ていると、同じくたった今目覚めたらしいクロトゥラが立ち上がり、面目なさそうにこう言った。

「俺が見張りをするべきだったのに。……悪かった」

「なに、気にするな。それだけ疲れてたんだろう。どっちにしても俺はお前達みたいな若いのと違って、昼まで眠りこけてはいられねえからな。ちょっとばかり早く目が覚めたおかげで、親切な御仁にも会えたことだし」

 言って彼が目を向けた先から、再び、先程の少女が駆けてくる。彼女は抱えるように持った二つのリンゴをアルトとクロトゥラとに手渡すと、はにかみながら「どうぞ」と言った。その後ろからついてきた彼女の父親も、身振りでそれを勧めながらこんな事を言う。

「話は聞きましたよ。山で道に迷われた上、山賊に襲われたそうですね。命があって何よりでした。……ルシェルへ向かわれるなら、うちの馬車へ乗って行くといいですよ。立派なもんじゃあないが、その怪我で歩いていくよりは、ずっと快適だと思いますからね」

「い、いいんですか?」

 道に迷っただの山賊に襲われただのというのは初耳だったが、恐らくはデュオが適当な話を作って聞かせたのだろうと納得する。アルトが恐る恐る問い返すと、少女の父親は人好きのする笑みを浮かべて、優しく一度頷いた。



-- 第四章「存在しない王子」へ続く --

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