050 : WHEELS

 ある月夜のことだった。いっそ清々しいほど雲のない夜空には満天の星が輝いて、躊躇うばかりのその足元を、恨めしいまでに明るく照らし出している。

 ああ、腹立たしい。そう思いながら溜息をつく。だが状況は変わらない。どうやら星々は、宮殿の新たな主に酔いしれてしまったらしかった。宴を催しているかのような輝きは、追い詰められた彼の、陰鬱な心の内を汲み取ってなどくれそうにない。

 そっと、左手で右の腕に触れる。震えていた。

(馬鹿な。どんな戦に出るときだって、こんなに怯えはしなかったのに)

 自嘲の笑みをこぼすと、潜んでいた茂みの影から密やかに頭を覗かせる。目的の窓に、明かりが灯っていた。

 どろり、と、すっかり塞がったと思っていた心の傷から血が溢れ出す。それで、逆に決意が固まった。

 今にも自らの血の海へ溺れるのではというほど、その足取りはずしりと重い。しかし不思議と彼の体は、周囲へ最大限の注意をはらいながら、確実に、その窓の下へと忍び寄っていくことが出来ていた。

 窓の側に一本の、立派な枝をつけた木があった。その木が数年後、窓を覆うほどに大きく成長して切られてしまう運命にあることを、今の彼はまだ知らない。

 枝に手をかけ、足をかけ、音を立てぬように慎重に、その木をつたってよじ登る。部屋にいるのは一人だろうか。侍女がいては面倒だ。テラスへ着いたら息を潜めて、中の様子を覗わなくては――。

 しかしそうしてテラスの手摺りへ手をかけた瞬間、きぃっとか細い蝶つがいの音がした。窓を開ける音だ。慌てて手を引くも、身を隠している余裕はない。バランスを崩しかけた左足が細枝を蹴り、がさりと葉の鳴る音をたてる。それに気づいた人影が、硝子の向こうで驚いたように体を震わせたのが見えた。

 月の光が硝子に反射して、相手の顔は見えない。だが、女だ。

 やけくそじみた動作で枝を蹴り、テラスへさっと飛び移る。相手が侍女か何かなら、大声を出される前にどうにかしなくては。

 そしてあるいは、目的の人物であるのなら。

 半端に開いたその窓を、思い切りよく開け放つ。立ちつくしていた女は目をまん丸く見開いたまま、彼の顔をふり仰いだ。

「――デュオ」

 薄桃色の唇を震わせて、透明な声がそう言った。その声は苦しげで、しかし悲嘆に暮れてはいない。その事が、彼の傷口をまたえぐり取っていく。

 問いただそうと決めていた。だが言葉が出てこない。

 代わりに出来ることはといえば、目の前に立ち竦んだまま呼吸さえも忘れたかのように瞠目するその女を、力一杯抱きしめることくらいだった。堪えきれなかった。力を込めすぎて、へし折ってしまうのではないかとさえ思われた。しかし女は躊躇うように指先を彷徨わせた後、恐る恐る彼の肩に手を伸ばし、力強い抱擁を返す。

 月影の落ちる室内には、天蓋の付いたベッドがあった。

 そこから今にも転げ落ちそうに、子供の頭が飛び出している。それは安らかな寝息をたてて、深い夢にまどろんでいた。

 

「それで、殿下。脱出にはこのトロッコを使うのですね?」

 有無を言わせぬゾーラの問いに、慌ててうん、と頷いてみせる。すると直後、どしんという重い音がした。ゾーラが力いっぱい躊躇なく、トロッコの上へデュオを突き倒したのだ。アルトが目を丸くして見ていると、デュオは心底不満そうに脇腹の傷を押さえながら、低い声で文句を言う。

「ゾーラ女史、もう少し優しい乗せ方は無かったのかね」

「そんな風に呼ぶのはおやめなさいと、何度言ったらわかるのかしら? 大体、無茶をして真っ先に負傷したのだから、その程度の扱いは甘んじて受け入れるべきでしょう。自分で立ってもいられないくせに」

 そう一息に言い募られては、ぐうの音も出ないとばかりにデュオがすかさず視線を逸らす。アルトは呆れて肩をすくめたが、隣に立つゾーラを見て、ずきりと胸の内が痛むのを感じていた。デュオほどではないにしろ、ゾーラの傷も劣らず酷い。肩口の布はぱっくりと裂け、埃にまみれた細腕に、鮮血が滴っている。

 頃合いを見計らったかのように、風下で大きな爆発音がした。やはり例の臭いのためか、今までよりも規模が大きい。飛び散った火花が埃を燃やして、焦げ臭いにおいをさせていた。しかしそれは土埃をも巻き上げており、視界を奪うのに一役も二役も買っている。

「急いで! 今の内に……」

 シロフォノの声。追って、クロトゥラとマルカートが駆けてくるのが見えた。アルトとゾーラとが協力をしてトロッコを押し出すと、坂道に乗った車輪は錆び付いた音を発しながら、少しずつ線路を進み始める。

(このまま車輪が、回り出せば)

 迫ってきていたジェメンドの人間を、マルカートの刃が切り伏せる。同時に強く背中を押されて、アルトは半ば押し込まれるように、デュオの隣へ飛び乗った。押した張本人であろうクロトゥラがそのすぐ後に続き、シロフォノがもう一押しすると、トロッコはがたんと音を立てる。車輪が線路の継ぎ目に掠った音だ。途端、埃だらけのその箱は線路の続く方へと傾いて、転がり落ちる速度を増していく。

「シロ!」

 クロトゥラに差し出された手を引いて、シロフォノがするりと身軽な動作で乗り込んできた。その際に追っ手の男を蹴り飛ばしたことで、また勢いに拍車がかかる。しかし。

 アルトはふと顔を上げ、目の前の様子に眉をしかめた。もう一台のトロッコですぐに追ってくるだろうと思っていたゾーラとマルカートが、武器を手にしたままアルト達に背を向け立っていたのだ。

「何をやってるんだ! はやく、そっちのトロッコに――」

 アルトが言っても、二人はトロッコへ乗り込むどころか、手にした刃を収めようともしない。しかし辛うじて振り返り、淡々とこんな事を言う。

「お前達に単独行動をさせなかったのは、何も怪しんでいたばかりというわけではなかった。すまなかったな」

 マルカートの、落ち着きのある低い声。どうやらシロフォノとクロトゥラの二人に向けて言っているようだとは、アルトもすぐに気がついた。続けてゾーラが、にこやかに笑う。

「けれどいざという時に殿下をお守りできるのは、私達ではなくあなた達だとわかっていたの。だから、遠ざけておくことはできなかったのよ」

 アルトがするのと同時に、周囲の精霊達もまた身震いした。トンネル内の、湿った空気が張り詰める。彼らの言わんとすることは理解できても、アルトには、それを認めることが出来なかったのだ。

「二人とも、何を」

「殿下。それに我らが南部第一戦線総大将殿」

 アルトの言葉を遮って、ゾーラがかつんと踵を鳴らす。マルカートとあわせていかにも軍人といった敬礼を向けると、一言、こんな事を言った。

「私達が時間を稼ぎまず。――ご武運を。スクートゥムまで、どうぞご無事で」

 がたんとまた音がして、トロッコが更に傾いた。車輪の錆び付いた音が激しくなり、耳の奥をひっかいていく。

(……無茶だ!)

 アルトはトロッコの縁に体を預け、精一杯に手を伸ばした。そんな程度で求めるものに手が届くはずはないと重々承知していたのだが、それでも抗いを抑えきれない。

「戻ろう! あの二人だけ置いていくなんて、そんなこと」

「馬鹿言え、今トロッコを止めたら、折角のチャンスが無駄になる!」

「でも!」

 速度を増したトロッコは、風を切って進んでいた。視線を戻せば薄れゆく土煙と、その中で多勢の敵に斬り込んでいく二人の後ろ姿が垣間見られる。

 トロッコの縁を強く掴むと、腕の傷から血が滴った。自分は何故、こんな風にこの場を去ろうとしているのだろう。そう思うとやるせない。仲間の背中が、遠ざかっていく。

「――アルト。君は『捨て行く』事と『信頼する』事の違いを学ばなくちゃならないね」

 唐突に穏やかな声がして、アルトははっと振り返る。シロフォノだ。彼は諫めるように名を呼んだ双子の弟に対して苦笑して、しかし構わずこう言った。

「だけどあの怪我じゃ、二人であれだけの敵を足止めする事は出来ないな。……このままじゃ、無駄死にだ」

「だったら!」

 アルトは声を荒げたが、シロフォノが動じる様子はない。代わりに彼はトロッコの縁に足をかけ、にこりと静かに笑いかけた。笑んではいるが、甘さはない。その目に宿った試すような光の色を見て、アルトは思わず口をつぐむ。

 シロフォノが、続けた。

「私が残り、彼らに加勢致します。しかし殿下、殿下はどうかこのまま先へお進みください。焦れることなく胸を張り、従える者の威厳を持って。それが我ら背後の道を護る者への、何にも勝る信頼の証となりましょう」

「……けど護るのは、後ろばかりってわけにもいかなそうだぜ」

 横手から跳んできたリッソを剣で払いながら、低い声でクロトゥラが言う。既に何人ものジェメンドが、トロッコを追って動いていた。中には先から坂下に構えていた者もおり、彼らを撒くのに今しばらくの攻防戦が必要となるのは明らかだ。

「そっちはクロちゃんに任せるよ」

「相変わらず、俺の都合はお構いなしか」

 二人の視線が、同時にアルトの方を向く。アルトはぐっと奥歯を噛みしめて、それから強く、頷いた。

 どうやらまた、頭を冷やさなくてはならないようだった。ジェメンドにしろ、最早大半を失ったサンバールの私兵にしろ、狙いはアルトとそのペンダントだ。

(だから)

 仲間を失わないために、今、するべき事は限られている。アルトは握りしめていた手を放すと、大きく息をし、可能な限りの威厳をもってこう言った。

「ネロ。お前と、共に残る二人を信じる。――後にスクートゥムで会おう」

 聞いて、騎士の契約を交わした第一の忠臣はにこりと不敵に笑ってみせた。それから彼は視線を追っ手に向け、一言、冷ややかな口調でこう言い放つ。

「頭が高いよ」

 飛び交うリッソを叩き伏せ、シロフォノがトロッコを飛び降りると、軽くなったトロッコはまた速度を増した。しかしアルトはぞっとしない視線を感じ、静かに前へ向き直る。すると、線路の脇に膝をついた男と目があった。

「――オスティナート」

 デュオの呟く声が聞こえた。一人の男が、昏い目をして彼らの行く先に蹲っている。

 追いついてきた人間を、クロトゥラが切り伏せたのがわかった。どさりと重い、力を失った体の崩れ落ちていく音。精霊達は震え上がって、また、アルトの側を離れていく。

 前を見ればオスティナートが、最早思うとおりに動かないらしい腕を目一杯に伸ばし、刃を握りしめているのが見えた。その目的に気づいてアルトは、咄嗟に「やめろ」と大声で叫ぶ。オスティナートがどうやら、トロッコを脱線させようとしているのだとすぐに知れたからだ。

 なぜ、そうまで。

(敵とはいえ、あまりに……)

 背後で再び、金属のかち合う音がする。

 視線を下ろすと、やはり脇腹の傷が痛むのだろうか、デュオが頬に珠のような汗を浮かべて、トロッコの板へ背を預けていた。

 傷を負ったのは、こちらも向こうも同じ事。当たり前だ。これは戦いなのだから。

 けれど自分たちは一体何故、戦わなくてはならなかったのだろう。

「デュオ、剣を」

 アルトは短くそう言って、ぐっと押しつけるように手を伸べた。

「俺のは、鎖を断ち損じてぼろぼろにしてしまったから」

「やれるのか」

「ここでやらなきゃ、足止めをしてくれている仲間の思いも、俺が皇王へ申し開くのを待っているマラキアの人達の思いも、全部無駄になる」

 デュオの剣がずしりとした重みを伴って、アルトの手に渡った。よく手入れをされている、年季の入った長剣だ。アルトはじっとトロッコの進む先を見据えて、それを真っ直ぐ構えてみせた。

 一閃を薙ぐ直前に、再びあの闇と出会った。しかし闇の側には既に戦意がないようで、ただあの瞳でアルトを見、笑いながら、オスティナートの背後を去っていく。

「こいつの闇は、とても心地よかったのだけれど」

 闇が消えたその瞬間、アルトの剣は確実に、オスティナートの胸を裂いていた。

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