023 : Misty-eyed

「アルト――?」

 驚きを隠せない様子で、デュオが呟く。アルトは居心地悪く苦笑をすると、デュオのすぐ近くで足を止めた。

 言葉がうまく、出てこない。アルトがどこから話し始めようかと考えていると、跳ね起きるように立ち上がったデュオが、先に短くこう言った。

「どうして、戻ってきた!」

 怒鳴るような焦りのある声に、アルトは思わず言葉を飲み込む。そうして直後に苛立ちを感じて、「大事な用があるからだ」と強い口調で言い返した。

「大した用もないのに、ウラガーノまで行って引き返すわけ……」

「大した用もないのに、引き返されてたまるか! 何かあったことくらい、わからないわけがないだろう! それより、門番にはどう話して通ってきたんだ。まさか、おまえ一人で戻ってきたんじゃないだろうな。皇王は承知したのか? いや、それより成人の儀は……」

「デュオ、落ち着いてくれよ!」

 なんとか言葉を割り込ませてアルトが言うと、デュオははっとしたように一度口を閉じ、それでも落ち着きなく辺りを見回した。「誰もいないよ」とアルトは言ったが、アルトの言葉どころか、アルトが目の前にいるということすらいまだに信じきれないようだ。

 こんなに取り乱したデュオを見るのは、久々だ。確か以前、アルトが馬小屋の屋根から落ちて脳震盪を起こした時にも、アルトが目覚めてしばらくは、こんな調子でいたのを覚えている。

 そんな様子を見ながらアルトが悠長に笑っていると、デュオは大まじめな顔をしてアルトの肩をつかみ、言った。

「一体、どうなってるんだ。おまえ、まさか皇王の勅命や、今のマラキアのことを知らないわけじゃないよな?」

 アルトは笑うのをやめて、口を閉じる。きょとんとしたまま首を横に振ると、デュオの表情が凍りつくのを見て取れた。

「伝令が……来なかったのか」

「来たかもしれないけど、聞く前に出てきたんだと思う」

「マラキアに入ってから、まさか誰にも会わずにここまで来られたわけじゃないだろ」

「城壁越えしてこっそり忍び込んだから、そのまさかなんだ」

 アルトは何ともなしにそう言ったが、聞いたデュオは開いた口が塞がらない、といった表情で言葉を失っている。一体何があったというのだろう。父王の勅命というが、戦争でも始まるというのだろうか。

「アルト!」

 唐突に背後から声がして、アルトとデュオは同時に振り返った。向こう側から、駆けてくる人影が三つ。シロフォノと、クロトゥラ、そして最後にぜえはあ言いながら二人を追ってきたのは、ナファンだ。

「馬番殿! こっちにいたのか。捜し回ったのに!」

「先に執事さんに会えたから、連れてきたんだ。それよりアルト、大変だよ!」

 あまりの慌て具合にアルトは思わず瞬きして、息を整える三人を言葉もなく眺めていた。

 既に火の手が上がったのかとアルトは身構えたが、どうやらそういうことではないようだ。ナファンが唐突に膝をつき、頭を垂れて臣下の礼をとる。アルトが驚きを隠せずに短く声を上げると、倣うようにシロフォノとクロトゥラも後に続いた。

「一体何を……」

「申し上げます、殿下!」

 緊張が見て取れる、ナファンの声。視線でデュオに尋ねるが、彼は何も答えない。そうしているうちになんとか息を整え終えたナファンが、言った。

「クラヴィーア王国第二十六代皇王、アドラティオ四世陛下より御勅命が下りました! ヨンゴの月十七日を持って、アドラティオ四世陛下は退位……。同日、第三王子アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア殿下の成人の儀に合わせ……」

 霞んだ声で、ナファンが一旦口を閉ざす。

 他の誰も動かない。アルトも微動だにできないまま、その場に立ち尽くしていた。

自分自身の鼓動の音が、耳のすぐ裏に聞こえてくる。

 ナファンの口が、息を吸う。「その先を言わないでくれ」と、アルトはよほど叫びそうになった。

 終わってしまう。――何が終わるというのだろう。

 だがアルトには、わけのわからない確信があった。終わってしまう。何かが、音をたてて。

「同殿下のご即位式を……執り行うとの仰せです」

 顔を上げないまま、ナファンは静かに「おめでとうございます、殿下」と続ける。アルトはその場へ棒立ちになって、ぐらつく頭を右手で抑えた。

 ほんの一瞬まで考えもしなかった展開に、頭がどうにもついて行かない。目の前がぼうっとして、全てのものが虚ろに思えた。

 隣に立ったデュオが、気遣わしげに何かを尋ねてくる。何を言われたのか、わからない。アルトは首を横に振って、呟いた。

 気づかぬうちに、口元が笑んでいる。

「まさか、嘘だろ?」

 何にも勝る、切実な問いだった。しかし四人のうちの誰も、アルトの問いには答えない。アルトは生唾を飲み込むと、「冗談じゃない」と続けた。

「兄上たちは何をしてるんだ。あんなに可愛がられていたじゃないか。どうして誰も反対しなかった? 誰か、父上を止めなかったのか?」

「殿下。マラキアには公式の伝令がきただけで……」

「父上は何を考えてるんだ。今まで散々捨て置いて……どうして、今更、……」

 アルト自身、気が動転している自覚はあった。それでも、口にしたことは全て本心だ。叫びたいほど父王へ、そして兄達に言いたい言葉ばかりが、次々に溢れ出てくる。

「なんだよ、それ。突然呼び出されて、いきなり即位だって? ああ、だから后が要るのか? 確かにその方が、社交界でも体裁が良いかもな……」

「アーエール殿下」

「やめてくれ!」

 気遣うように言ったシロフォノに、怒鳴りつける。怒鳴りつけてからはっと気づいて、アルトは口をつぐんだ。

 これでは八つ当たりだ。しかし、気持ちが収まらない。

(今すぐここから、いなくなりたい――)

 怒りなのか悲しみなのか、自分の気持ちがわからない。

 本来ならばこの知らせを、首都スクートゥムへと向かう道中で耳にするはずだった。その方がどれほど良かったことかと、アルトは奥歯を噛み締める。

 一度は無知を選んでまでも、心休まる故郷のままにしておきたいと願った、マラキア宮。わざわざその故郷で、親同然に考えていた人間と、ようやくできたと思っていた友人たちに囲まれて、こんなことになるなんて。

「アルト」

 呼ばれて、アルトは声を振り返る。傍らに立ち尽くしていた、デュオだ。既に懐かしくさえ思っていた太い腕が伸びて、アルトの頭を無造作に撫でる。驚くアルトを見下ろして、彼はこう続けた。

「それで?」

「それで、って……」

「おまえは、何をしにマラキアへ帰って来たんだ? さっきの言いようじゃあ、余程のことがあったんだろ?」

 そう言って、変わらぬ顔でにやりと笑う。アルトがぽかんとしていると、今まで臣下の礼をとっていたクロトゥラも馬鹿馬鹿しそうに立ち上がり、手で膝についた土を払い落とした。

「そうだ。こんな事してる場合じゃなかった」

「こ、こんな事とは無礼な……!」

「いいんだってナファン殿。俺達まで形式張ってちゃ、『殿下』がへそ曲げちゃうぜ。――おい、シロ。起きてるか?」

 顔だけ上げて非難したナファンを無理やり立ち上がらせて、今度はシロフォノへと顔を向ける。シロフォノは心外そうに弟を見て、口をへの字に曲げた。

「起きてたし、話だって聞いてたよ。失礼な。僕は退屈な時じゃないと、居眠りなんかしないよ」

 しかしその後でしっかりと大きなあくびをして、「ごめん、臣下の礼をとると条件反射で」と言い訳する。

「でも、寝てはいないからね?」

「それはわかったって。……で、どうする。火事のことだって簡単に誰彼もが信じてくれるとは思えないし、策を練らないとな。――アルト、いつまで惚けてるんだよ」

 クロトゥラに言われて、アルトははっと息を呑む。それから落ち着きなく四人の方を窺って、その全ての視線が自分に集まっているのを見ると、少々頬を赤らめた。

 終わってしまう。一瞬、本気でそう思った。子供でいられた時間が、無知でいられた環境が、皇王からの言葉を聞いた瞬間に、全て消え失せてしまうと思っていた。

(確かに、それは事実だったかも知れない)

 けれど今のアルトには、その程度では終わらない、確かなものがあったのだ。

「く、クロトゥラだって」

「お?」

「臣下の礼、途中まで本気でやってたじゃないか」

 照れ隠しだ。アルトが気分を害したふりをすると、クロトゥラは心得たというようにこう言った。

「そりゃアリア姫のお付きよりは、アーエール王の護衛の方が格好つくからさ」

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