017 : At full gallop -3-

 太い手綱をしっかりと握りしめ、木漏れ日の中を静かに進む。

 森の木々は太陽の光を受けて影を落とし、アルトの視界を細かな明暗に分けていた。

「遠乗りの経験は?」

 クロトゥラに問われて、アルトは首を横に振る。借りて身につけた近衛の、青藍色のマントが風に揺れた。

「でもマラキア宮の中では、よく乗り回した」

「……まあ、確かにあの宮殿は広かったけど」

「森を抜けたら、スピードを上げるよ。クロちゃんが先駆け、僕がしんがりになるから、アルトは無理のない速度でね。もしも道中はぐれたら、互いに笛を鳴らす。ただしブリッサ地方へ入ったら、マラキア宮までそう距離はない。その場合は、マラキアで落ち合おう。それで良い?」

 アルトが頷くと、馬を引きながらアルトの前を歩いていたクロトゥラも頷く。アルトは些か緊張した面持ちで前を見据えると、馬へ跨った脚に力を込めた。

 既に陽は随分と西へ傾いており、森の中はやや薄暗い。それでも徐々に木と木の感覚が疎らになってくる頃になると、辺りを橙色の暖かな光が包んでいるのに気づいた。

 穏やかな、いつも通りの夕焼けだ。

――次に会うのに、何年もかかるの?

 声が聞こえたような気がして、アルトは思わずはっとする。

 そうだ。あの時彼は、確かにこう言ったはずだった。僕なら、明日も明後日も会いに来るよ。――と。

 森を抜けきったアルトの目の前には、ただただ広い、地平線が広がっている。

 遠近感すら狂うような、一面の野原。それを今、沈みゆく陽の光が赤い色へと染めていた。

「あいつも、気づいてると良いな」

 アルトが思わず呟くと、シロフォノが怪訝そうな顔をして首を傾げる。アルトは目を細めて夕日を見ると、うっすらと微笑んだ。

(夕日は毎日会いに来る。……高原の風だって、会いたい時は会いに行けるんだ)

 アルトは一度、自分自身に対して頷いた。それから双子に目配せして、すぐそこに目指すマラキア宮が見えているかのように視線を向けた。

「……行こう」

 馬の腹を蹴ると、低く太い鼻息がそれに答えた。はた目に考えているよりも、馬上はよほど揺れる。アルトはしっかりとあぶみを踏み締めると、やや前傾姿勢にバランスを取った。

 マラキア宮から聖地ウラガーノまで、馬車で進んで三日間。直に騎乗した上、三騎ならば機動力もある。

(上手く行けば、二日程度で着けるんじゃないか?)

 始めのうちこそ、アルトはそう楽天的に考えていた。そう、始めのうちだけだ。いくらか経って夜が更けた頃には、さすがのアルトもその考えが甘すぎたことに気づいていた。

 夜の寒気が、風に乗ってアルトの肌を刺すように吹いてきており、それが体力の消耗に一役買っているのがわかる。少しでもはやく前へ進みたいと思う反面、段々と蓄積して行く疲労に、アルトは目眩を覚えた。

 そんな様子だったから、前を行くクロトゥラの馬が速度を緩め始めたのを見て、アルトは思わず胸を撫で下ろしていた。

「今日はこの辺りで休もう。そこの倒木を風よけにしたらいい。月がさが出てるから、明け方、少し降るかもな。備えておいた方が良さそうだ」

「了解。……初めての遠乗りはどうだった? アルト」

 馬を降りながら、いつも通りの笑顔でシロフォノが尋ねてくる。

「余裕だな、二人とも……」

 アルトは出来る限り明るくそう言ったつもりだったのだが、地面に降り立ってみて思わず顔をしかめた。足がじんと痺れている。どうやらそれを返事と取ったようで、シロフォノは自分の馬に乗せていた荷物から、すかさず水を渡してくれた。

「正直、思ってた道程よりもずっときつそうだ」

「大変素直でよろしい。……なんちゃって。クロちゃんってば、ホントに飛ばすんだもん。僕も結構疲れたよ」

「急ぐんだろ? マラキアに着いてからだって事情を説明したりしなきゃならないんだし、余裕を持って到着しないと」

「そうだけど。アルトは慣れてないんだから、もう少し……」

「でも、いいんだ」

 シロフォノが言うのを遮って、ようやく水を飲み終わったアルトが言った。

「いいんだ。今日ので大分慣れた。俺がもう少しまともに乗りこなせるようになったら、三人で競争しよう」

 そう言ってアルトがにやりと笑うと、双子は些か驚いたような顔をして、それでもすぐに笑い返す。

「それじゃ、まず火を熾そう。アルトは薪拾い、クロちゃんは野営地作り。協力してぱぱっと作っちゃって、早いとこ休むとしよう!」

 シロフォノの掛け声に、それぞれが頷きあう。その夜は携帯食をあけ、焚火を囲むようにして眠ることにした。


 夜の時間は、意外に長い。

 改めてそう実感しながら、アルトは夜空を見上げて瞬きする。

 ちぎれ雲があちこちに透けて、星は不満そうに仄かな光を放っていた。炎のはぜる音が聞こえて、アルトは寝返りをうつ。

 疲れていたはずなのに、どうにも眠れない。眠らなければ、と思うほど、眠りが遠のいていく様を見て取れた。馬から降りているのに、いまだ揺られているかのようだ。

 はだけてしまった毛布を手で寄せると、「アルト?」と声が聞こえる。見張りの番のために起きていた、シロフォノだ。アルトがもぞもぞとして顔を向けると、彼は薪を炎へ放りながら、微笑んだ。

「眠れない?」

 アルトは短く肯定の意を伝えて、起き上がると、シロフォノの隣へ座り込む。クロトゥラは炎を挟んだ向こう側で、微動だにせず眠っているようだった。

「休んでおいた方が良いのは、わかってるんだけどさ。なんか……眠れないっていうか、眠る気が起きないっていうか……」

「でも、昨日も成人の儀式で起きてたんでしょ。大丈夫?」

 言われてみれば、確かにそうだ。アルトは首を傾げたが、素直に「大丈夫みたいだ」と答えた。

「昨日は……。起きていたはずなんだけど、何か変な夜だったから」

「そっか」

 短く答えて、シロフォノがくすくすと笑った。しかしそれ以上は、何も聞いてこない。ふと思いついて、アルトは意気揚々と提案する。

「俺、見張りやる。どうせ起きてるから。シロフォノも疲れてるだろ?」

「見張り……。ううん、大丈夫だよ。ありがとう。僕は昨日の夜、ぐっすり眠ったから」

 やんわりと断られてしまった。アルトは些か肩を丸めて、しばらくの間、目の前の炎を見つめていた。

 考えてみれば、当たり前だ。今まで何年も近衛の訓練を積んできた二人にしてみたら、アルトに番を任せることなど頼りなくてできないだろう。事実引き受けると言ってはみたものの、アルトには消えかかった火をどうすれば効率よく燃え上がらせることができるのかも、獣が襲ってきた時にどう対処すれば良いのかも、まったくわかっていないのだ。

「代わりと言っちゃ、何だけど……。少し、お喋りしようか。ちょうど、退屈してたんだ」

 シロフォノがそう言って、にこりと笑う。アルトはかえって申し訳ないような気になって目を伏せたが、「じゃあ」と言って、先程から気にかかっていたことを聞いてみることにした。

「ツキガサって、何だ?」

「月がさ? どうして急に」

「さっきクロトゥラが言ってただろ? ツキガサが出てるから、明日は雨かもしれないって」

 合点がいったというふうにシロフォノが頷いて、「ああ」と言った。それから夜空を見上げて、朧げに浮かんだ月を指さす。

「月の周りに見える、光の環のことだよ。日がさも一緒。あれが出ると、もうすぐ雨が降る証拠だって言われてるんだ」

「へえ……。そんな事で、天気がわかるのか」

「目安だけどね。他にも傷口が痛んだら翌日は晴れるとか、アリが引っ越しを始めたら、大雨が降る兆しとか。木の葉の裏が見えたら晴れるっていうのもあるね」

 アルトは言われたことを一つずつ頭の中で繰り返して、丁寧に記憶へ刻み付けていった。

 役に立つものなら何でも覚えたいし、自分に出来ることなら、手を借りずに自分で出来るようになりたい。アルトはそう思っていた。今回のように何をしたらいいのかわからずに、何でもかんでもやってもらうのでは、場違いな客のようで居心地が悪いからだ。

「じゃ、次は火の熾し方。それと、野営をはる時の注意点なんかも」

「そんなの、僕らがやるよ?」

 シロフォノがくすくす笑ってそう言ったが、彼は既に、アルトの答を理解しているようだった。石や木を使って火床を作る方法、薪の上手い割り方、野営をはりやすい場所。雨や風の時にはどうすれば火が消えないのか、怪我をしたときにはどのような応急処置の方法があるのか、アルトはあれこれ話を聞くたびに、頷いて、相槌を打ち、少しでも疑問に思うことがあれば次々に質問していった。シロフォノもシロフォノで、苦い顔もせず一つ一つに丁寧に答えを返す。アルトの質問に先回りして、答えることもあったほどだ。

「これで次に野営をはる時は、少しくらいなら役にたてるな」

 一区切りついたところでアルトがそう言うと、その時ばかりはシロフォノも「ええ?」とおどけた声を出した。「次があるの?」といった声だ。アルトは頷くと、もう一度「次に野営をはる時さ」と答える。

「まずは明日の野営だな。そこで及第点をもらえれば、もう完璧だ」

「完璧って。……でも確かに、アルトには野営の知識も必要かもね。なんだか王様になってからも、やれ北で飢饉が起こったの、やれ東で紛争が起こったの、全部自分で確認しに行っちゃいそうだもん。家臣は大変だ」

 シロフォノがあまりに自然にそう言ったので、アルトは思わず笑ってしまってから、表情を凍らせた。慌てて辺りを見回して、やはり周りにいるのがシロフォノと、向こう側で眠っているクロトゥラ、そして三頭の馬だけだと確信すると、安堵の溜息をつく。シロフォノが不思議そうに首を傾げるのを見て、アルトは音量を落として「よしてくれよ。冗談でも」と釘を刺した。

「冗談って、何が?」

「今お前、さも当たり前かのように……」

 言いかけて、アルトは口ごもる。シロフォノが何とも思っていないのなら、わざわざ掘り返すこともないだろうと思ったのだ。しかしシロフォノはアルトの内心を知ってか知らずか、然もなんでもないかのように繰り返した。

「王様になってから、っていうのがまずかった?」

 アルトは唾を飲み込んで、気まずい表情のまま、炎へ視線を向ける。

「……過剰反応だ、って思っただろ」

「うん、ちょっとだけね」

「自分でも、わかっちゃいるんだけど……。昔から、爪の先程でも王権を狙ってるみたいなこと、疑われちゃまずいと思ってたから」

 シロフォノが瞬きして、焚火に新しい枝を放りこんだ。ぱちぱちと炎のはぜる音が大きくなって、しかしすぐに枝を飲み込んでしまう。

「どうして。アルトにだって、立派に王位継承権があるのに」

「中途半端に権利だけあるから、難しいんだよ。貴族共の後ろ盾も何もないのに、王になろうとしてなれるわけがない。俺自身も王になる気はさらさらないから、それは構わないんだ。ただ、問題なのは……」

 アルトは一旦言葉を切って、唾を飲んだ。正直なところ、アルトは自分自身に対して驚いていたのだ。自分の立場や、王権のこと。いずれもずっと脳裏にはあった事柄だが、どれも、普段は周りの貴族達が面白おかしくアルトを軽んじるために話していた内容だったからだ。自分の口からこの話が出るのは、妙に新鮮なことだった。

「兄殿下たち、ってこと?」

 シロフォノが打った相槌に、アルトは口をつぐんだまま頷いてみせる。

「ただでさえ、上二人でどっちが王になるかを争ってるんだ。もしも俺まで王位を狙ってるなんて事になったら、とんだ厄介者だろ。どっちからも弾圧されるに決まってる」

 二人の邪魔になるようなことは何もしていないはずの今だって、既に十分疎まれているのに。そこまで言いかけて、アルトは再び口をつぐんだ。これだけ言えば、シロフォノだって大抵は理解してくれただろう。そう考えて、アルトは「ともかく、そういう闘争に巻き込まれたくないんだ」と締めくくる。

 炎が静かにはぜている。まるで、話をする二人に遠慮しているかのようだ。

 シロフォノを見ると、彼は自分の指でふらふらと空に何か書き付けている。また何か、マラキアで火事が起こるかもしれないという話をした時のように、的外れなことを言うのだろうか。アルトが苦笑しながら言葉を待っていると、シロフォノがぽつりと、呟く。

「アルトは、お兄さんたちと仲良くなりたいんだね」

 アルトは驚いて、きょとんとした。まさか、そんな言葉を予期していなかったのだ。

「……。何、言い出すかと思えば」

「そうでしょ? だから、自分から身を引いたんだ。違う?」

「だから、俺は元々王権に興味がないんだって――」

 シロフォノが指を動かすのをやめて、じっとアルトの目を見ている。どうやら、相手の目を凝視しながら話すのは彼の習慣のようだ。

 何もかもを見通すような、強い力のある目。アルトがそっと視線を外すと、シロフォノは心得たというように、小さく笑った。

「わかった。ごめん、困らせるようなこと言って。アルトがそう言うなら、もう言わない。でも、ちょっとだけいいかな。ここから先は僕が勝手に話すだけだから、適当に聞き流してほしいんだけど――」

 シロフォノがそう言って、仰向けに地面へ寝そべった。

 その視線の先には、多くの星が強く瞬いている。どうやら明日は、風の強い日になりそうだった。

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