008 : Solitary farewell party -2-

 アルトは足踏みをつけながら、軽快なメロディを奏で始めた。前に教育係がこっそりと教えてくれた、民間の酒場でかかるダンス曲だ。ダンスと言っても宮殿で踊られるようなすましたものではなく、もっと人の心に近い、別れなどとは程遠いような、明るい舞踏の曲である。

 心得たとばかりに、指揮者が指揮台へ立つ。誰かが大慌てで引っ張り出してきた太鼓はコックへ、アコーディオンは驚いたことに、デュオへ手渡された。

 音楽がのってくると、アルトは一度楽器を置き、いつも部屋の片付けをしてくれていた給仕の前へと歩み寄る。優雅な仕草で片手を差し伸べると、にこりと笑んでこう言った。

「一曲、踊ってくださいませんか」

 給仕達の間で、驚きとも興奮とも言えぬ声が湧く。アルトの目の前に立った女は顔を少し赤らめて、おずおずとアルトの手を取った。

 同時に、堰を切ったように人々の声が上がり始める。ある者は笑い、ある者はダンスを誘いに走って行く。自分の不得手に戸惑う者も始めはいたが、夜が更けるにつれ誰もが、自分自身の楽しみ方を見いだしていったようだった。

(こんな素敵なパーティに、お返しができて良かった)

 荷造りや表向きの送別会だけでも忙しかったろうに、こんな会を用意してくれたことが嬉しく、何より誇らしい。

(ここが、俺の宮殿)

 マラキア宮だ。

 町へ出る許可が下りないこと、王子の中でただ一人、自分だけが首都スクートゥムへ行くことすら許されないこと、不満に思うことは多くあった。けれどそれでもなんだかんだとここを出なかったのは、やはりこの場所が好きだったのだと、アルトはその時気が付いた。

 ふと、視線でデュオを探す。アコーディオンの調子が変わったからだ。誰かに交代したのだろう。

「アルトでーんか」

 先程も聞いた、緊張感のない声。シロフォノだ。アルトが辺りを見回すと、少し離れた机のところに、双子とデュオが立っていた。

「二人とも。さっき言ってたのは、この会のことだったのか」

「そうそう。ね、楽しみにしておいて正解だったでしょう。僕らも飾り付けを手伝ったんだ」

「それより、隊長の目を盗んでここまで来ることの方が大変だったけどな」

 双子が顔を見合わせ、にやにやと笑う。そんな様子を見ながら、デュオも笑った。

「こいつら、意外と器用なんだ。騎士なんかより、そういう職に就けば良いのに」

「駄目ですよ。職人には作業服はあるけど、近衛の制服はないもん」

「制服目当てで近衛に志願したのか?」

「これを着てると、女の子にもてるんですよ」

 へえ、と言ってアルトも笑う。机の上に置かれた食べ物をいくらかつまむと、段々と収まりつつある場を見て、小さく溜め息をついた。

 自分のための送別会。嬉しいことには違いない。けれど。

(まだ、信じられないな)

 このマラキア宮から出ていくだなんて。それも成人の儀の後に来るのは、誰ともわからぬ人間との婚約なのだ。

――俺のことが邪魔だから、出て行けって言うならわかる。国が欲しかったのは、他国との交流の鍵になる『姫』だ。

 思い出して、苦笑する。結局、外交に使われることになってしまった。首都スクートゥムで成人の祝いを行うというのは、そうすることで少しでも、アルトの格を上げておこうという魂胆なのだろう。

(近衛の制服と、似たようなものか)

――見事な演奏だった。

 父王の声を、思い出す。スクートゥムでの祝いの儀は、演奏に対する褒美なのだと、ほんの一瞬信じ込んでしまった自分が、あの時確かにそこにいた。考えてみればありえないことだ。父王は元々、成人の儀のこと、婚約のことを告げるのが目的で、このマラキアまで来たのだろう。ここへ来る時点で、全ては決まっていたはずだ。

「そうだ、殿下。そろそろどうです」

 クロトゥラが言った。

「そろそろって、何が」

「やだなあ、人が悪い」

「あれですよ。『風化した物語』」

 言われて、アルトは目を瞬かせた。目の前で双子の騎士達が顔を見合わせて、また笑っている。

「ここでやるために、さっきの会では取っておいたんですよね?」

 なるほど、そういうことか。

 アルトは思わずにまりと笑った。アルト自身がそれを意図した訳ではなかったが、確かに今ならいいだろう。楽隊だってそろっているし、何より、今なら。

 アルトは辺りを見回した。人々は大分落ち着いて、音楽に耳を傾けながら、あるいは食べ物をつまみながら、穏やかに語らっている。

(今なら、最高の気分で演奏できそうだ)

 今までのいつよりも。――父王の前で演奏した時よりも、ずっと。

 アルトがバイオリンを手に取ると、自然と視線が集まった。心得顔の指揮者が頷くと、会場にぱらぱらと散っていた楽団員達も戻って来る。アルトはその全員が持ち位置へついたのを見て、楽器にそっと頬を添えた。

 流れるように弓を引く。ふと空を見あげると、丸い月が青白く静かに灯っていた。息をするのは、そっとにしよう。下手に強く吹きかけて、あの明かりを消してしまっては大変だから。

 すぐに他の音が追いかけて来て、アルトはその音達の上に、ふわりと静かに座り込んだ。ふと、先日の演奏中に感じた頭痛のことが脳裏をよぎる。同じ曲の演奏中だからということが主な理由だが、実際に再び、頭の奥へ小さな痛みが走ったからだ。

 また先日のような白昼夢を見るのではと不安になって、目は閉じないことにした。

 痛みは段々と増したが、アルトはやはり手を止めなかった。瞬きさえも避けたいほどであったのだが、集中力が落ちるのを感じて、ぐっと奥歯を噛み締める。

 どうしても、完成させたいのに。今しかないのに。

 そうだ。ここで、こうして、この人達と共に演奏ができるのは、間違いなく今が最後なのだ。

 最後、という言葉が、嫌に冷たくアルトの心を通っていく。

 手を止めはしなかった。しかし心が止まりかけた、その時だ。

「森よ、森よ、彼の森よ」

 高く澄んだ歌声が聞こえた。アルトが視線だけで会場内を見回すと、声の主はすぐに知れた。同じように突然の歌声に驚いた人々が、同時に一人の女性を向いたからだ。

 給仕の女だ。直接話したことはあまりなかったが、よく庭で洗濯をしていた。もしかすると、その時にアルトが歌っているのを聞いていたのかもしれない。

 一斉に皆の注目を集めてしまった彼女は、歌うのをやめて赤面してしまった。恐らくは、思わず口ずさんでしまったといったことだったのだろう。

(――頭痛が消えた)

 アルトはもう一度給仕へ視線をやると、心の中で語りかけた。

(続けて)

 給仕の女が、おずおずとアルトを見る。真っ赤になった顔が、「今すぐこの喉がつぶれてしまえばいいのに」と話しているようだったので、アルトは思わずくすりと笑った。

(前に出てきなよ。ここで歌って)

 給仕の女はしばらく狼狽えていたが、アルトと目が会うと、それでも遠慮がちに笑いかけた。それから意を決したようにしっかりと一度頷いて、楽隊の方へ歩み寄る。

「月よ、月よ、彼の月よ。――独り旅立つその旅人の、孤独な道を照らしておくれ」

 

   風の竪琴かき鳴らし、ウタイモノらが明星を運ぶ

   大地と炎の眠りが覚めた

   果ての果実は潤いを持ち、異邦人らに命を与える

   

   エフェメリアの剣は折れて、白バラ茂る彼の地に眠る

   あまねく者に恩恵を与え、あまねく者より祝福を受け

   緋色の舞星を渡って、長き旅路に生まれる者よ

   

   森よ、森よ、彼の森よ

   つとして眠るその幼子の、小さな体を支えておくれ

   

   月よ、月よ、彼の月よ

   独り旅立つその旅人の、孤独な道を照らしておくれ

   

   終わりに出会いし裁きの楽園

   小鳥よ、歌え

   彼の地クレイソワーズで――


 最後の単音が、霧がかるように消えて行く。

(色々なものが、遠のいていく)

 そんな思いが、脳裏をよぎった。何故だろう。そう考えた。何故そんなふうに思うのだろう。この思いは、何なのだろうと。

 指揮棒が降りると同時に、辺りを拍手が包んでいた。アルトもバイオリンを降ろすと、周りの人々に笑いかける。皆思いのこもった笑みを浮かべ、どこか寂しげな、けれど何故か誇らしげな、そんな表情を浮かべている。

 ふと、歌を歌った給仕の肩が、小刻みに震えているのに気づいた。よほど緊張したのだろうか。アルトが声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせはしたが、振り返りはしなかった。

「確か、リフラだったな。さっきはありがとう。凄く綺麗な歌声だった」

 それでも彼女は振り返らない。いくらか歩みよってみて、驚いた。すすり泣く声が聞こえたからだ。

 リフラがようやく、振り返る。涙があふれて赤くなった目が、しっかりとアルトを見据えている。

 涙声が、こう答えた。

「アーエール殿下。どうか、お元気で。私達のこと、忘れないでくださいね――」

 何か強い力で、胸を殴られたような気分がした。瞬きをして、奥歯を噛み締める。自分の胸を殴りつけたのがどういった力であるのか、それはすぐに知れるところだ。

(そうか。……今頃)

 身に染みてわかる。これは、実感だ。

 長く住み慣れたこの場所から、旅立たなくてはならないという実感だ。

 離れることが、寂しく、悲しい。

 見知らぬ場所が、不安で、恐ろしい。

 王族としての責務であるとか、今までもいつも頭のどこかにあった覚悟であるとか、そんなもの、少しも役には立ちやしない。頭では理解していても、心はついてこなかった。

 心を動かす力は、心だけだからだ。

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