最終話

 魔女に対する敵意なんてものは、いま、私の中にはない。ネックレスを取り返したい気持ちは変わらないけど、彼女の頬に拳を振りかざすような真似はしない。

 シャム猫の言葉を借りるのなら、そんな野蛮なことはしたくない。

 凍えるような冬の夜に、電話で話しただけの魔女を分かり切ったように言うつもりはないけど、彼女の優しさは分かったつもりでいる。

 魔法を使い意地悪くこの島を支配しているけど、彼女も私たちと何も変わらない。

 怪我をすれば血が出るし、時間が経てばお腹が減る、たまには意味もなく泣きたくなる時もあるし、何一つ考えずに行動したくなる時もある。

 ただ、魔女は一つだけ違っていた。

 だから、全てを諦めて、捨てなくてはいけないのだ。

 彼女は、過剰に優しくなることを選んだ。

 血が出ていても「痛くない」と笑わなくてはいけない。

 お腹が減っていても「大丈夫、もうお腹いっぱい」と答えなくてはいけない。

 泣きたくても泣いてはいけない。

 全て考え、自己犠牲を選び続けなくてはいけない。

 

 ――魔女は、嫌われ者でいなくてはいけない。


   *


 私は、何度も悩んでは落ち込んでいる……現実の世界でも、この島の中でも。

 だけど、そのたびに誰かが手を差し伸べてくれた。

 現実世界ならケーちゃんが。この島なら優しい獣たちが。

 いまだって、終わりが見えない問題にひどく落ち込んでいた。だから、差し伸べられたシャム猫の手を躊躇なく握ったのだ。

 いや、今思えば、シャム猫の手は終わりの見えない問題の時にだけ、差し伸べられている。

 終わりの見えない問題――魔女のことだ。

 私は魔女の問題で、何度も悩んでは落ち込んでいる。

 だけど、これが最後だ。

 終わりの見えない問題。もとい、魔女の問題は、終わる問題へと変わった。

 絵本のページを捲るように実感をもって変わっていった。

 だから、私は告げなくてはいけない。

「フロー」

 陽の白い明かりがいつの間にか姿を消して、室内をランプが照らし、その柔らかい明かりと空腹を誘う夕飯のシチューの香りがする中で、はっきりと名前を呼んだ。

「なんだ?」

 フローグは、話を分かっているように答えた。

 まだ出来上がっていない、シチューの入った鍋が音を立てる。とても、優しい音だ。初めて出会った時の足音のように、無意識に寄りかかってしまうような音。

 フローグの答えから、随分と間が開いてしまった。それでも、彼は待っていてくれている。だから、私も苦しくはない。

 たとえ。

「今夜、魔女に会いに来ます」

 さよならを意味する言葉だとしても。

「そうか」

 彼は、小さく呟いた。温かい温度を持った空気を、確かに振るわせて。

 とても長い沈黙が続いたように感じる。

 もう、私が言葉を言う時ではない。彼の言葉の続きを、じっと待つ番なのだ。

 着実に、終わりへと近づいている。悲観的な意味は、一つも含んでいない。

 全てが、春の木漏れ日に照らされたように楽観的な意味だ。

 たとえ、パーカーを着たカエルの頬に、小さな水滴が窓を伝うように流れていても、悲しさなんてない。

 たとえ、私の頬にも同じ水滴が流れていても悲しさはない。

 だって、私たちの表情は笑っていてる。ぎこちない笑顔かもしれないけど、笑えているんだ。

 ずっと前に、こんなことを思った。

 カエルは、笑っていた方がいい。とても、おかしな話かもしれないけれど、カエルの顔に笑顔があれば、弱虫な少女に勇気を与えることができる。

 そして、泣いている少女の顔を笑顔にできる。

 私とカエルは、最初からそんな関係と決まっている。

 ここは、優しさのために嫌われることを選んだ魔女の島なのだ。

 優しいクリームシチューの香りは、ずっと私の中にあり続けるだろう。


   *


 あたりはすっかり夜の黒に飲み込まれてしまった。光源と言えるのは、ずっと遠くで絶えない笑い声みたいに光る夜の幻想街と月明かりくらいだ。

 私は、そんなこの島の気配を背中で感じながら、一本道を歩いていた。

 この道の先に何があるのかは、知っている。

 独りきりポスト。向き合うときに孤独でなくてはいけないポストが、この先にある。

 ほら、地面を踏みしめる音と風にそよめく島の音を、しばらく聞いていると発光するようにして月明かりを受けた赤いポストが姿を現す。

 でも、その隣には一つの影があった。スラリとした八頭身のシャム猫の姿だ。

 お馴染みの白スーツに身を包んで、題名のない笑みを浮かべている。

「こんばんは。 魔女の本は持ってきたかい?」

「こんばんは。 持ってきましたよ」

 何にも入れないで持ってきた魔女の本は、古本屋で見つけた売れ残りの本みたいに枯れている。

「ユキナは、この本が何なのか知っているかい?」

「はい」

 本当は、想像でしかない。これを握って感じる切なさや、どうしようもなくボロボロの中身、それから分かってしまった魔女の優しさから想像した。

 この本は、魔女の心だ。比喩でもなんでもなく、彼女の弱い部分を詰め込んだ心の本なのだ。

 曇り空から降る雨を涙と言い換えれる情景描写のように、魔女の本は魔女が傷ついているからボロボロで、涙が伝染する。

 私は、魔女の本を胸で抱えるようにして握った。

 悲しくないのにズキリと胸が痛い。辛くないのに涙が零れそう。

 私は、魔女の本を握りながら、シャムロットを見た。そして、声を震わせながら言う。

「なんでだろう、きっと、さよならなんだよね」

 これは、魔女の本のせいだ。涙が零れる理由も、カエルやキツネやシャム猫を思って、胸が苦しくなる理由も、全部魔女のせいだ。

「この島は、いるのにないものを探すだけのつまらない島さ。 さよなら、で正しい」

 シャムロットは、見慣れた白いスーツの襟を正して、私の前に手を差し出した。

 そして、物語の最後を語るように言う。

「私の名は、タマ・シャムロットだ。 ユキナ、君に会えて光栄だった」

 私は、しばらくの間、その手を握り返そうか悩んだ。

 何度も言うが、私が魔女に会いに行ってしまったら、それはを意味するんだ。はっきりとした理由は分からないし、言われたわけじゃない。

 でも、絵本を捲っていれば、残りのページ数で終わりを感じてしまうのと同じように、差し出されている手を握れば、またページが捲られてしまう。

 でも――私は、その手を握った。力は強いけど、誰かを労わっている優しい握手だ。手を振る別れよりも、全然いい。

「ありがとう、本当に」

「ありがとう、か……君は、立派にこの島で必要なモノを見つけたよ」

「うん」

 強く頷いた。

 私自身も、魔女から示された<もう一人の自分>を見つけている。いや、見つけたというのは、少しだけ過剰評価なのかもしれない。

 答えなんてものは、最初から島のあちこちに転がっていたのだ。それを、一人じゃ見つけられなかっただけ。手に入れようとして、手の中からすり抜けてしまっていたわけじゃないんだ。

 元から、必要なのに自分で捨ててしまっていただけなのだ。

 魔女は優しい。舞台を照らすスポットライトのように。

 魔女は不器用だ。口下手な告白みたいに。

 でも、全部、彼女の優しさだ。

「さぁ、もう行くんだ。 冬の日に魔女を待たせるのも気が引けるからね。 休息の丘で、魔女が待っている」

 独りきりポストの隣に立つ看板を見るのは、二度目だ。巧妙な木製の看板は、黒い矢印で<休息の丘>を示している。

 私は、シャムロットへ向けて言葉を言いかけた。だけど、すぐに口をつぐんだ。これは、さよならを使わない別れなのだから。

 休息の丘を目指すたびに、なんだかこの島で経験した、一つ一つの現実味が薄れて行っているように感じる。シャム猫はスーツを着ないし、カエルは笑わない、キツネは骨董屋なんて営まない――だけど、彼らから受けた優しさは、弱い私の支えみたいに、はっきりとある。

 それから、魔女に会いに行くという事実も。

 最初から「今日は寒いですね」って、魔女に話しかければよかったんだ。冒険も、涙も、いらなかったんだ。


   *


 シャムロットにとって、遠ざかっていく勇ましい背中を見送るのは、2度目のことだった。

 一度目は、随分と前になる。ユキナにとても良く似た、弱虫で正義感が強く、優しい少女だった。

 いわずもがな、彼女の魔女の子の義務を担ったのはシャムロットだ。

 夜の幻想外で、人間のように生活を送る獣を見て、戸惑い、怯えている少女に声をかけた。

「こんばんは、今日は寒いですね」

 シャムロットを見つけた少女は、緊張と怯えて硬直していた美しい瞳から宝玉のような涙を流した。とても失礼だけど、その涙を美しいと思ってしまったことを今でも覚えている。

 だから、ユキナの涙を見た時、今まで推測に過ぎなかった過去の少女と今の少女の共通点が、明確になったのだ。

 シャムロットは、錆びたトタンに縁どられた空を見た。おぼろげな月が、いつもと変わらない日常を謳っているように見える。

「君が心配しなくても、立派な子じゃないか」

 シャム猫の視界が、酷く歪んでいった。

 でも、その涙を拭うように、小さく声をかけられた。まるで、日常を謳う月に気を配るような声だ。

「らしくないな」

「猫だって、気取ったように見せて、人を愛するんだぞ」

「キザなセリフだよ。 全く」

 フードを被ったカエルは、ケロケロと笑う。

「良かったのか、あの子を見送らなくて」

「見送るも何も、オレにしたら、あの子が出かけたに過ぎないんだよ。 さよならじゃなくて、行ってこいって見送るのが正しんだ」

 フローグは、いつものように陽気に、ケロケロと笑っている。だから、シャムロットも、それ以上、追及することはしなかった。

 たとえ、横目に映る親友の瞳が、涙で一杯だとしても……見えていないフリをするのが、白いスーツを着たシャム猫の務めだ。

「さぁ、戻ろう。 私たちは、この島の獣だ。 次の招待者が来るまで、気長にお茶でもしていよう」

「それも悪くないな」

 休息の丘に続く道から、勇ましい少女の背中は消えていた。ただ、日常を謳う月の明かりが、申し訳程度に夜道を照らしているだけだった。


   *


 <休息の丘>は、この島のどこよりも温かさに包まれているように感じる。ひざ下程度の背丈の低い草が、柔らかい絨毯みたいに広がっていて、その上に様々な椅子が置かれている。

 幼児用の椅子、高級感のある皮のソファー、クッションを巨大にさせたようなモノ、丸太を立てただけの質素な椅子。

 それから、ジーンズ生地に足が暗い色の木材でできた、2人掛けのソファー。そこに、一人の少女が座っていた。華奢だけど大人びて見える少女だ。

 映画のキャラクターのように、黒いローブとオーバーサイズのとんがり帽、それから小さな黒猫がいたら、私よりも年下の少女に見える。

 だけど、スキニーデニムにオーバーサイズの白シャツを着て、肩から大きめのストールを羽織っている彼女は、やっぱり大人びて見えた。

「こんばんは」

 私は、彼女と微妙な距離を置いて、声をかけた。

 彼女は、この島の何かへ送っていた視線を、ゆっくりと私へ向ける。向き合った彼女の表情は、落ち込んでいるように思える。ただ、丸くて大きな瞳が、月明かりを反射して涙のように思えるだけかもしれないけれど。

「こんばんは」

 聞き覚えのある声だ。あの日、受話器越しに聞いた声と同じだ。

 違いを上げるのなら、やっぱり落ち込んでいるところだけ。

「あなたが、魔女ですか?」

「……そう。 私が、魔女。 驚いた?」

「はい。 もっと、意地悪な人だと思いました」

 魔女が、下唇を噛むようなしぐさをしたのが分かった。きっと、涙を堪えているのだ。

 だけど、私は、彼女を傷つけるスタンスを曲げるつもりはない。

 拳を振るうように野蛮にではなく、口下手な灯台のように下手くそを演じるだけだ。

「私は、意地悪だよ。 だから、あなたのネックレスを奪った」

 魔女は、白シャツの胸ポケットから群青色のガラス玉が揺れるネックレスを取り出した。月明かりを反射して、青くきらめいている。

「返してください。 私も、あなたの本を返しますから」

 大人びた瞳が、一度、ネックレスへと向けられ、その後で魔女の本へと向けられた。

「平和的解決だね。 だけど、ネックレスを返すわけにはいかないよ。 私は、嫌われ者の魔女だから」

 大人びているけども、愛らしくも思える瞳が、また涙のように思えた。

「……嫌われ者は、自信が嫌われているって気づきませんよ」

「だけど、私は、嫌われ者の魔女なの」

「じゃ、どうして傷ついているんですか?」

「嫌われることが、最善だから」

「それは、下手くそなやり方です」

 不通電話の森で電話をした時のように、脈絡のない言い合いだ。

 それでも、私は、続ける。ゆっくりと魔女を証明する。

「下手くそだけど、確かに最善ではあります。 矛盾しているようで、していません。 だって、あなたは優しいから……優しい嫌われ者だから」

 優しい嫌われ者である時点で、魔女は矛盾する存在なのだ。だから、下手くそな最善という矛盾したやり方になるのも、不自然ではない。

 手で持っていた魔女の本が、じんわりと重みを持った。まるで、服を着たまま水中に飛び込んだ時のような重さだ。

 私は、水の重みをもった本を突き出す。

「あなたは、嫌われ者の支配者を演じているんですよね。 ヒーローが立ち向かうべき、巨悪になろうとしている。 だって、悪に立ち向かうヒーローは、カッコいいですもん」

 この島に住む魔女につくられた獣たちは、みんなカッコいい。フローグやトウカ、シャムロットに、双子のタヌキの郵便局員。闇市を営むアウルヴィですら、かっこいい。

 だって、優しい嫌われ者を嫌っているんだ。言い換えれば、どんな些細な理由であれ、彼らは立ち向かっているんだ」

 それが。

「魔女の子の義務……最高にかっこいいこの島のヒーローじゃないですか。 あなたは、それを知っているんですよね。 でも、優しい人が嫌われるのは困難です。 だから、この本……魔女の心臓と言われている本に<悲しみ>と<涙>を閉じ込めた」

 魔女は、ソファーに座りながら、私の話をじっと聞いている。瞳を潤ませることも、下唇を噛みしめることもせず、穏やかな湖面のように静かに聞いている。

 魔女の証明の前提は、終わりだ。あとは、結論を言うだけ。

「あなたは、ヒーローの立ち向かうべき悪役になって、魔女の子にを見つけさせている。 下手くそだから、回りくどいやり方でしかないけど、あなたは、私に勇気を教えてくれた。 弱虫であることを誇りにしていい勇気を」

 魔女は、泣いていた。

 大人びた瞳から雫を垂らしているわけでも、嗚咽を漏らしているわけでもない。

 夜空に浮かぶ星々の光のように、真っすぐな瞳をじっとこちらへ向けているだけ。

 雲一つない澄んだ冬の日の青空へ<夏空>とタイトルをつけるように、涙と悲しみを手放した魔女の表情を<泣いている>と題している。

 彼女は、また、零れそうな涙を堪えるように、下唇を噛みしめて「おめでとう」と静かに呟く。

「あなたは、いるのにないモノ島で見つけるべきものを見つけました」

 魔女はソファーから降り、私の元へと歩み寄る。そして、本を握っていた片方の手を取り、その中にガラスのネックレスを握らせた。

「もう、あなたにこの島は必要ありません。 だけど、昔読んだ、名前の思い出せない絵本のように、あなたの心にこの島はあり続けます」

 手を開かなくても、魔女から受け取ったネックレスの感触が確かにあった。だから、次は、私が魔女の胸へと本を押し付ける。

「優しい魔女が嫌われ者になるのは、間違っています。 だけど、この島は、とても美しかったです……」

 彼女に伝えたいことが、漠然と頭の中で佇んでいる。だけど、それをうまく言葉にできないでいる。

 すると、魔女は「時間切れです」と言う変わりに「さようなら」と言う。

「待って――」

 体が浮遊するように、視界が揺れていく。泡のような光が、暗いバケツの中で私だけを照らしている。

 早く、言葉にしなくちゃいけない。

 優しい嫌われ者を演じ続ける彼女に、言葉を贈らなきゃいけない。

 泣き疲れた後のような眠気が、小さく肩を叩く。だから、下手くそで乱暴な言葉を言う。

「あなたが優しいことを知っています!」

 

 私の暗い頭の中で、最後の言葉だけが残響のように響いている。魔女に届いたのかは、分からない。

 だけど、大人びた彼女の瞳が、優しく細められたのが分かった。

 きっと、これが、魔女の証明の結論なのだと思う。

 魔女から勇気を貰う代わりに、彼女自ら嫌った<優しさ>という感情を、渡せたのだと思う。

 とても下手くそなやり方で――



野ざらしの箱庭「完」

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