第17話

 灯りの少ない冬の夜をカブで駆けるのは、嫌ではなかった。

 時速40キロ弱で吹き付ける冷たい風は、鋭利な刃物のように痛みを伴って、体を芯から冷やしていく。お尻に当たっている合皮のシートも、思わず鳥肌が立ってしまうくらい冷たい。

 だとしても、私は冬の夜の中をカブで駆ける感覚を、嫌いだ、とは言えない。

 抱き付くようにして体を預けているフローグの温度は、この島に充満する枯れたような純粋さの中じゃなくちゃ感じることはできない。

 でも、その中に無償の優しさをくれるトウカのような愛はない。

 隣にいるだけで頼りになるシャムロットのような頼りがいもない。

 だけど、あの薄汚れた汚い路地で蹲っていた私に、声をかけたのが鼻歌交じりに、ペタペタと足音を鳴らすカエルじゃなかったら、きっと今の私はいない。

 大きく深呼吸をして、目を閉じた。肺の中へ、純粋さが満たしていったのが分かった。

 心臓のが、誇張されているみたいに大きく聞こえる。

 私は、緊張しているようだ。いや、興奮に近いのかもしれない。

 今なら、この島や魔女や私や義務について、冷静に純粋に飲み込むことができる。

 少しずつ飲み込むたびに、心臓が大きく跳ね上がった。だけど、私の真理は変わらない。

 ――魔女へ、振り上げた拳で、顔を一発殴る。そして、悠々と母のネックレスを取り戻す。

 私は、目を開けた。すると、遠くに舞台のスポットライトのようにして、月明かりを浴びる箇所があった。

 時速40キロ弱が減速していく。

 それだけで、月明かりを浴びるそこが<魔女の黒ポスト>である、と理解した。

 カブが停止しても、やっぱりこの島は寒い。


   *


 この島は、20分程度走るだけで、絵本のページを捲るみたいにして空気が変わる。

 少し強い風が吹いた。冬なのに青々とした葉をつけ、月明かりを反射させる紅い果実を付けた、一本の樹木が騒めき立つ。

 その時、林檎の香りだろうか。風に乗せられた甘い匂いが、鼻を掠めた。この匂いはどこかで嗅いだことのある匂いに似ている。

 私が、その答えを出そうとするよりも先に、暗闇の中から人影が現れて、こう言った。

「魔女様は、ここに来ないよ」

 彼の姿は、ポストより後ろの暗闇の中の一層黒い影として揺らいでいる。

 近づいてくる確かな足音を鳴らしながら、言葉を続けた。

「君は、見た目より随分と意地悪な子だね」

 性別の判断が付かない声変わり前の声は、冬の喧騒の中を真っすぐに、私の元へ届いてくる。だけど、その真っすぐさが、理由もなく恐ろしく感じた。

 そして、暗闇の影が月明かりに照らされる。

「魔女様は、傷ついている。 君に会えないくらいにね」

 魔女の使いと名乗ったネズミの少年だ。少年の顔は、眉にきゅっと力を込めて、表情を歪ませている。それが、怒っているようにも悲しんでいるようにも思えた。

 そのまま、ポストの横で足を止め、私の方を見る。

「魔女が、傷つく理由が分からないよ」

 彼女が傷ついてしまう理由が、分からない。何より、この島で魔女は、傷つくことなんてないはずだ。

「分からないだろうね。 魔女様は、それを隠しているんだから」

「そんなの不公平だよ。 この島は、魔女のせいで、沢山傷ついているけど逃げることなんてしない。 私だって、逃げない」

 少年は、真っすぐな瞳を揺るがすことなく、私の言葉を聞いていた。その後で、一度、ゆっくり瞬きをしてから、口を開く。

「魔女様は、他人を傷つけられるほど野蛮な方ではない。 君を思って、この島に招待したんだ」

「なんのために?」

「君のため……いや、君の死んでしまった母親の頼みさ」

 冬の冷たい風が、強く吹いて、私の髪を巻き上げ、乱雑に乱していく。

 その風が、この島を、全て連れ去ってしまったみたいに音が消えた。

 怒っているようにも見えたネズミの歪んだ表情が、いまでは、私を憐れんでいるように思える。

 なんなんだよ。ふざけないでよ。

 口が金魚のようにパクパクと動くだけで、声になっていなかった。

「魔女様は、いま、とても傷ついている。 君のせいでだ。 だから、会えない」

 少年は、脈絡もなく独り言のようにそれだけ告げると、暗闇の方へと歩き出し、すぐに姿が見えなくなってしまった。

 ここに来るまでは、魔女を殴ってやるくらいの勇ましさがあったのに、今では声も出せないくらいに怯えている。いや、この感情を、怯え、と表現するのは見当違いなのかもしれないが、いまはそれしか思いつかない。

 グルグルと母と魔女と少年の言葉が行き交って、吐き気がする。

 私は、無意識にフローグの方を見た。

 きっと、助けを求めたのだと思う。

 その後は、ぎゅっと抱きしめられたカエルの暖かさを感じただけで、気づいたら水辺の家のソファーで眠っていた。

 ――母は、魔女を知っている。 

 ――魔女は、母を知っている。

 ただ、それだけが深く眠っていても頭の中を浮遊していた。


   *


 昨晩の印象的だった暗闇は、ずっと昔のことのように感じる。ほんの数時間前まで、私の目に映るすべてを黒く映していたのに、いまでは陽の白い明かりが満たしていた。

 水辺には、私しかいない。後ろを振り向けば、開けた窓を行き来するフローグがいるけれど、やっぱりこの水辺は、どこか隔絶されていて心地よい静寂で満ちている。

 風に撫でられ静かに波打つ湖面の遠くで、小さな波紋ができた。魚でも跳ねたのだろう。でも、じんわりと広がっていく波紋も、湖の淵へと届き消えてしまった。

 その後も、長い時間、湖を見ていたけれども、心地よい静寂に苦しくなってため息をついた。それから、隣に置いて盲目に扱っていた一冊の本を見る。

 古く分厚い紫色の本。表紙に黒いとんがり棒が書かれ、赤いリボンが結んである。

 魔女の本だ。

 表紙に指を這わせる。枯れたようにザラザラとした感触が、指先から伝わってくる。なぜだろう、とても悲しくなる感覚だ。

 窓も家具も何もない部屋で、たった一人、置いてけぼりにされてしまったような寂しさや切なさに似ている。

 触れていた指を離しても、残響みたいにして悲しい感情は、私の胸を締め付けていた。

 体を後ろへと倒し、空が視界を埋め尽くす。

 水彩絵の具を溶かしたような青空に浮かぶ雲はとても澄んでいて、一部を切り取り、夏とタイトルをつけて額縁に飾りたいくらいだ。

 だけど、やっぱり風が吹くと肌寒くて、背中で感じる地面はひんやりと冷たい。

 一度、目を閉じて魔女について考える。もっと、問い詰めれば、昨晩の魔女のことだ。

 魔女は、私のせいで傷ついている、と魔女の使いが言っていた。 

 この島で、魔女は権力者であり、支配者だ。嫌なモノは、嫌だときっぱり切り捨てることができるし、従わない者を消してしまうことだってできる。

 なのに、なぜ、魔女は傷ついているのだろう。

 閉じた瞼越しに、降り注ぐ太陽の光が眩しくて、手探りに魔女の本を取って顔に乗せた。褪せた紙の匂いが鼻孔を擽る。

 その時、目元に熱が込み上げてきた。無意識のうちに歯を食いしばり、鼻を啜っていた。

 驚いて、体を起こす。音を立てて落ちた魔女の本に目もくれないで、変な感覚を伝う目元に手をやった。

 私は、泣いていた。

 気づいてしまうと、ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。

 生理現象による涙とは、全く違う。

 目的も理由もないまま、ただひたすらに悲しくて、切なくて、胸を締め付ける何かを吐き出したくて、嗚咽交じりに泣いていた。

 泣き止まなくちゃ。そう思って、強引に目元を拭っても涙は消えない。

 私は、独り残された子供のように泣いている。

 すると、規則的な足音が優しく笑って、白いハンカチを横から渡された。

「美人に涙は、似合わない」

 差し出された優しさが、誰でのものであるかなんて、隣に並ぶ横顔を見なくてもわかった。

 私は白いハンカチで、熱を帯びる両目を強く抑えた。しばらくすると、海辺の波が引いていくように、胸を締め付ける涙は消えてくれた。

 力を込めて押さえていた手を退けると、視界がぼんやりと歪んでいる。だけど、いまは、都合がよかった。

「ハンカチ……洗って返します」

 シャムロットに差し出されたハンカチを広げると真っ白ではなかった。白地の端に、小さな四つ葉のクローバーが刺繍されている。

 なんだか、彼らしくない持ち物だ。

「いいや、大丈夫だ。 そのハンカチは、君が持っているべきだからね」

 やっぱり、これは彼の持ち物ではない。

 私は、何も答えられなかった。だって、シャムロットの言葉の裏には、必ず魔女が潜んでいる。魔女の使いのような従順さとは違う。

 あくまで、私の感覚でしかないけれど、シャムロットは魔女に敬意を抱いている。

 彼の抱く経緯は、私と比べると対立してしまう。 

 大切なシャム猫と対立することが、私の心を締め付けて、口から吐き出すべき言葉を消してしまうのだ。

 それを知っていてなのか、シャムロットが「対立は、何も悪くない」と切り出した。

「何かと対立することは、自分を成長させる。 たとえ、それが誰かの好意と対立しようとね」

「シャムロットさん、魔女は何なんですか」

 シャムロットは、思考するようにじっと黙り込む。それから、口を開いた。

「魔女は、傷ついているんだ。 きっと、今までで一番傷ついている」

「……私のせいなんですか?」

「それは違う。 魔女は、嫌われることを自ら望んだんだ」

 私の視線は、自然とシャムロットの方へ向いていた。

 シャムロットは、私の視線に気づいて優しく微笑み、話を続けた。

「彼女は、嫌われて、傷をつけられて、その全てを受け入れると誓って……この島を作った。 言い換えれば、魔女の選んだ、対立の形さ。 独りよがりな自分を主張して、否定されることを望んだのさ」

 私は、驚いた。

 この話は、とても難しい。だって、魔女へ向けた敬意の話なのだから――今まで、答えなかった魔女の優しさに関する話なのだ。

「それを私に教えていいんですか? 私が、魔女の優しさについて聞いても答えてくれなかったのに」

「魔女が自分へ架した義務を放棄するなら、この島の獣も魔女へ反発する権利がある」

「その義務って、嫌われること?」

「そう。 彼女は、自分に対立する勇気を照らしているんだ。 舞台のスポットライトのように劇的に、だけど口下手な告白みたいに回りくどくね。 それだけ、嫌われて、罵られて、刃物を向けられても抵抗してはいけない。 勇気の邪魔をしてはいけないんだ」

 紳士なシャム猫が、一瞬だけ少年のように無邪気に笑って見せた。一人だけの秘密基地の場所を明かす少年のように無垢だった。

 その時、穏やかな湖面を撫でながら強い風が吹き、私の体を押す。

 私の中で、魔女に対する善悪は決められないでいる。

 魔女の嫌われる定義とか義務を聞いてもなお、彼女が正義だとは言えない。もちろん、悪だとも。 

 この島を作るやり方がへたくそだ。だけど、間違ってはいない。

 結局、魔女の善悪は決められないけれど、全ての行動にがともなっているのは確かだ。

「魔女は、とても優しいんですか?」

「あぁ、とても。 だけど、彼女はそれを隠している。 知られてはいけない秘密なんだ」

「秘密……」

 魔女の秘密。私には、それが分からない。だから、分かったふりをするみたいに反復することしかできない。

 じっと考える――魔女の優しさについてだ。

 すると、並んでいたシャム猫が、すっと立ち上がる。

「君は、魔女と会って話さなくてはいけない」

 立ち上がったシャム猫の姿は、澄んだ青空が背景のようになり、舞台のワンシーンのようだ。

 彼の口から続けられた、言葉の一つ一つが劇的に思える。

「でも、心配することはない。 今日は寒いですねって、簡単な始まりでいい。 彼女は優しいからね、ゆっくりかもしれないけれど、君に優しさを語ってくれるよ」

 そのまま、シャムロットは背中を向けて去っていった。その途中、わざと風に乗せたような声量で「魔女の本を持って、今夜、独りきりポストで」と告げた。


 私は、魔女のことが分からない。ただ一つ、分かったふりをするのなら――1番優しくあろうとして、彼女は、いま傷ついている。

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