第15話

 フローグの家 夕方


 いつの間にか眠ってしまったようだ。

 ソファーに深く埋もれていた体を起こして、ぼんやりとしている頭を横に振った。

 少しだけ目が覚めた頭が、錆びたトタンの向こう側で、沈みゆく夕日に鮮やかに照らされた室内を認識する。

 フローグは、まだ帰ってきてないようだ。

 一人ぼっちの夕暮れ時は、私にとって珍しい物ではない。この島に連れてこられる前、私は、いつも一人だった。

 もちろん、ケーちゃんや心を許せる存在は、身近にいた。

 でも、それだけでは、心の寂しさという物を埋めることはできない。とても、キザな言い回しなのかもしれないけど、本当にそうなのだ。

 学校が終わって、疲れた人々が息を顰めるようにぐったりと座る電車に乗って家に帰る。温かな夕食の匂い、父と新しい母の楽しそうな声が聞こえてくるリビングを静かに通り過ぎて、夕日の明かりだけが光源になっている自室に入る。

 とても惨めな気持ちになった。

 片付けの行き届いていない自室や光に反射して目に見える埃――そんなものが、私の心を乱暴にかき乱して、泣いてしまいそうなほど惨めにする。

 私は、ソファーから立ち上がり、まだ片づけていない昼食の食器を流しに運んだ。

 蛇口から水の流れる音、食器がぶつかり合う音、微かな家鳴り……いつもなら気にならない音の一つ一つが強調されて、空気を揺らす。

 久々な感じだ。

 私は、この島で<寂しさ>という物を忘れていたようだ……違う。

 忘れることが出来たのだ。

 ガラス玉のネックレスが担っていた役割を、フローグ達が代わりになっていたのだ。

 都合が良すぎるかもしれない。勝手な自己解釈かも知れない。それとも、魔女に会うためのこじ付けかもしれない。

 それでも、私は、いま、はっきりとガラス玉のネックレスの価値を見つけ出した。

 言い換えれば、もう一人の自分の価値を証明できる。

 タイミングよく、家の扉が開き、フローグが帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

 私には、あのネックレスが必要だ。


   *


 冬の日が暮れる時間はあっという間だ。まるで、空の明かりと交換するように夜の幻想街に灯りが灯る。

 暗闇が覆いかぶさった中で、自分を主張するように淡く光る幻想街は、少しだけ美しく見える。有名な観光名所の夜景のように。

 私は、それを背中で感じながら郵便局を目指していた。

「結構、歩くの?」

「まぁ、そこそこな」

「ふーん」

 なんだか、フローグの気持ちが落ち込んでいるように感じた。横目で見上げるカエルの表情に影がかかっているように思える。

 私よりも遥かに高いフローグを見上げているのだから、表情に影がかかるのが当たり前だとしても、それでも、彼の顔にかかる黒を濃く感じる。

 考えているようにも思えるし、否定的とも思える――それとも、二つを兼ね備えた上で、落ち込んでいるのかもしれない。

「ねぇ、フロー」

 私の声に、彼は「どうした?」と木枯らしのように小さく答える。

「どうかしたの?」

彼は、一瞬だけ。本当に一瞬だけ、表情を強く歪めてから、いつも通りの笑顔を浮かべた。

「今日は、昼寝してないから眠いんだよ。 朝っぱらからシャトに呼び出されちまうしよ」

「そう……ならいいんだけど」

 一瞬だけ強く歪んだ表情が嘘みたいに、フローグの顔には私の知っている笑顔がある。パーカーの紐がケロケロという笑い声に合わせて揺れるあの笑顔だ。だけど、あの歪んだ表情を見間違いとは思えないし、そんなあっさりと忘れ去りたくなかった。

 フローグの顔を見上げる。彼は「何かついてるか?」とお道化たように吸盤の付いた手で自分の顔をペタペタと触る。

「何もついてないよ」

 何故だろう。今だけ、フローグのことが分からなくなってしまった。

 見上げていた視線を正面に戻すと、錆びたトタンの向こう側に陽が沈み、真っ暗になった夜道の中で淡い灯りが見えてきた。その灯りへと近づくと、小さくて可愛らしい郵便局だった。扉の上には、郵便局を示すあのマークが付いていて、玄関前には黒白のカブが2台止まっている。

 ガラス窓のついた扉には、向こう側に「営業中」と書かれた傾いたプレートが掛かっていて、窓の向こう側で小さな影が2つ忙しなく動いている。

「こんばんは」

 控えめに扉を開けると、忙しなく動いていた2つの小さな姿がぴたりと止まり、私へ視線が集中する。2匹の濃いブラウンと薄いブラウンのタヌキの視線。

「こんばんは! 郵便ですか?」

 息を合わせたようなぴったりな掛け声だ。でも、すぐに2匹は、顔を見合わせて不機嫌そうに眉を顰め合う。

「おい! お客さんが来たときは、息を合わせろっていっただろ!」

 濃いブラウンのタヌキが言った。

「僕は合わせたよ! お前が、乱したんだろ! それに、僕の方が声が出ていたね!」

 薄いブラウンのタヌキが、ドヤ顔で胸を張り、誇らしげに言い返す。

「大声なんて、阿保でもできる! 俺の方が、活舌が良かった!」

 濃いブラウンのタヌキが片方の口角を上げて、腰に手を当て鼻を鳴らす。

「なにを!」

「やるのか!」

 今にも火花が、バチバチと音を立てて現れそうなほど睨み合い、そのまま2匹分の視線が私に向けられる。

「ねぇ! どっちが、悪いと思う!」

 控えめに言っても「息がぴったり」と答えようのない2匹に、私はただ苦笑いを浮かべるしかない。喧嘩をする二人の幼い兄弟の面倒を見ているようだ。

「二人ともピッタリ――」

 当たりさわりのない言葉を選びかけた時、独りぼっちポストでのシャムロットを思い出した。

 大丈夫、偉いね、すごいよ――なんて、在り来たりな誉め言葉は、誰も傷つかず健全だ。人の健康を守るロボットがいるのだとしたら、こんな健全で安全で、誰も傷つかない平和な言葉を選ぶだろう。

 だけど、それは健全であっても投げやりだ。誰も傷つかない代わりに、誰も幸せにはならない。

 もしも、人の健康を守るロボットがいるなら、文字通り「健康を守る」だけで、治そうとはしていない。傷が化膿しないように、無菌室に連れていくだけだ。消毒も、絆創膏も、安心するキスすらしてくれない。

 私は、表情を歪める2匹のタヌキの頭に手を添えてあげる。

「二人だからピッタリなんだよ。 きっと、君と君が声を合わせなきゃ、あそこまで綺麗に声は揃わないよ。 私、ここに来てビックリしちゃった!」

 もう、二匹の表情は歪んでいない。その代わり、好奇心を含んだ疑問符が浮かんでいる。

「どうして?」

 薄いブラウンのタヌキが、一歩前に出て言った。

 私は、できるだけ優しく、焦らすように微笑んで。

「だって、2匹の立派で、かっこいい郵便局員さんが出迎えてくれたんだもん」

 と答えた。

 2匹は、顔を見合わせる。次は、いがみ合いではなくて、照れるように頬を染めて、互いを褒め合うように。

「この郵便局は、この島で唯一の郵便局! 俺の名前は<ココン>、こいつの名前が<ロロン>」

「よろしくね!」

 やっぱり、2匹は役割分担をして、きちんと練習をしたみたいに細かい所作まで息ぴったりだ。

「それで、今日は、郵便ですか?」

 ロロンが、少年らしい無垢な笑みを浮かべる。ただでさえモフモフな頬の薄いブラウンの毛が、口角を上げるとお餅みたいに、よりモフモフになる。

「ううん、今日は、相談があって来たの。 私のこと覚えてる?」

 ロロンの表情から笑みが消え、目の焦点が遠くを見つめる。

 多分、私のことを覚えていないのだろう。だけど、それを必死に思い出そうとする姿は、動きの鈍いブリキの人形のようで愛らしい。

 壁掛け時計の秒針が、チクタクチクタク、たっぷりと動いてから「あっ!」と声を上げる。

「独りぼっちポストであった魔女の子さん!」

「そうだよ、正解。 とても忙しそうだけど、私たちとお話ってできるかな?」

「大丈夫だよ! ねぇ、ココン!」

「大丈夫だよ!」

 そういうと、ロロンは私の手を引いて、ココンはフローグの手を引いて郵便局の奥の2階へと案内した。

 螺旋状らせんじょうの階段を上り切ると、懐かしい香りを含んだ畳の部屋だった。真ん中にミカンが積まれたコタツがあり、水蒸気を吐くやかんが乗ったストーブが、室内を灯油臭い温かさが包んでいた。

 私とフローグは、隣り合うように案内された座布団へと腰を下ろして、郵便局と変わらず、忙しそうに部屋の中を動き回る2匹を目で追っていた。

「すごい元気だな」

 いつも調子のいいフローグが、口元を引きつらせて2匹のタヌキの元気さに気圧されている。なんだか、珍しい。

 そして、奥の部屋から何度か揉め合う声が聞こえてやっと。

「粗茶ですが!」

 と、2匹の忙しなさには似合わない、ゆらりと湯気立つ緑茶が用意された。

 さっきよりも、明らかに乱れた濃淡のブラウンも、ちょこんと正面に座る。2匹とも肩で息をしているのは、気のせいとゆうことにしておこう。

「それで、相談って何ですか?」

「僕たちにできる事なら、なんでもするよ!」

 私は、熱い緑茶を口に含み、少しだけ思考する。

 深淵の闇市であからさまに向けられた、フクロウの鋭い爪を思い出す。あの時、この島の獣たちが等身大であることを、恐怖という形で実感した。

 アウルヴィのように、絵にかいたような悪役なら飲み込みやすい。だが、目の前にいる愛らしいタヌキを、一時だとしても、悪役として飲み込むのは難しい。

 言い換えるのなら、彼らへを向けなくてはいけない――抱きしめたくなるような笑顔を向けるたびに覗く鋭い牙は、どうしようもなく等身大で、私たちを簡単に殺すことができる。

 ――この島で、魔女は嫌われている。

 魔女の子とカエルへ、覗く鋭い牙を向ける理由は十分にある。

 口の中で冷めてしまったお茶を飲み込んで、口を開く。

「私たちを魔女の所へ、連れて行ってほしいの」

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