第12話
次の日の夕暮れは、とてもあっさり訪れた。
荒れることのない海のように、穏やかな時間が流れる湖面のように――だけど、そのどちらも狂気的な恐怖を持ち合わせている。
荒れることのない海は、誰かの気まぐれのように嵐が訪れれば全てを飲み込む魔物に変わる。
穏やかな湖面は、湖底に潜む凶暴な化け物を連想させる。
だから、いつも以上に穏やかに沈む夕日は、明日の天気が雨であることを暗示するように見えた。
私は、フローグの家の玄関でローファーを履く。
歩き方に癖があるからか、硬い皮は全然足に馴染まない。きっと、卒業してもこのローファーが足に馴染むことはないのだ思う。
「どこか行くのか?」
ローファーのぎくしゃくした関係を思っていると、少しだけ怒りが込められた声に肩を叩かれる。
私は、その声にゆっくりと振り返った。
「フロー……」
柱に寄りかかり腕を組むカエルは、顔を歪めている。紐は揺れていないし、パーカーも被っていない。
「どこ行くんだ。 もう少しで、飯の時間だぞ? 今日は、トウカとシャトも来る」
フローグが、何を伝えたいのかはすぐに分かった。だけど、私は履いたローファーを脱ぐことはできないし、カエルの優しさを意地悪く盲目に扱わなくてはいけない。
「ごめんなさい。 でも、自分の力だけでやらなくちゃいけないの」
魔女から手紙の返事が来たことやその内容は、一切伝えなかった。
今日一日伝えるタイミングはいくらでもあった。水辺で、穏やかな湖面を眺め、魔女の恐怖から隠れているより、絶対的なヒーローの側にいたい。
だけど、私は、それをしなかった。
もしも、全てを伝えれば、キツネもカエルもシャム猫も、全員が助けてくれることは分かっていた――いや、分かっていたからこそ伝えなかったのだ。
私は、真っすぐフローグの瞳を見た。
「私は、フローやみんなのお陰で強くなれたの。 ううん、本当は弱いのかもしれないけど、やっと一人で歩けるくらいには強くなった。 だから、今は、何も言わないで欲しい」
なんだか、心臓が驚くくらい脈打っているけど冷静だった。
目を合わせている沈黙が、とても長く感じる。でも、それを破ったのはフローグだった。
彼は、笑みを含みながらため息をつく。
「わーったよ。 朝からこそこそしてるって思ってたけど……まぁ、お前の顔みたら安心だよ」
私は「え?」と疑問符を漏らす。
「最初に会った時みたいな、弱虫な顔じゃない」
そういうと、フローグはケロケロと笑った。それに釣られて、私も笑ってしまう。
うん。これでいいんだ。
ケーちゃんが過保護な優しさを振りまかないように――フローグも、最後まで行先を尋ねなかった優しさを向けてくれている。
あくまで、遠くから。だけども、すぐに手が届く範囲で。
それだけで、私は、いくらだって強くなれる。
「行ってきます」
「あぁ、気を付けろよ」
やっぱり、足に合わないローファーのせいで少しだけ足が痛む。でも、簡単に前に進めた。
痛みなんて小さな問題に過ぎない。
*
日が沈みきった森の中の独りきりポストは、どこまでも孤独に見える。
暗闇で寡黙に佇む赤いポストは、意地悪にスポットライトを当てられているじめられっ子のようだ。
でも、私は、いまそのいじめられっ子と二人きりで向き合っている。
なんとなく、彼(ポストだけど)は私の味方でいてくれるような気がした。
少しの間、冬の冷たい風が成す音だけを聞いて、視線を木製の看板へと向ける。
<不通電話の森>――魔女から指定された場所だ。当たり前のことだが、私はここを知らない。
でも、自然と怖くはなかった。
なんとなくだけど、私を取り巻く静寂や点在する灯、ずっと遠くに感じるのも全てが魔女の魔法のように感じるのだ。
おかしな話だ。魔女を恐れているのに魔法には安心してしまうというのは。説明するのは難しい。だから、シャムロットが「魔女は優しい」と言ったからってことにしよう。
また、しばらく歩き続ける。
すると、不規則に点滅する白い灯を見つけ、その下にある蔓に絡まれた電話ボックスと公衆電話を見つけた。
<不通電話の森>は、至る所に鳴らない電話が転がった寂しい森だ。
ここは、木々の間から射す月明かりでほのかに明るい。
沈黙する携帯電話やスマホ、固定電話が静かに眠る動物のようだ。
私は、足元に転がっていた携帯電話を手に取ってみる。
塗装が剥げ、土埃で汚れたガラケーは冬の冷気で冷たくなっている。
でも、私の手の平から熱が伝わり、温度が同化し始めると重さというものが直に伝わってくる。
バッテリーや電子基板、本体などの説明がつく質量であるのは分かっている。だけど、ここは魔女によって作られた島――手の平の重みを携帯電話の思い出としてもいいだろう。
私は、ガラケーを元あった場所にそっと戻し、あたりを見渡す。
月は一層明るい月明かりを伸ばし、あたりの木々の影を重くし、明暗をはっきりとさせていた。
今は、何時頃なのだろう。
その時、甲高い音が静寂に包めれた森を雑に切り裂いた。
私は、この音を知っている。
一定のリズムで刻まれる音――鈴を無理に降ったような電話の呼び出し音――それが蔓にまみれた電話ボックスから聞こえてきた。
魔女からの電話だ。
私は足早に電話ボックスへと向かい、他の携帯電話とは違う、汚れのない緑の受話器を持ち上げた。
「もしもし」
電波が悪い時のようなプツプツとしたノイズが聞こえてくる。
もう一度「もしもし」と言った後で、消えてしまいそうなほど弱々しく、だけども透き通るほどに真っ直ぐな声が聞こえてきた。
「こんばんは」
魔女だ。
不通電話の森には、私と鳴らない電話しない。だけども、耳に強く押し当てた受話器の向こうからは、確かに魔女の気配があった。
魔女から「聞こえていますか?」と尋ねられ、慌てて答える。
「はい、聞こえてます。 あなたが、魔女ですね」
緊張で言葉が出しにくかった。それとも、魔女に怯えているのだろうか。
「そうです、私が魔女です。 とても寒い日に呼び出してしまってごめんなさい。 だけど、私はあなたと言葉を交わしてみたくて」
「私も、あなたと話してみたかった」
私と魔女では、話したい、の意味が全く違っていた。真意まではわからない。
だけど、私は確かに魔女へ敵意を向け、魔女は私に好奇心を向けている。
相対はしていないが、全く違っている。
私は、魔女に気づかれないように深く一呼吸置いて話を切り出す。
ネックレスを返してください、と。
魔女は、クスリと小さく笑った。
「もっと、ゆっくり話をしよう。 あなたのことが知りたいの」
アウルヴィと言葉を交わしたときのような、好機を狙っている気味悪さに似た感覚だ。だけど、魔女はアウルヴィよりも嫌らしく、余裕を兼ね備えている。
「そんなことのために私を呼び出したんですか? なら、手紙で済ませてください。 それに、ここは寒すぎる」
私のせめてもの威勢は、ゆっくりと羞恥心に変わっていく。
魔女の流れに乗せられないための威勢が「寒すぎる」は、どうにもかっこ悪い。
受話器の向こうから鼻で笑う声が聞こえ、はっきりと羞恥心に変わった。
「そう。 寒すぎるから、お話ができないの。 突然だけど、私は誰だと思う?」
「……魔女」
「正解、あなた天才ね。 じゃ、魔女とあなたの決定的な違いはなに?」
嫌味な奴だと思った。嫌味を言えたからと言って賢いわけではない。
このまま電話を切ってしまおうかと思ったけれど、私はまだガラス玉の付いたネックレスのことを聞けていない。
やっぱり、魔女はこの島を絶対的な力で支配している。そして、その力が質問の答えでもある。
「魔法が使えるか、使えないか」
「……正解」
たっぷりと時間を空けてから魔女は答えた。
会話の向こうからBGMのように絶え間なく聞こえるノイズも電話ボックスの向こうで騒めく木々の音も、全部無視してクリアにそう答えた。
「私には、魔法が使える。 だから、あなたのいる電話ボックスを温かくすることは簡単なことなの……ほら」
冷え切った指先や足先が、ジンジャーティーを飲んだ時のようにポカポカと温まってきても、驚きはしなかった。
キラキラとした演出やメルヘンチックな効果音のない無音の魔法だとしても……いや、だからこそ驚きはしなかった。
やはり、冷酷に魔女が支配者であることを示してくる。
「さて、これでゆっくり話ができるね。 そうでしょう?」
私は、無言の返事をする。
それを受け取った魔女は、咳払いの代わりみたいにクスリと笑う。
「フローグたちとは楽しくやっているの? 水辺のお家は気持ちのいい所でしょう」
このまま無言を続けても良かったのだけど、独り言のように質問を続ける魔女の声は、癇癪な子供の泣き声のように耳障りだった。
私が、口をつぐむだけその声は雑音となっていく。
「はい、とても楽しいです。 それに、トウカやシャムロットさんもとても優しいです」
「それはよかった。 この島は私の自慢の場所だから、楽しくないはずがない」
電話越しで魔女の顔が分かるはずもないけど、彼女が笑みを浮かべているのが想像できた。
「もういいですか? ネックレスを返してください」
「……それはお互い様じゃない? あなたも私から大切なモノを奪った」
魔女の声色が、少しだけ冷たく変わったような気がした。
「違う。 私は、ネックレスを取り返すためにあなたの本を奪ったの」
「随分と都合のいい解釈をするんだね」
「どうゆうこと?」
また魔女が、電話の向こう側で笑みを浮かべているのが分かった。だけど、さっきとは違い、何か重要な部分を隠すような不敵な笑みだ。
「もう、あなたと話すのは飽きた。 魔女の文通の話をしましょう」
「ちょっと、ま――」
私が言葉を言い切る前に、魔女は咳払いをして話を割り込ませる。
「お手紙ありがとう。 ここは、いるのにないもの島――必要な物が、手の平からすり抜けていく島。 だけど、私は、あなたにこの島でいるものを見つけ出す権利を与えます」
「いるものって?」
「あなたの見つけるべきものは<もう一人の自分>です」
魔女の文通に関する話は、うまく噛み合っているようで噛み合っていなかった。
最後の一人を見つけられないかくれんぼのようなもどかしさが、胸をざわつかせる。
「意味が分からない。 とにかく、私は、ネックレスを返して欲しいの。 今すぐに」
「あなたには、この島で<自分>を見つける権利がある。 私は、その邪魔をする権利はない。 そうゆうこと、それじゃ」
また会話が噛み合っていない。
でも、それを解決する間もなく、乱暴に電話は切られた。
ツーツーとノイズと同じように絶え間なく聞こえる音は、魔女がその場を去る足音のように聞こえた。それと一緒に、電話ボックスの中のポカポカとした温かさも去っていく。
耳に強く押し当てていた受話器を離すと、少しだけ耳が痛かった。
電話ボックスを出ると、やっぱり辺りは静まり返っていて、絶対に鳴らない電話達が転がっている。
私は、電話をするまで魔女の善悪をはっきりと決められずにいた。いまだってそうだ。
ネックレスを奪われた敵意はあるけども、シャムロットの言う「優しさ」も微かに分かる気でいたし、もしかしたら分かり合えるかも、とさえ思っていた。
だけど、やっぱり魔女は魔法を使う支配者だ。
それでいて、優しくもあるのかもしれない。
彼女は、確かに魔法が使える――音も憧れを抱くような演出もない無音の魔法――電話ボックスを体温を溜めた毛布のような温かさを与えてくれた。
しかし、彼女は<魔女の本>を奪った相手に、魔法で危害を加えようとはしない。
私は、魔女に敵意を向けている。でも、善悪を決めるのとは別な話だ。
いつの間にか、不通電話の森を抜けていて、独りぼっちポストの前に辿り着いていた。
月明かりも、さっきまでの明るさはなく辺りは深く暗い。
すると、遠くから淡い灯が揺れているのが分かった。
私は、足早に駆け寄る。
「おかえり」
「ただいま」
パーカーを被ったカエルは小さく微笑む。
まるで、強がりを演じた少女を勇気づけるようにして。
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