第10話

 ぼんやりとした朝だ。錆びているトタンのバケツに縁どられた空は、場違いの絵画のように見える。

 厳格な美術館に小学生の落書きはいらない。そんな物は、ふわふわと浮遊していて邪魔でしかない。

 だけど、私の視界を埋めている青い空は、そんな場違いの絵画でしかないのだ。

 ずっと首を上げていると頭が痛くなってきた。首を手で揉み解しながら、視線を水辺へと向ける。

 朝起きてから、どれくらいの時間をこの水辺で過ごしているのだろう。

 フローグの家が建つ水辺は、いつも凛とした静寂が充満している。だけど、そこに胃が痛くなるような緊張感はなく、どこか柔らかくて居心地がいい。 

 時折、風に撫でられてできる水の波紋は、反射する場違いの絵画をぼかしてくれて丁度良かった。

 もう少しだけ、ここにいよう。

 そう思って小さくため息をついたら、それを軽い足音が笑った。

「ため息は、幸せを逃がしてしまうのですよ?」

「別にいいですよ。 今のところ、幸せはいらないので」

 私は、声の方を向かずに答えた。

 聞いたことのない声だ。フローグのような調子のいい声でも、トウカのような女性らしい声でもない。

 とても深みがあり、頭の中に浮かんできたのは白髪とコーヒーが似合うカフェのマスターだ。

「贅沢な悩みだ。 お隣よろしいですかな?」

「どうぞ」

 隣に腰を下ろしたカフェのマスター風の声の主の容姿を目の当たりにする。

 シャム猫だ。スカイブルーの綺麗な瞳に、鼻周りと耳を覆うダークブラウンの毛と多くを占める気品に満ち溢れたクリーム色の毛は、カフェのマスターと言わずとも、それに似た風格を持っていた。

「シャム猫ですか」

「えぇ、シャム猫です。 タマ・シャムロットと申します」

 シャムロットは羽織っている白いスーツの襟を正しながら、手を私の前に出す。

 握り返そうか少し迷ったが、シャムロットの気品ある風格に飲まれて、手を握り返してしまった。

「ユキナです。 一応、魔女の子です」

 分かっているだろうけど、と心の中で付け足しながら、このシャム猫が次に言う言葉を想像していた。

 魔女に逆らったら殺されてしまうと恐れているなら、力が無くて魔女に近い存在に当たるのは当たり前のことだ。

 そして、自分の性格の悪さに、またため息をつきたくなった。事がうまく運ばないから開き直るのは最悪の行動だ。

 私が、魔女の子だからと言ってフローグは見捨てなかった。トウカに関しては、逆に歓迎をしてくれている。

 悪い物を直視して、良い物を盲目に扱うことに意味はない。

「すみません……なんか」

 謝っても意味はない。

 だけど、シャムロットは「いえいえ」と微笑みように答え、腰を上げた。

「そろそろ風が冷たくなってきます。 友人の家で、一緒にお茶でもどうです? 自慢のマーマレードもありますよ」

 また、シャム猫の右手が差し出されていた。その手を取ろうか少し悩む。

 でも、結局、水を撫でる冷たい風にくしゃみをしてしまい、その手を握った。

 シャム猫の脇には、マーマレードの小瓶が入ったカゴが抱えられていた。


   *


「邪魔するよ」

 <マーマレード>に<シャムロット>という名前から、なんとなく予想はしていたけど、彼の言った友人の家とゆうのはフローグの家だった。

「シャトじゃねぇか!――あれ、お前ら知り合いか?」

 ソファーにくつろいで雑誌を捲っていたフローグの声色が、あからさまに明るくなる。

 この島で初めてフローグと出会い、初めてあの絶品なマーマレードを知った日――フローグは自慢げに「シャトのお手製さ!」と鼻を鳴らし、その後に「俺の親友だ」と付け加えたのを覚えている。

「いや、美人が水際にいたものだから、声をかけただけさ」

 シャロットのわざとらしい言葉選びは、変に胸がドキリとしてしまう。

 フローグが言ったら鳥肌が立ってしまうセリフも、大人っぽいシャム猫が言ったら現実味がある。

 八頭身の整った顔を見上げていると、スカイブルーの瞳が柔らかく細められた。

 また、私はドキリとしてしまい無理やり話を逸らした。

「フローの友達が、こんなに大人っぽい人だなんて意外だね」

「そうでもない。 私とフローは、不釣り合いに見えて、悪戯みたいに釣り合ってるんだ。 クラッカーあるか? お茶にしよう」

 折角、話を逸らしたというのに答えたのはシャロットだった。

 どの仕草をとっても高貴な猫そのものだった。

 鈴の音は似合わない。だけど、野良猫という訳ではない。

 お城のような白い家の窓際にいる、首輪も付けない飼い猫。

 男の人、ましてパーカーを着た調子のいいカエルのペースしか知らない私は、紅茶とクラッカーが机に並べられていくのを見ているだけで、「座らないのかい?」というシャム猫の声で、やっとフローグの隣へ座った。

「紅茶は、私のブレンドだ。 お好みではちみつを入れるとおいしい」

 マーマレードとクリームチーズが乗ったクラッカーに甘くお花畑のような匂いがする紅茶は、私の心をふんわりと包み込んでいく。

 最初に、紅茶を少しだけ啜った。

 熱すぎない紅茶はすんなりと口の中へ入っていき、喉を通り抜ける時には口の中一杯に、花のような知らない味が広がった。多少の苦みはあるけども、クラッカーを口に入れればマーマレードの甘みでそんなもの忘れてしまう。

 そんな優しい味だ。

「おいしい」

 思わず呟いてしまう。

「気に入ってくれたみたいだね。 はちみつは?」

「いりません。 マーマレードの甘さが丁度良くて」

 シャムロットが、顎と口角を上げ、上機嫌に髭を動かす。

「マーマレードも、その日の気温や湿度で味が変わる。 私は、それにピッタリの紅茶をブレンドできた時が、一番の至福なのさ!」

 どこまでも気品に満ち溢れ上品に振る舞うシャム猫は、どこかの国の王子様。もとい、紳士的な大人の男性だ。

 私は、同じ高校に通う男子生徒のようなガキっぽさとは無縁のシャムロットに、理想のような憧れの感情を抱いてしまったようだ。

 ほら、口元に付いたマーマレードを拭う姿ですら紳士的だ。

「ところで、フロー。 お前が、魔女の子の面倒をみるなんて、どんな風の吹き回しだ?」

「しゃーなしだよ。 でも、今となっては悪くない」

「お前に魔女の子の義務が務まるのか?」

「アマガエルに不可能はないぞ?」

 二人はミステリアスにしばらくの間、目を合わせ妙な静寂に小さく笑い合う。

 そんな光景を見ていたら、ケーちゃんのことを少しだけ思い出してしまった。それから、新しい母との問題のことも。

 少しだけ、胸の奥が締め付けられるように悲しくなる。

 辛さとかとは違う。寂しさに近い感情だ。

 だから、シャロットに名前を呼ばれても反応が遅れてしまった。

「魔女のお嬢さん、君の<見つけるべきモノ>は何なんだい?」

 見つけるべきモノ――という問いに、一瞬思考してから答える。

「……わかりません」

 操られの図書館を脱出できた時までは、私の見つけるべきモノは<群青色のガラス玉が付いたネックレス>と言えた。だけど、今となっては、はっきりと答えることはできない。

 リュックの中には、ボロボロの魔女の本が入っている。でも、それだって、どうしようもないから持っているだけで、本当はもう必要ない。

「わからない……君はフローと出会ってどのくらいだ?」

「一週間経たないくらいです。 多分」

 その瞬間、絡まっていた糸が解けたみたいにシャロットは目を丸くして、そのままフローグを睨みつける。

 マーマレードだけを舐めているフローグは、シャム猫の睨みなんて気づいていない。

「フロー、お前、を忘れたのか!」

 マーマレードに夢中だったカエルが、やっとシャム猫の睨みに気づいて、停止する。さっきまでの親友同士の空気はすっかり消えて、今ではハンターと獲物だ。

 フローグは、マーマレードを付けた手を口に含み、しばしの停止。

「あ……やべ」

「お前ってやつは!」

 ケロケロとパーカーの紐を揺らすカエルと胸ぐらを掴んできつく叱るシャム猫の不思議な光景に、私は二人をキョロキョロと見ていることしかできない。

 でも、唯一理解できたのは、いまは新しい母との問題よりも魔女の問題の方が重要だということ。

 魔女とゆう非現実的で恐ろしい問題のはずなのに、私の心は少しだけ弾んでいた。


 声を荒げたシャムロットは、紅茶を啜りながら呆れたようにため息をつく。

 嫌味も含まれた視線とため息は、確かにフローグへと向いているが、調子のいいカエルはケロケロと笑っているだけだ。

「あの……魔女の文通って?」

 喋る獣たちに魔女の島、夜の幻想街、操られの図書館……絵本のような言葉には、もう驚かない。

 <魔女の文通>という初めて聞いた言葉にも、驚きとゆうより疑問の方が大きかった。

「魔女の子は、この島に迷い込んだんじゃない。 あくまで、魔女に招待されたんだ」

 マーマレードだけを舐め続けるフローグから瓶を取り上げて、シャロットが答える。そろそろ、大瓶を一つ食べきってしまいそう。

「それは、ラトって男の子に言われました」

 日の暮れた公園で出会ったネズミの少年だ。

「この島には、厳密に三つの義務がある。 一つは<魔女の使いの義務>、魔女の使いは、魔女の子をこの島まで案内しなくてはいけない。 二つ目が<魔女の子の義務>この島で魔女の子を最初に獣は、魔女の子をこの島から帰る手助けをしなくてはいけない」

「なんとなく、分かります。 私は、この島から脱出しなきゃいけないんですよね?」

「いや、違う」

 シャムロットは髭を撫でながら、続けた。

「魔女は、君をこの島に閉じ込めたわけじゃない。 招待したんだ。 それが、三つ目の義務<魔女の文通>だ」

 この島における<義務>という言葉には、少しだけ恐怖意識がある。

 フローグは、魔女の子の説明をしたときに「義務を守らない獣は、魔女に殺される」と言っていた。

「じゃ、フローグは殺されるの?」

 <魔女の文通>という義務を怠ったのだとしたら……

「馬鹿言うな。 オレは殺されないよ」

「どうして?」

 フローグは、私の心配をよそにケロケロと笑って、答えようとはしない。それに、どこから持ってきたのか、新しいマーマレードの瓶を開けて舐めていた。

「はぁ、あの馬鹿が。 魔女の文通の義務は、魔女の子にある。 つまり、ユキナ……君の義務だ」

 私は、息を飲んだ。そして、やっぱり<義務>と<殺す>がイコールで結ばれる。

「私……殺されるの」

 あまりの動揺に、空っぽのティーカップを手に取り口に付ける。カップは、驚くくらい冷えていた。

「いや、心配はいらない。 魔女は、魔女の子に危害は加えない。 自分で招いた客を殺すほど野蛮ではないからね」

 そう言いながら、私の空っぽのティーカップに紅茶を注ぐ。

「でも、魔女は嫌われ者だって」

 シャロットは、幼児をあやすように優しく笑う。

「嫌われ者と野蛮は別だ。 魔女は、もっと上品だよ」

 まるで、魔女を知っているような口ぶりだ。

 と、思っていたら私の心を読んだみたいに「あくまで、私の理想だけどね」と続けた。

「とにかく、<魔女の文通>とゆう義務の通り、君は魔女に手紙を書かなきゃいけない。 こんにちは魔女さん、から初めて、私の見つけるべきモノはなんですか、で締めくくればいい」

「どうして、私は、魔女に見つけるべきモノを聞かなきゃいけないの?」

 シャムロットは、ピエロや物語の語り手のような演出にとんだ笑みを浮かべ、こう答える。

「ここは<いるのにないもの島>だからさ」

 口元に持って行ったティーカップから優しい花の香りが、私の鼻を擽った。

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