第9話
姿を現した<魔女の本>は、思っていたよりもずっと古く色褪せていた。紙に描かれている禍々しさは、そのまま残っているけれど、表紙の所々は破れていて、ページも水にぬれたみたいにバサバサだ。
私は、小さな生き物に触れるように慎重に本を手に取る。
少しでも力を加えたらバラバラに朽ちてしまいそうな本――魔女の心臓と形容されているそれは、熱を帯びているようだ。指先から手の平に渡り、本と振れている部分から心臓が脈打つ感覚が伝わり、血液が循環する人間に近い温度を感じる。
でも、これは、あくまで錯覚の話だ。事実、手元には古本屋の一番奥の棚から引っ張り出したようなボロボロの本があるだけ。
「よし、任務完了だ」
フローグは、ケロっと笑いながら親指を立てる。
私も、笑顔で親指を立てて、慎重にリュックへ本を詰めた。
だが、その時、ビリビリと紙が破れるような音がした。
私の体に息を飲むような緊張が走る。
嫌な映像が頭の中で流れる――魔女の本が破れてしまった、なんて映像だ。
思わず閉じてしまった目を、恐る恐る開けてみる。だが、本は破れていなかった。
私は、安堵のため息をつき、入れかけていた本をそのままリュックへ押し込んだ。
すると、またビリビリと嫌に空気を揺らす音が鳴った。
しかし、今回は、その音は止まなかった。
ビリビリ、ビリビリ、と鳴り続けると音にフローグの声が重なる。
「おいおい、マジかよ!」
フローグの声が向けられていた先には、本棚から飛び出した本が、ミルフィーユのようにして重なるページを口のように開閉していた。
ビリビリ、と音が鳴るたびに開閉されたページが破れていき牙を形成する。
小さい時に呼んだ絵本の挿絵によく似ている。確か、その絵本のタイトルは……なんて危機的状況と分かっていても思ってしまう。
魔女の本をリュックへ仕舞おうとしてしゃがんだ視線は、そのまま魔法で描かれた情景に向けられ続けている。
紙のページが牙に変形し空中を飛び回る数千冊の本。
部屋全体に足音を重く響かせる本棚。
黒板を引っ掻いたような音で騒がしく揺れるシャンデリア。
魔女の本が保管されている図書館は、魔女の魔法によって操られ、禁忌に触れた者を殺す。
私の頭は、硬直する体と違って、冷静に状況を判断し思考する。
だが、その視線が強制的に持ち上がり、硬直した体が無理やり引っ張られる。
「走れ!」
私の手を引いたフローグは、階段を駆け下り、左右からドミノ倒しのようにして襲い掛かる操られたモノをギリギリで避けていく。
無理に駆けだした私の身体は、徐々に苦しいくらい息が上がり、ぎゅっと握っているリュックが手に食い込み痛みを感じる。
そして、やっとこの状況を体が飲み込んで、自らの意思で駆けた。
カエルの手をぎゅっと強く握り、「放すものか」と強く念じながら魔女の本が入ったリュックを抱える。
ただ真っすぐに図書館の出口を見つめ、駆けた。視界の端で、靡くようにパーカーの紐が揺れている。
圧し掛かるように襲い掛かってくる本棚の衝撃で、足が
思わず目を閉じる。
もう、私の横を流れるどうしようもない凶器を遮断したかった。
右手に感じるカエルの手と足で蹴飛ばす地面と本の重みだけで、逃げるしかなかった。
その時、真っ暗だった瞼の暗闇に閃光が走り、汗ばんだ体を冷たい空気が撫でる。
嵐の中の雷鳴のように鳴り響いていた轟音は、どんどん後ろへと流れていき、遠ざかる。
私の手を握っていたフローグの足がゆっくりになっていく。それにつられて、私の足もゆっくりになっていき、止まった。
呼吸をするのが苦しかった。息を吸い込もうとするたび、喉に蓋をしたみたいに空気が通らない。何とか呼吸できたとしても、うまくリズムが掴めず嗚咽してしまう。
まだ目を開けられないでいるからか、心臓が耳についているみたいに、脈動が聞こえる。速いスピードでドクドクと脈打つ心臓は悲鳴のように思え、体温を上げていく。
私は、その場に倒れ込んだ。そして、ずっと力いっぱい閉じていた瞼を持ち上げた。
汗ばんだ体を冷ややかに撫でる空気とは対照的に、視界が黒く霞んでいた。
だけど、それも徐々に慣れてきて、霞みが取れた視界には、太陽に邪魔されない水色が広がっていた。
私は、思わず笑ってしまう。
牙を剥き出しにする本や圧し掛かろうとする本棚、耳鳴りのように音を出すシャンデリアに襲われそうになった、ついさっきの瞬間に愛おしさすら感じてしまう。
小さい頃に読み聞かせをしてもらった絵本を思い出すみたいに。
「懐かしいね」
私は、そう呟いた。
「何言ってんだよ」
フローグは、呼吸を荒げながら馬鹿にしたように答える。
当然だ。自分でも、馬鹿みたいに感じる。
だけど、それも全部、魔女の魔法のせいにしてしまいたい。
私は、寝転がっていた体を無理やり起こして、握りっぱなしだったリュックを背負う。リュックが手から離れる時、左手に痛みが走った。
食い込んでいたリュックの紐が擦れて、血が出ている。
血の出た左手を握り、開いた。さっきよりも、傷口から血がにじみ出た。大きな傷ではないから、大騒ぎするほどの血の量でもない。
私は、後ろを振り返る。さっきまで、地震が起きたみたいに荒れていた図書館は、何事もなかったかのように森の静寂に溶け込んでいる。扉も、いつの間にか寡黙に閉じていた。
私は、悪戯の山を歩いているときにバケツの中の魔女の島を<野ざらしの箱庭>と形容した。その理由を、単なる景色の違和感などと結び付けただけだったが、この島は、そんなに簡単な場所ではない。
魔女の作った箱庭は、もっと厳密なルールで固められているのだと思う。
RPGのゲームで、魔王を倒すのに王様から支給される物がヒノキの棒だけみたいに、抗えないルールがある――この島にも、魔女自身にも。
でも、そのルールは想像もできない。
きっと、そのルールを見つけた時、私たちは魔女を恐れなくてすむ。
魔女につくられたバケツの中の島が、本当にドールハウスのような野ざらしの箱庭になることができる。
ただの希望的観測に過ぎないのか。
「ユキナ、急ぐぞ」
フローグが、顔を顰めながら空を見上げて言う。その声に、私の思考は止まった。
水色だった空が、微かに朱色を帯び始めている。
アウルヴィは、三日後、夜の幻想街に明かりが灯った時を時間切れとした。
「でも、明日まででしょ?」
「あぁ、だけど、それは悪戯の山を抜ければの話だ。 帰りは、山を迂回する」
「間に合うの?」
「どうだろうな……」
私は、また空を見上げた。水色の面積が小さくなり、朱色が多くを占めていた。
空は、絵本のようだとは言えない。どこまでも現実的で、排気ガスで汚れた空気が、透明人間みたいに偽って充満している。
やっぱり、ここは魔女の手によってつくられた野ざらしの箱庭なのか。
とにかく、今は、ネックレスのことを考えよう。魔女のことを考えるのはその後だ。
私とフローグは、<悪戯の山>と書かれた木製の看板を通り過ぎて、日暮れの道を歩き出した。
*
足が疲労でパンパンに腫れて、つねった痛みすら麻痺してしまうくらい歩いたときには、空気が夜でじっとりと染められていた。
こんなに疲れが体を蝕んでしまっている時こそ、前夜のような具沢山なスープやマーマレードの甘酸っぱさで口の中を満たしたい。だけど、それが用意できるほど、私たちに余裕はなかった。
空腹を紛らわす程度の湿気てしまったパンを食べ、残り少ないレモネードを飲み、疲労に体を委ねて眠ってしまった。
でも、すぐにフローグによってたたき起こされる。
体調不良に近い気怠い体に鞭を打って起床すると、あたりは、まだ微かに夜が支配していた。でも、空は、朝日の訪れを告げる澄んだ群青色だ。
まるで、追いかけるネックレスのように。
私は、浅い意識の中で薄暗い道を歩きながら、無意識に群青へと手を伸ばす。
朝日で霞んでいく何光年も先から送られてきた星の光。視界の中では、綺麗に手の平ですくえているが、手を開けば、霞んだ光が群青で輝いている。
腕が土で汚れていた。肩から被るストールも汚れている。
操られの図書館から逃げる途中で、体中が汚れてしまったようだ。でも、汚れたことに気づかないくらい抗ったとしても、夜空の群青と星の光が掴めないのと同じで、母からもらったネックレスを取り戻すことはできないのではないかと思ってしまう。
まだ寝ぼけている意識の先で「早く来いよ!」というフローグの声が響き、疲れの残る足で駆け寄った。残響みたいに、夜空と群青。それから、ネックレスのことが残っている。
それでも私は、先に進まなければいけない。
冬なのに青々と風に揺れている木々を抜けた時には、朱色の空が私たちを見下ろしていた。急げ急げ、と急かすように空から朱色が消えていき、黒色が迫ってくる。
だけど、なんとか間に合いそうだ。
深淵の闇市へと続く階段は視界の先で捉えているし、私とフローグの手には、途中の屋台で買ったフランクフルトが握られている。
「何とか間に合いそうだな」
フローグが、口に付いたケチャップを舌で舐めとる。
「そうだね」
口の中をフランクフルトでいっぱいにしながら答え、よく噛んで飲み込んでから、続けた。
「なんか、今思うとあっという間だったね」
「魔女の島に住んでるけど、まさか、図書館に襲われるとはな」
フローグは、大口でフランクフルトを食べ終えて大きくゲップをした。
私たちは、深淵の闇市へと続く階段へ足をかけ、進んでいく。
靴の裏から伝わる不衛生な感触には慣れないけど、それより背中のリュックから伝わる<魔女の本>の重さの方が上回っていた。
「ネックレス渡してくれるかな」
「あのクソ鳥も商人だ。 客との約束を無視したりしないだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
私の声は、少しずつ明るさを帯びていった。
群青色のガラス玉が付いたネックレスを取り戻すことで、バケツの中の魔女の島に閉じ込められているという現状が解決するとは思っていない。
だけど、何かが変わる糸口であるのは確かだ……きっと、たぶん……いや、絶対に。
私は、視線を真っすぐに向ける。
フクロウが営む怪しい骨董屋に、初めて訪れた時のような恐怖感はない。
なんてたって、私は、魔女の魔法を振り切ったんだ。脅すことしかできないフクロウなんて怖くない。
扉に手を掛けようとすると、タイミングを計ったみたいに羊の執事が「いらっしゃいませ」と扉を開き、出迎えた。
私とフローグは、扉をくぐる。
アウルヴィの元まで商品に囲まれた一本道は、悪戯の山を連想させる。だけど、私は、あそこを抜けてきた。
それに、今は、横に視線を向ければパーカーを着たカエルがいる。
「おかえりなさいませ」
モノクルの音を鳴らしてアウルヴィが歓迎した。
私たちとアウルヴィの間には、時計や宝石の飾られたガラスのショーケースがあり、その上に見覚えのある装飾の施された箱がある。
もう、日は暮れてしまったのだろうか。夜の幻想街に灯りは灯ったのだろうか。
大丈夫と言い切れない焦燥感が、嫌な汗となって額を伝う。
やっぱり、アウルヴィは、どこか掴みにくい。自分の庭に迷い込んだウサギを狩る好機を窺っているみたいに、いつでも、背後で不敵な笑みを浮かべている。
だから、今だって懐に翼を忍ばせ、空いている翼でくちばしを撫でている。
「あの……何か?」
アウルヴィは、ホウと笑うように小さく鳴いて懐に入れていた翼を取り出す。翼には、銅の懐中時計が握られていた。
「時間ピッタリですね。 丁度、今、灯りが灯りましたよ」
「そうですか」
私は、少しだけ強気に答えた。
ウサギだって、阿保みたいに鼻をひくひくとさせながら庭を飛び回っているわけではない。自慢の足で高く飛び、速く逃げることだってできるんだ。
背中のリュックに手を入れ、ここに来るまでずっと感じていた重さを素手で感じる。
ザラザラとした感触は高貴な物の象徴みたいだけど、指を滑らすとただボロボロなだけの本なのだ。
使い込まれた参考書や辞書とは違う。
本棚の一番奥で埃を被り、忘れられてしまった本と同じ。
私は、両手で持った<魔女の本>をアウルヴィの前に出す。
アウルヴィは、ホウと驚いたように鳴いて、モノクルの倍率を上げる。
「お手を触れても?」
そう言いながら伸びてくる翼が、本へ触れる前に、後ろへ引いた。
「ネックレスが先です」
モノクルの倍率を音を立てて元に戻し、翼を顔の前で組んだ。
「それなんですが、ここにはありません」
あまりにも単調に告げられた言葉は、一度、私の右耳から入り左耳へと抜けていってしまった。
「どうゆうことだよ!」
一歩前に出て強く叫んだフローグの声で、抜けていった言葉を拾い集めて飲み込んだ。
時間には間に合ったはずだ。アウルヴィだって、懐中時計を見て言っていた。
思考は思考のままで止まり、言葉にはならなかった。
空気を揺らしフクロウと対立しているのはカエルの声だ。
「時間には間に合っただろ」
「えぇ、確かに。 でも、私は最初に言ったはずです。 一番信じているモノは<お金>だと」
くちばしの両端が、いやらしく上がる。
「じゃ、誰かに売ったっていうのか?」
「はい。 ですが、事情の説明はしました」
「なのに、そいつはネックレスを持って行ったんだな」
アウルヴィは、お道化たピエロのようにわざとらしく両翼を横に振って否定した。
「持って行っただなんて、そんな。 お客様は、魔女の子と同様……あえて、フェアと言いましょうか。 フェアなお取引をしたんですよ」
最後をネットリと伸ばして、ユキナへ視線が向けられた。
「でも、私は敬意に値するほどの物を持ってきました」
「えぇ、もちろん。 でも、お客様は、35万マイルよりも魔女の本よりも、私を魅了するものを準備していらした。 何かわかりますか?」
私は、小さく首を横に振った。
アウルヴィと私の間に流れる空気の温度差は火と氷くらい違っていて、吐き気すら感じてくる。
「お客様は、135万アルマを現金で準備したんです。 そして、私の心を鷲掴み……いや、梟掴みする一言を言い放ちました」
つまらない冗談を聞いていられるほど、私の心に余裕はない。
今度は、本当に吐いてしまいそうだ。
羊のメェメェと耳障りな愛想笑いも、オーバーアクションをするたびに鳴る床と爪がぶつかり合う音も、全部が気持ち悪かった。
でも、空気はそれらの音で絶え間なく振動を続けるし、私の鼓膜も良好に空気の揺れを感じ取る。
「100万アルマは、私に対する敬意だと……素晴らしいッ!!」
私の頭の中には、ずっとずっとアウルヴィの言葉が、鮮明にリピートされていた。
フローグの家に辿り着き、魔女の本を両腕で抱きながらソファーに寝ころんでも、消えてはくれない。
今なら、魔女の魔法で永遠に眠ってしまいたかった。
魔女の本は、やっぱりただの本でしかないのだ。
<魔女の心臓>なんて形容は、結局、魔女に恐れた島の獣たちの気休めでしかないのだ。
だとしたら、私のこの卑屈な考えはすっぱい葡萄でしかない。
夕暮れ時の空から群青色は消えて、塗りつぶしたような重い黒が縁どられていた。
朝方の消えかけの空に浮かぶ星を掴めていたら、どれだけ幸せなのだろうかと思いながら、私の瞼は静かに閉じていった。
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