第8話

 悪戯の山を越えた時には、日はすっかり暮れていた。錆びたトタンに縁どられている空は、水彩絵の具を水に溶かしたような青から深い谷底のような黒に変わり、月が浮かんでいる。

 私は、肩からストールを被り、そんな空を眺めていた。

 月の淡い光に照らされた雲がゆっくりと黒の中を這う。星は見えない。月だって、重く動く雲の隙間から、かろうじで見えている程度……ほら、雲に飲み込まれた。

「ユキナ、できたぞ」

 空に向けていた視線を声の方へと向ける。パチパチと音を立てて燃える焚火の上で、小さな鍋がぐつぐつと音を立てている。

 私は、椅子代わりの丸太の上に腰かけて、フローグに手渡された器を両手で抱える。心がポカポカとする匂いに空腹感を刺激されるが、それを口元に運ぶほどの余裕がない。

「あり合わせの材料だけど、この辺りは良い物が結構あったぞ。 パン食べるか?」

 私は、首を横に振る。

「食わないと駄目だぞ。 明日も早いんだ。 <操られの図書館>に行くには、ここからもう少し歩かなきゃいけない」

 フローグは、ナイフで切ったバケットを無理に押し付けて、ケロケロと笑う。

 それでも、私は、スープとバケットを両手で無駄に持っているだけだ。

 火の粉を撒く焚火の炎をじっと見つめながら、自分と戦っていた。

「ねぇ、フローグ……」

「なんだ?」

 しばらくの沈黙が苦しかった。自分で言葉を切り出すのが恐ろしくて仕方がない。

 もしかしたら、フローグが最初に切り出してくれるかもしれない……なんて都合のいい考えが頭を過る。そして、頭の中で後輩が「お前は、弱虫だ」と重く呟く。

 赤々と燃えていた木が、音を立てて崩れ、その一片が黒い炭となり転がる。

 フローグは、何も切り出さずスープを啜っていた。

 私は、ようやく口を開く。

「私は、弱虫なんだよ。 誰かが側にいなくちゃ何もできない」

「そんなことはない」

「……本当は、一人で歩くことだって怖い。 誰かの手をぎゅっと握りながらじゃなきゃ怖い。 話すのだって、通訳を返して話したい。 言葉で傷つけてしまうのが怖いの」

 これは、私の根深い本質のほんの一部でしかない。

 手で持っているスープの温度が分からなくなってきた。

 でも、フローグは大きな声でケロケロと笑う。

「弱虫で何が悪い? 弱いことの何がいけないんだ? 俺たちだって魔女が怖くてたまらない」

「そんなの……全然、違うよ」

 フローグの言葉を乱暴に切り捨てる。

「違わないと思うぞ。 俺たちは、魔女に支配されている毎日を日常だと嘘を付いている。 だけと、ユキナはどうだ? この島で、動物たちに蔑まれても前を向いて、ここまで来てるじゃないか」

 焚火の明かりでできた影に、向けていた視線をフローグへ向けた。

「弱虫を恥じるな。 ただ背中を向けちゃいけない。 真っ向から真剣に向き合うんだ。 そうすれば、勇気に変わる」

 勇気、私は小さく声に出す。すると、不思議だが胸の中の冷たい氷が溶けていくように感じた。体を巡っていた冷たい血液が、熱を帯びる。停滞しきっていた思考が、ゆっくりと動き出していく。

 ぎゅーっと腹の音が鳴り、鼻腔を刺激し続けていたスープの匂いに貪りつきたくなった。だから、バケットに大口でかぶり付く。

「魔女が怖いなら、私がフローグを守ってあげる」

 フローグは、ケロっと鼻で笑う。

「あぁ、よろしく頼むよ」

 口へ含んだスープのうまみが、頬を緩ませていく。

 在り来たりな言葉だけど――ほっぺが落ちてしまいそうだ。


   *


 次の日の朝は、瞼越しに照らされる太陽の白い明かりと小鳥のさえずりで目を覚ました。

 学校に行く前のような瞼の重さはなく、すっと目を開ける。

「起きたか。 おはよう」

「おはよう」

 ストールを肩まで覆っていた体を起こし、寝ぼけた視界がクリアになっていくと温め直されている昨日の残りのスープや夜とは違う山の雰囲気と対面する。

 そして、何よりも目を疑ったのは、雲の多い空と木々の隙間から見える巨大な建物だった。遠目からでは全貌をはっきりと確認するとはできないけど、そこが<操られの図書館>であることは分かる。

「あれが、操られの図書館?」

 フローグに手渡されたスープを啜りながら言う。

「そうだ。 もう少しだけ歩くからしっかり食っとけよ」

 私は、昨夜の月明かりだけでは気づかなかった目的地の正体に、目を奪われていた。

 操られの図書館――魔女の所有物である数多の本が管理されている場所。

 私たちは、今からそこにいかなくてはいけない。

 スープとバケットで満たされた腹を摩りながら、微かに燃える焚火に土を被せて鎮火する。その時に転がった炭の破片が、昨日のことを思い出させる。

 でも、それと一緒にフローグの言葉も思い出す。

 ――弱虫を恥じるな。 そうすれば、勇気に変わる。

 私は弱虫なのだ。きっと、世界で一番の弱虫……だけど、ただ一つの誇りだけは忘れない。

 逃げない。絶対に。

 どれだけ怖くて泣いてしまっても、どれだけ無謀で投げ出したくなっても――私は、前を向いて抗ってみせる。

 勇気を持っていると胸を張って言えるように。

「さ、行くぞ」

「うん!」

 カエルの一歩は大きいけども、今の私なら簡単についていくことができた。

「あ、そうだ。 ユキナ、これ持っときな」

 フローグが、ポケットを漁り、手の平より少し大きいくらいの黒くて長い何かを渡す。

「何これ?」

 受け取った黒い何かの端と端を持って引っ張ると、それはケースに入ったナイフだった。鋭く光る刃は、バケットを切り分けていたナイフと全く違う。

 何かを傷つけるためだけのモノだった。

「こんなのじゃ心もとないが、持っていたら役に立つだろ」

 私は、何も答えることが出来ず、ぎこちない手つきでナイフをケースにしまいポケットの一番深い場所にしまった。

 私たちは、操られの図書館に向かいだす。


 操られの図書館に向かう道のりは、そう険しい物もなく魔女の弊害も物理的障害もなく30分程度で辿り着くことができた。

 だが、対峙する操られの図書館は、想像を優に超える大きさだった。首をずっと上に傾けても、蔓で覆われ黒く霞んだ建物は、空を見せない。

 体が倒れてしまいそうなくらい傾けて、やっと一番高い場所から照る太陽で影になった天辺を見ることができた。

「にしても、でかいな」 

 フローグが、額に手をかざし日を避けながら呟く。

「来たことあるの?」

「普段は悪戯の山で隠れてるけど、場所によっては天気がいいと見えるんだよ」

 私は、へぇーと相槌を打ちながら、再び体を傾け建物の天辺を見る。

 蔓の隙間から見える黒く霞んだ壁には装飾が施されており、それが天辺まで続いている。ずっと眺めていると装飾や蔓が動いているように錯覚する。

「さ、行こう」

 フローグの声を合図にして、私はポケットの中のナイフを手で確認した。温度を持たないそれは、ただ冷酷に息をひそめてポケットの奥にある。

 心臓が、高く脈打った。

 私は、それを忘れるようにポケットから手を抜いて巨大な二つ扉をノックする。

 しばらくの沈黙の後で、重い地響きと共に扉が開く。

 

 図書館の中に吹き込むようにして風が吹く。それが、私たちの背中を強く押して思わず目を閉じる。

「ここが、魔女の本棚か」

 フローグの呟きの後に、古い紙の匂いとインクの香りが漂ってきて、ゆっくりと目を開ける。

 そして、思わず感嘆の声を漏らしてしまった。

 ダークブラウンで統一された木製の壁と本棚にシャンデリアの明かりが反射して、図書館全体を淡いオレンジ色が支配していた。

 二階建ての巨大な室内は、色も分厚さも違う背表紙の多くが、均整を保ちつつ乱雑に壁一面へと並べられ、等間隔に椅子も並べられている。椅子の種類は様々だ。一人掛け用の椅子もあれば、二人掛け用のソファがある。人が座る程度のサイズがあれば、小人が座るような小さなサイズ、巨人が座るような巨大なサイズもある。

 まさに、禁書庫と言う言葉がぴったりな場所だ。

 私は、近くにあった本を適当に手に取りページを捲る。

 紙と指がこすれ合う音、鼻を擽るインクと図書館特有の匂いに魅了される。しかし、その匂いの中に微かだが、花のような香りを感じた。

 私は、後ろを振り返る。

 すると、私と同じように本棚にある本を捲るフローグと目が合った。

 あの花の匂いは、彼のモノではない。

 何だが私は、急に怖くなって本を乱暴に棚へ戻して「早く、探して帰ろう」とフローグへ言った。

「そうだな。 大丈夫か、顔色悪いぞ?」

「え、そうかな。 大丈夫だよ」

 大丈夫ではない。

 操られの図書館――別名を<魔女の本棚>。そこに漂う女性らしい花の匂いをと考えないわけがなかった。

 私は、嫌な思考を振り払うために無理やり言葉を挟む。

「こんなに広い場所で、たった一冊の本を探すの大変だよ」

 丁寧にリュックへしまっていた魔女の本が描かれた紙を取り出す。

 怪しげな紫色の分厚い本。表紙を飾る三角帽子は言わずもがな<魔女>を体現している。しかし、多数の本が並べられた棚に目を向けても、高頻度で紫色の背表紙は目に付くし、どれをとっても魔女の本に見え、全くの別物だ。

 私は、あからさまにため息をつく。

「よく考えてみろ。 アウルヴィが欲しがるほどの物だぞ? その辺にあるわけないだろ」

 頭上から聞こえる勿体ぶるような、ケロケロという笑い声にむかっ腹が立つ。

 私は、睨みつけることで話の先を促した。

「この島を支配する魔女のことが記された本。 それを手に入れれば、逆に魔女を支配することが出来るかもしれない本。 そんなものがあったら、ユキナならどうする?」

 急な質問に、むかっ腹が立っていたのも忘れ、自分が魔女だったらの想像をしてみる。

 自分の弱みが記された本をどうするのか――処分する。それが普通の考えだ。小学生の時に書いた日記、憧れの先輩に宛てたラブレター……そんなものは、全て処分だ。誰にも見つからないように、ひっそりと燃やしてしまう。

 でも、もし、それが出来なかったら。

「隠す。 厳重に」

「正解」

 そういうとフローグは、指先を図書館の二階へ向けた。

 ずらりと並ぶ巨大な本棚の一番奥。目を細めて注視すると、微かに見えてくる草花のような装飾がされた鉄製の箱。

「噂は本当だったんだ。 魔女の心臓が入った鉄の箱……それが、魔女の本とは」

「そんな噂が?」

「あぁ、この島のどこかに魔女の心臓が入った鉄製の箱がある、この島では有名な噂だ。 まさか、操られの図書館にあったとは」

「魔女の心臓……」

 フローグの言葉をゆっくり飲み込んでいく。

 きっと<魔女の本>は、ラブレターや日記なんかと比べ物にならないくらい弱い部分で、簡単に処分することができない物なのだ。

 まるで、私が追いかけているガラス玉のネックレスのように。

 二階へ向かう軋む階段の音が、嫌味みたいな魔女の笑い声に感じる。本棚の隙間から誰かに見られているように感じる。

 たまに鼻先を掠める花の匂いが、全ての恐怖心を煽る。

 それでも、私は<魔女の本>を手に入れなければいけない。


 鉄製の草花の装飾は、目を疑うほど美しかった。葉脈の一本から、花弁に渡るまで巧妙に再現されたそれは、一瞬を鉄で覆ったみたい。

 葉に止まる一匹の虫ですら、今にも飛び立ちそうだ。

 しかし、金庫ほどの大きさの箱には扉がなかった。いくつもの美しい草花の装飾が施してあっても、これを開ける場所はどこにも見当たらない。

 フローグが、吸盤の付いた指先で触れてみる。

「何も起こらないね」

「何も起こらないな」

 禁忌に触れようとする者への危険な魔法が発動することも、魔女が現れて殺されることもない。ただ、シャンデリアの光りを反射させながら滑らかに光る美しい箱があるだけだ。

「魔女は、何かルールがあるのかな?」

「魔女の子の義務のことか?」

 私は、首を横に振る。

「そうじゃなくて、この島を支配する魔女としての……自分の中のルール」

 フローグが、意味が分からなそうに首を傾げているが、私ですら説明できるほど頭の中でまとまってはいない。

 推測というよりかは、疑問と形容したほうがしっくりくる。

 ――どうして魔女は、この島を支配しているのに嫌われ者であり続けるのだろう。

 島の住人たちを支配しているのならば、自分を嫌っている者たちを殺してしまえばいい。自分を愛する者だけの世界なんて理想的だ。

 敵も反発もなく、ただ自由に暮らしていける。

 でも、魔女はその力を持っているのに使うことをしない。

 今だって、自分の弱い部分を明かされそうになっているのに守ろうとはしない。

 だから、魔女は魔法を使うルールを持って島を支配しているのではないかと思う。

 私は、なんだか気の毒に思えて、魔女を慰めるように金庫へ手を触れた。

 すると、歯車が回るような音を鳴らしながら、蕾が開花するように金庫の装飾が解けていった。

 そして、紫色の表紙に赤いリボンが付いた黒い三角帽が描かれた魔女の本が姿を現した。

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