第7話

 朝霧が立ち込め、その中に夜の幻想街の酒臭いにおいが、紛れている。

 朝焼けはバケツのずっと向こう側で登り始めていて、この島はまだ薄暗い。私は、冷気に肩を竦めながら両腕を摩る。

 すると、それを慰めるようにモコモコの両手が頬を挟んだ。

「気を付けていくんだよ」

 トウカの表情は、言葉がなくても私たちを心配してくれているのが伝わってくる。母性が伝わる過剰な優しさは、なんだか安心感があり、暖かいモコモコの両手に挟まれて寝てしまいたかった。

「寒いな。 ユキナ、ほら」

 フローグの声に振り向くと、それと同時にマントのようなストールが、頭上から降ってくる。

 思わず「わぁ!」と間抜けな声を出してしまった。

「それが、あるのとないのじゃ違うだろ。 忘れ物は無いか?」

 背中のリュックを前にもってきて、中身を一つずつ確認する。

 本当なら、トウカのお店をそのまま持っていきたい。その上で、何度も下見をして、出来るなら山の入り口でセーブもしたい。

 それくらい、悪戯の山は恐ろしい場所なのだ――一本道を抜けることすら厳しい場所。

 私は、リュックの奥に綺麗に畳んでおいた<魔女の本>が描かれた紙を、しっかりと目で確認して「大丈夫!」と答えた。

 薄暗い中をパーカーを被ったカエルが進んでいく。大きく飛び跳ねたわけじゃないが、カエルの一歩が大きく感じた。

 先を行く背中に追いつくために、焦って一歩を踏み出した。でも、一度止まって後ろを振り返る。

 魅惑的なキツネの心配そうな双眸が、しっかりと見える。

 私は、進みかけていた足で踵を返し、トウカへ抱き付いた。彼女は、驚くこともなく、ただぎゅっと抱き返してくれる。

「悪戯の山で、絶対に曲がっちゃいけないよ。 帰れなくなる」

「うん、心配しないで」

 近い距離でトウカの瞳を見つめる。きつく尖って見える目だが、その奥はとても美しく、優しさで染められている。

 私は、トウカの優しさと温かさを忘れないうちに、先で待っていてくれるフローグへ駆けた。

 嫌な物から逃げ続けていた私は、今から最も嫌な物へ向かっている。

 でも、なぜだかそれが誇らしかった。

 薄暗かったバケツの中へと、ゆっくり朝日が差し込み始める。


   * 


 魔女の魔法で作られたバケツの中の島は、やっぱりおとぎ話の挿絵を抜き取ったような場所だった。それを際立てているのは、木製の看板だ。

 とても古びているように見えて、どこか真新しい。手で触れてみるとドールハウスの巧妙な家具を触っているようだ。

 壊れてしまいそうで繊細。だけども、しっかりとした素材でできている。

 <悪戯の山>と書かれた木の看板にも、そんな力があった。きっと、それをこの島で言う魔法なのだろう。

 私は、上がった息を整える。だけど、中々、元に戻らない。

 原因は分かっている。緊張とか、不安とか、恐怖とか、焦り……そんな色々な物が私の中で渦巻いて、気持ちが焦ってしまっている。

 太陽に温められた冬の風が、静かに木々を揺らし、私の背中を押すように吹いた。

 後ろを振り返る。

 パーカーを被ったフローグが、手を額に被せながら空を見ていた。

「フローグ、ここだよね?」

 看板を足で小突いた。

「そうだ。 ここが、悪戯の山。 もう一度言うが、この山は一本道しかない。 曲がるなよ」

「曲がったらどうなるの?」

 フローグは、リュックから水筒を取り出し、カップ型の蓋に注いだ。私は、それを受け取って喉に流し込む。甘いレモネードの味が、口の中から体全身に溶けていき頬が緩む。

「曲がったら、帰れなくなる……多分な?」

「多分?」

 フローグは、レモネードを一気に飲み干して答える。

「悪戯の山を曲がっちゃいけねー山だってことは、みんな知っていることだが、たまに曲がっちまう奴がいる。 そいつらは、もうこの島にいない。 だから、帰ってこれなくなるって言ってるが、曲がった奴らから話を誰も聞いたことがないから、多分」

 レモネードの甘さに次いで、喉を嫌に刺激する酸味が襲ってきた。唾液が、迷惑なくらい分泌されて顔を顰めた。

「まぁ、考えていても仕方ない。 いくぞ」

 フローグは、立ち上がって先へ進んでいく。

 私は、遠ざかっていくカエルの背中に「待ってよ!」と声をかけたが、カエルは手を上げるだけで「早く来いよ」とケロケロ笑う。それが、なんだか癇に障り、駆け寄って肩を小突いた。

「痛てぇな。 カエルには、優しくしろよ」

「じゃ、私にも優しくしてよ」

「アマガエルは、雨にしか優しくできないんだよ」

「なにそれ~」

 私は意地悪く、ケロケロとフローグを真似て笑ってみた。

 馬鹿にするために真似したのに、なぜだか心が楽になったような気がした。いつの間にか、フローグの真似から私の笑い声になっている。

 悪戯の森のずっと先、空の青と森の緑が混ざる高い場所を見た。

「カエルの真似するなら、喉の奥から声を出せ」

「ケ、ケロ……できないよ――あれ?」

 真っすぐ向けていた視線を隣の違和感へと向ける。

 私の隣を歩いていたはずのフローグがいなかった。ケロケロと笑う声の残響ですら気配を消している。

 まるで、私とフローグの間を雑に切り捨てたようだ。

 ただ、切なさや寂しさだけは、しっかりと残っている。

「嫌われ者の魔女の悪戯……」

 私は、無意識にそんなことを呟いていることに気が付いて、首を振って訂正する。

 森の木々が、耳鳴りみたいに騒めきだす。それが、どこまでも恐ろしくて、逃げるように足を進める。

 続く道は一本道だ。曲がる余地などない。


 まだ終わりの見えない一本道を歩き続けている。

 私は、風が成す木々のざわめきを聞きながら、この島のことを考えていた。

 魔女の魔法によって作られた島は、やっぱり女児向けのドールハウスみたいなのだ。木製の看板へ触れた時のような不確かなものではなく、もっと正確ではっきりとした物がある。

 大きな不自然ではあるが<魔女>という言葉だけで、全てが片付く。

 それは――この島に四季は存在しない。

 いや、存在しないと言い切るのは説明不足だ。

 もっとこの島らしく表現するなら<野ざらしの箱庭>なのだ。木が植えられ、巧妙な作りのミニチュアの家が置かれ、蓋をしないで野に晒されている。

 だから、冬特有の冷たい風と澄んだ空気が充満しているのに、木々は青々としている。

 それからもう一つ――私は、天高くから聞こえる轟音に視線を上げた。

 青い空に真っ白な線を描くように突き進んでいく白い点――それが、空を飛ぶ飛行機であることは容易に分かった。

 この島は、魔女によってつくられた箱庭。野に晒されたままの箱庭なのだ。

 異世界に飛ばされたわけでも、パラレルワールドの一端へ迷い込んだわけでもない。現実世界に晒されている箱の中に招待されたのだ。

 私の思考は、そこで終わる。本当は、もっとこの島の謎を考えていたかった。

 だけど、悪戯の山は、そう簡単にはさせてくれないらしい。

 目の前には、依然として真っすぐな一本道が続いている。だけど、そこが、所々で分岐していて、分岐地点に黒い矢印が置かれている。

 私は、あからさまにため息をついて、その一つ一つを通り過ぎていく。

 フローグも、トウカも、きっとこの山の話だけしか聞いていないんだ。

 夜に口笛を吹くと蛇が出る。丑三つ時は、霊界と繋がる時間だ。ササクレができる人は親不孝者。

 これも全部、迷信だ。

 また一つの分岐点を通り過ぎる。矢印の色は赤だ。

「ユキナ」

 肩を叩く声に進みかけていた足を止める。

 分かっている。この場所に、彼女がいるわけがないということ、それから全て悪戯の山のせいだということ。

 分かっているけど、声のする分岐点――赤い矢印が示す先を見ないわけにはいかなかった。

「ケーちゃん……」

 女の子にしては短すぎる短髪に、猫のような愛らしいつり目。制服の袖を捲り、そこから覗く筋肉質な腕、それから優しい微笑み。

 私は、ケーちゃんのいる道の手前で、泣きじゃくって縋りたい気持ちをグッと抑えていた。

 だけど、深く根を張ってしまっている隠しきれない自分が、喘ぐようにして泣きわめく。

 心細い、怖い、一人じゃ無理だ、助けて欲しい、帰りたい……早くなる鼓動のように流れていく言葉をだんだん聴覚が認識し始まる。

 悪戯の山の張り詰めた不気味な空気が、乱暴に揺さぶられ、その振動が鼓膜へと伝わる。

「お前は、泣き虫だ。 一人じゃ何もできない」

 心を突き刺すような言葉は、背後から聞こえてきた。

 私は、振り返る。振り返った先の情景は、校舎内だった。ただ、地面だけは悪戯の山の一本道のままで、一人の少女が佇んでいる。

 この少女のことは知っている。ケーちゃんの部活の後輩だ。

「深淵の闇市で、お前は何を得た」

 少女の表情は、変わらない。嫌われることを知らない少女の声が、ただ冷酷に言葉を刻んでいく。

「……そんな、わかんないよ」

「ほら、見てみろ。 お前は、すぐに逃げる。 フローグがいなければ何もできない」

「そんなこと……」

 声は、だんだんと小さくなり言い切る前に消えてしまった。

 ――そんなことない。私は、自分の力でも生きていける。

「無理だ」

 無理だ。変わらない表情で、告げた少女の声と私の思いがタイミングよく重なる。

「そんなことないよ、ユキナは偉いよ」

 少女は、私の前から消えてしまい。また、行ってはいけない道の先でケーちゃんが過剰な優しさで慰める。

 このケーちゃんが、私の知っている彼女と違うことははっきりとしている。容姿はどこまでも忠実だ。だけど、彼女の優しさは過保護な物ではない。

 分かり切っているけど、やっぱり縋りたかった。

 もし、この箱庭から出れたとしても、私は泣き虫だし、一人じゃ何もできない。新しい母を受け入れる器すらも持ち合わせてなくて、ケーちゃんがいないと時間もうまく潰せない。

 なら、このまま悪戯の山で迷ってしまっていい。

 もしも、死んでしまったのならば――思いよりも先に、足が動く。

 もう周りの情景は、校舎の中なんかではない。騒めく木々に囲まれた悪戯の山だ。

 あと一歩で、行ってはいけない道……ケーちゃんのいる道へと足を踏み入れる。

 しかし、次の一歩は踏み出せず、前に進もうとした力以上に後ろへ引かれた。

「……馬鹿野郎何してんだよ」

 聞き覚えのある声だ。馬鹿にされたり、笑い合ったり、一緒にご飯を食べたり……聞いている時間は少ないけど、私の中で欠かせない声になった蛙の鳴き声は、体を縛り付けていた糸を簡単に切る。

 糸の切れたマリオネットは、そのまま糸を求めるみたいにして蛙に抱き着いた。

 馬鹿にされるたびに揺れていたパーカーの紐が、どこまでも安心する私の糸になる。

「ごめんね……ごめんね」

「大丈夫だ。 全部、悪戯だ気にするな」

 フローグの声は、どこか落ち込んでいる。なのに、私へ向けているのは純粋な優しさだけだ。

 それが、どこまでも嬉しくあると同時に、幻覚の後輩に言われた言葉の証明みたいで、溢れた涙が止まらなかった。

 私は、もう少しだけパーカーの紐に愛されていたかった。

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