第6話
私は、アウルヴィが告げた<35万アルマ>という額の価値が分からず眉を顰めた。それに、私たちの通貨である<円>で考えたとしたら高すぎる値段だ。
だったら、眉を顰めてアルマ通貨の価値が低くあることを願うしかない。
たとえ、フローグの表情が引きつっていたとしても。
「おいおい、ガラス細工にしては高すぎないか」
「とんでもない、この島でガラスを装飾品として加工できる獣がいますかな? それに、このガラス玉には、意図して気泡が含まれています。 それから、群青色の着色も施されている。 35万アルマは、これを作った者に対する敬意の値段かと」
フローグは、頭を掻きため息をつく。
それに反して、アウルヴィは顔の前で羽を組み、楽しそうに目を細める。
「フロー、そんなに高い物なの?」
「あぁ……悪いが、すぐに払える額じゃない」
珍しくフローグが、悲観的だった。いつもならば、パーカーの紐を揺らしてケロケロと笑っているはずの陽気なカエルなのに、今だけはどこまでも真剣に、無理だと告げる。
一瞬、私は落ち込み、それを表情に出してしまった。だけど、ハッとしてすぐに口角を上げる。
フローグは、蔑まれている魔女の子の義務を半ば強制的に背負わされているのに、いつも私の味方でいてくれたんだ。
これは<魔女の子の義務>なんていう、バケツの中だけの問題ではないのだ。
ここに迷い込んでしまった私の問題でもある。
私は、意を決してガラスのショーケースに手を付いた。アウルヴィの顔との距離が、ほとんどゼロになる。
「35万アルマは、製作者への敬意だって言いましたよね?」
「はい。 安いくらいだと思いますよ」
アウルヴィが、脅すように私との距離を詰める。モノクルの中でギョロギョロと動く眼が、気味悪かった。
私は、一度、フローグの眼を見た。だけど、フローグはその意味を読み取れないようで、首を傾げる。
「じゃ、そのネックレスと同じくらい……もしくは、それ以上の物と交換ってできませんか? 自分の作品が、高い価値の物と並べられるのって敬意じゃありません?」
私の声は、思ってた以上に大きかったようだ。少し黙れば、フクロウと羊の緊張感のある息遣いが聞こえてくるほどの店内に、私の声の残響だけが残る。
アウルヴィの眼が大きく見開かれ、その後で大声で笑った。
「面白いことを言いますね。 これは、一本取られましたよ」
アウルヴィが「おい」と一匹の羊へ合図を送る。
「私が最も信じるのは、お金だ。 アルマは、私を裏切らないし、物の価値を測るのに最も適切です。 でも、次に信じている物が自分でもある。 私は、どんな屁理屈であれ、自分の言葉の道理にかなっていれば信じましょう」
言葉の意味を整理するようにネットリと発せられる言葉に、生唾を飲む。
アウルヴィの言葉が終わると、タイミングを見計らったように、一枚の古びた紙を羊から手渡される。
「これは……本?」
紙に書かれていたのは、紫色の分厚そうな本だ。表紙には、赤いリボンが巻かれたつばの広い三角帽子が描かれている。
「その通り、でも、ただの本ではありませんよ。 これは<魔女の本>なのです」
「魔女の……本」
「はい。 この島や私たちの存在の証明が魔女であることはご存知でしょう? しかし、私たちは魔女を知りません。 魔女を知らないのに、魔女を恐れている。 無論、私だって」
最後の言葉は、フローグに向けられていた。フローグは、馬鹿にするようにして鼻を鳴らす。
「その本には、魔女についてが記されているんです。 魔女を知ることが出来れば、このバケツの島が、もっとより良いものになるんです」
「嘘を付くな」
フローグが噛みつく。だが、アウルヴィは、それを無視し、私の眼を見て話し続けた。
「<操られの図書館>にある、この魔女の本を持ってきてくださったら――ネックレスと交換いたしましょう」
対峙するフクロウの眼の奥に、誘惑に近い眩暈を感じた。トリックムービーを見せられている時のように、判断能力が一瞬鈍る。
私は、下唇を強く噛みしめて、意識をはっきりさせた。だけども、生暖かく生臭い臭いと一緒に吐き出される「さぁ」という催促の言葉に、再び眩暈を感じる。
「操られの図書館……魔女の本棚に向かわせるって正気か?」
頭上から聞こえてきた、フローグの険しい声に、グラグラの意識が鮮明になった。
「強制はしません。 ただの選択肢ですよ」
フローグへの言葉のように見えて、私への最終通達だ。
眩暈のような感覚は、もう訪れない。
フクロウとの一方的な心理戦はおしまいだ。それに、私は、心理戦ができるほど賢くはない。
だから、ただ純粋に、阿保みたいに突き進むだけだ――猪突猛進。なんとなく、私は、イノシシになったつもりで答える。
「行きます……魔女の本を持ってきます」
アウルヴィが「ホゥ」と意味ありげに目を細めながら鳴く。
私は、魔女の作ったバケツの島から出なくてはいけない。
これは、なんだか漠然とした目標だ――いや、目標と言うのは違う気がする。この島に<魔女の義務>というものが存在しているのだから、島を出るということはエンドロールなのだ……または、エンドロールよりも先の話。
出演者も、スタッフも、主題歌も、スポンサーも、監督も、黒地に白文字で羅列された縦スクロールが終わった、その後の話だ。
今の私は、母からの形ある思い出を取り戻さなくてはいけない――たとえ、それがエンドロールに結び付かなかったとしても。
――魔女の子の義務
胸の中で呟いて、私の考えと重ね合わせてみた。
自然なくらいピッタリだ。
思わずクスリと笑ってしまう。それに続いてケロケロと笑い声が聞こえてきた。
「どこまでも自分勝手な奴だ。 だけど、嫌いじゃない。 カエルが、魔女の子の子守をするんだ。 そのくらい刺激的じゃなきゃな」
「本当にいいの?」
「当たり前だろ。 カエルは、見た目以上に好奇心旺盛なんだ」
意味が分からず「馬鹿みたい」と答える。
「知ってるか? ウシガエルは、目の前にくる物なんでも食べちまうんだ……自分よりも大きいフクロウだとしても」
パーカーの隙間から見える緑色の皮膚が、ケロケロという笑いに合わせて大きく揺れる。
「では、三日間待ちましょう。 三日後の……そうですね、夜の幻想街に明かりが灯るまでとしましょうか」
「分かりました」
ただ強く、はっきりと答えた。
三日後に、どうなっているか想像もできない。操られの図書館が、どんな場所であるのかすら分からないが、私は私の選択に誇りがあった。
深淵の闇市の薄暗さも、階段の浮浪者の目つきも全く怖くなかった。
*
「あんた達、それ本当に言っているのかい?」
キツネの目を大きく見開き、フサフサの尻尾を膨らませてトウカが椅子から立ち上がる。
ミネストローネの入った鍋を混ぜながら、フローグが答えた。
「本当も何も、操られの図書館にいかなきゃ先に進まないだろ」
ミネストローネを味見して「うまい」と呟く。
トウカの焦ったような、心配するような反応とは正反対の近所に出かけるだけのようなフローグの反応には、なんだか私の感覚も狂ってしまう。
操られの図書館なんて場所は、本当に近所の図書館のような場所で、<魔女の本>なんて物も、ただの児童書に過ぎないのではないか……なんて思う。
でも、だとしたら、水辺にあるフローグの家で、いくつもの地図と古びて色褪せた書物をテーブルの上に並べたりはしない。それでも、鼻先を擽るミネストローネの香りは、私の中から緊張感を空腹感へ変換させる。
「ユキナは、大丈夫なのかい?」
トウカのフサフサの尻尾を目で追いかけていたせいで、一瞬、反応が遅れる。
「大丈夫です!……多分、きっと」
声は、どんどん小さくなる。
ミネストローネも、トウカの尻尾も、間の抜けたフローグの仕草も、結局は、私が現実から目を逸らすための気晴らしなのだ。
知らない物は怖いし、この島と住人たちを自由に操れる魔女が怖い。
トウカは、赤いアイラインを引いた目を心配そうに歪めながら、私とフローグを交互に見る。そして、意を決したように強くため息をついた。
「分かったよ。 アタイに止める権利はないからね。 でも、フローグ、あんたには義務があるんだ、しっかりするんだよ」
フローグは、バケットを切り分けながら「わかった、わかった」とケロケロ笑う。
トウカは、しばらくの間、フローグを厳しい目つきで見つめていたが、諦めたように息を吐いて、モコモコの両手で、私の頬を挟む。
「いいかい、ユキナ。 今から、この島のこと、それから操られの図書館のことをアンタに、教えられる限りのことを言う。 しっかり、覚えるんだよ」
ぎゅっと挟まれ、喋りにくい口で「わかりました」と答える。
そして、モコモコの手は、テーブルに広げられた地図を指した。
バケツの中の島――地名通り、正方形の地図に描かれているのは、大きな円だ。
寒色を基調としてその場所の特徴、その上には暖色で、その地名が書かれていた。
「ここが、夜の幻想街だ。 そして、ここを通って……この辺りがフローグの家」
トウカは、フローグの家辺りを赤色で丸く囲む。
夜の幻想街も、赤丸も、ほぼ南端に位置している。
私が、地図を見ていると、深淵の闇市の文字があった。そこだけは、縦に長く黒で塗りつぶされ、深淵の闇市と記されている。
トウカの持つペンは、北上してゆく。その間にも、いくつかおとぎ話のような場所が存在しているが、全て無視する。
しばらくの間、赤い線を描き続けるペン先を見つめていたが、それがぴたりと止まった――ペン先が指している場所は<悪戯の山>
「悪戯の……山」
目に映る無機質な文字を無意識に呟いた。
「操られの図書館に行くには、この山を越えないといけない。 だけど、この山が厄介なんだ」
トウカの指先が、貧乏揺すりのようにしてテーブルを叩く。
「山を迂回するのは?」
「それができたら苦労しないよ。 アウルヴィの奴、嫌らしいことをしてくれる。 ここから操られの図書館に三日でいくには、行きか帰りのどちらかで、悪戯の山を越えなきゃ間に合わない」
テーブルを叩く指先の音が、ペン先を叩きつける音に変わり、悪戯の山を力ずよく丸で囲む。
それと同じくらいのタイミングで、フローグがテーブルに夕食を運んできた。
「ほら、テーブルの上の物どかせ」
トウカが「それどころじゃ――」と言いかけたが、地図や書物の隙間にバケットやミネストローネが、次々に並べられ、渋々、物を退かす。
嫌に張り詰めていた空気が、温かいスープの湯気に溶かされていく。
トウカの強張った表情だって、ミネストローネを一口飲んだら、少しだけ柔らかくなった。
「それで、悪戯の山がなんだって?」
フローグが、豪快にバケットへかぶりつきながら聞いた。
「あんた、悪戯の山がどんなところか知ってるだろ?」
「もちろん、ただ道を真っすぐ進めばいいだけ」
また、バケットにかぶりつく。
ずっとお道化たような態度をとっているフローグに恐怖感が麻痺していたが、さすがの私も、もう騙されない。
「フロー、そんな適当じゃだめだよ!」
「適当なんかじゃない、本当に、山の中の一本道を歩き続ければいいだけ。 右も左もない真っすぐだ」
そんな場所があるわけない。それに、トウカが頭を抱えるような場所なのだ。
だが、私の思考とは裏腹に、トウカが「確かに、その通りだけど」とため息交じりに言った。
「悪戯の山は、一本道しかなくて超えるのは簡単だ。 だけど、悪戯の山は、通る者を曲がらせようとする」
トウカの言葉を奪うように、フローグがケロケロと笑う。
「名前の通り……悪戯でな」
私は、胸の中で「悪戯」と反復した。
すると、体の奥に、ここは魔女の島だ、と言うことが嫌でもはっきりと再認識され、下唇を強く噛む。
悪戯――私には、その意味をうまく飲み込めない。だけど、私がやらなければいけないことを、酷く邪魔するモノであることはしっかりと分かった。
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