第3話
受け入れるのは得意だ。
目まぐるしく変わる流行や話題にうまく乗りこなすのは、女子高生の特技ともいえる。それに、私は、世間一般的な女子高生とは乗りこなしている物が違う。
でも、受け入れるのと飲み込むのでは話が違うのだ。
シンデレラだって、新しい母やお姉さん方を受け入れることはできたけど、嫌がらせの数々を飲み込むことはできなかった。
私だって、日常が変わるのは受け入れられるが、新しい母までは飲み込めない。
だから、パーカーを着たカエルや人間のような動物たちくらいなら、受け入れるのも飲み込むのも簡単だ。
「これ、すごくおいしいね!」
鼻腔を刺激するバケットの香ばしい香り、疲れ切った体へと染み渡るマーマレードの甘さには思わず頬が緩む。
それから、ダークブラウンの木材で作られた水辺のカエルの一軒家も、おとぎ話の様で美しかった。私の想像では、田んぼの中のあぜ道に、泥を積み上げたような家を想像していたからなおさらだ。
フローグは、口角を大きく上げて「そりゃそうさ、シャトのお手製だからな!」と誇らしげに言う。
私が「シャト?」と首を傾げると「オレの親友さ」とまた笑った。
美味しいマーマレードのバケットも食べ終わり、木製のテーブルの上で湯気を揺らすホットミルクを眺めていると、飲み込んだはずの<人間のような動物>がゆっくりと込み上げてきた。
私は、それを吐き出すように「フロー」と呼んだ。
「なんだ?」
フローグは、スケートボードに似た物を磨きながら答える。
「ここは、どこなの?」
「ここはどこって、バケツの中の魔女の島だよ。 最初に、魔女の案内人から聞かされなかったか?」
私の頭の中に、黒いローブを被ったネズミの少年が浮かび上がり、彼の言っていた言葉を思い出す。
――ようこそ、バケツの中の魔女の島へ!
だから、空を見上げると円状に錆びたトタンで縁どられているのか。
「違うよ。 そんなことじゃなくて、なんで動物が、ここでは人の言葉を話せるの? なんなの、この島は」
「魔女が、この島に魔法をかけたんだ」
「魔女って……そんなのありえないよ」
「それが、あり得なくないんだよ」
フローグは、やっぱり視線をスケートボードに落としながら、続ける。
「現に、カエルのオレは喋れる。 お前は、魔女に招待された。 変わらない事実なんだ」
受け入れることはできる。でも、飲み込もうとしても喉を通らない。
それに、私が求めている答えではない。
「じゃ、なんで、みんな私を見ても『見えない』って答えるの? 魔女に招待された者なんだから、丁重に扱うべきでしょ?」
ネズミの少年は、魔女に仕えていることを誇らしげに話していた。まるで、憧れのヒーローになれたかのように。
フローグのスケートボードを磨く手が止まり、やっと視線を上げる。
そして、磨いていた布を投げ、大きくため息をついた。
「あのな、誰も嫌われ者の魔女に招待された人間の面倒なんて見たくないんだよ」
なんだが、傷つく一言だ。
「で、でも、フローは私の面倒見てくれてるんじゃん!」
「それは、この島の義務だからだ」
私は「義務?」と反復した。
フローは「あぁ、義務だ」と力強くいい、話を続ける。両生類特有の膜を帯びたような双眸は気味が悪い。見つめられるとなると、なおさらだ。
「バケツの中のこの島は、魔女に管理されている。 魔女に逆らえば殺されるし、魔女から課せられる義務を守らなければ殺される。 義務はたった一つだ。 理由は知らねぇが、たまに迷い込む人間を最初に見つけた動物が、元の世界に戻す手助けをしてあげなければいけない義務だ」
「だけど、私が最初にあったのは、サイだよ」
ネズミの少年は魔女に仕えている、と言っていた。だから、例外としても、フローグと出会う以前に、多くの動物が私を見ている。
しかし、フローは、吸盤の付いた人差し指を立てて「ただ、例外がある」と言った。
「魔女の子を見つけても、最初に『見えない』と言って通り過ぎれば、義務はなくなる」
だから、サイやハクビシンは、私と体がぶつかっても『見えない』と言って通り過ぎてしまったんだ。
「でも、フローは、どうして私を助けてくれたの?」
フローグは、棚から工具を取り出し、スケートボードのタイヤ部分をいじり始めた。
「お前が、顔を伏せてたから魔女の子って分からなかったんだ。 それに『見えない』を使うためには、自分から声を掛けちゃいけない。 まぁ、心配するな。 義務を放棄すれば、オレが魔女に殺される。 だから、最後までは手伝ってやるよ」
どんな理由があろうと、この場所で手を貸してくれる誰かがいるというのは心強い。でも、聞きたいことは、まだまだ山ほどある。
「フロー、それからさ――わぁ!」
頭の中を埋め尽くす質問の数々を、フローグから投げつけれらたバスタオルに吹き飛ばされる。
「話は、また明日な。 今は、風呂に入ってこい」
バスタオルの隙間から見えるパーカーを着たカエルの表情は、優しい。
部屋に残るマーマレードの甘い香りが鼻先を擽った。
この<バケツの中の魔女の島>は恐ろしくもある反面、とても良心的な部分もある。まぁ、これは、私の趣味の問題なのだけど。
魔女の子として邪険に扱われるのは、とても心細い。だけど、カエルが住むダークブラウンの木造の家は、おとぎ話の様で幻想的だ。それに、ヒノキが香る睡蓮の葉が浮いたこのお風呂も最高だ。
私は、冬の寒さとは対照的にモクモクと湯気立つ煙の中で、ゆっくりと一つ一つを整理していた。
魔女のことや動物が喋る島の不思議なんてものは、一度考えないでおこう。
いま、私が考えなくてはいけないことは、これからどうするかだ。
いくら、新しい母を受け入れるのが困難で家に帰りたくないとはいえ、父や母を心配させるのは気が引ける。だけどもやっぱり、家のことを想像すると、どうしても帰る気にはなれない。
頭の奥で『この島から出るためには、フローの手助けが必要なんだ。 自分じゃ、どうすることもできない』と悪魔が笑う。
私は、そんな自分勝手な思考が嫌になって、お湯の中に沈んでいく。
鼻からでる気泡は、ブクブクと霞む視界の中で割れていく。もしも、私の抱える問題の数々が、この泡みたいに割れていってくれたら、どれだけ楽のなのだろうか。
息が苦しくなって、その反動を使い、お風呂から飛び出した。
自分勝手な思考は、もう遥か彼方へ追いやってしまった。
だって、私の貧相な胸の間で揺れているはずのネックレス――母との目に見える思い出――が無かったのだ。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
それと一緒に、どうしようもない不安がはっきりと私へ近づいてくる。
鼓動が、早くなっていくのが分かった。高揚感のようなものではない。
血液を送り出す心臓の躍動が、まるで不安のバケモノの足音のように、どんどん近づいてくる。息が荒くなる。酸素を求めるために大きく息を吸うが、溺れたみたいに呼吸がうまくできない。
そんな中で、はっきりと分かったことがある。
――私は、弱い。醜いくらいの弱虫だ。
体がどうしようもなく焦ってしまっているときほど、思考というものは冷静なのだ。
そして、私の意識はプツリと切れた。
*
ランプの中で消えかけの炎が揺れ、部屋の中で影を作る静かな夜に、私は目を覚ました。体は、風邪を引いたときのように気怠い。それに、目元がむくんでしまっているのが分かった。
多分、泣いていたのだろう。その理由は、はっきりとわかる。
私は、ゆっくりと気怠い体を起こして、胸元に手を置いた。でも、そこには、やっぱりガラス玉のネックレスはない。
受け入れるのは得意だ、と言った。だが、それは馬鹿みたいな勘違いだったのだ。
私は、受け入れるのが得意な訳でもないし、普通の子よりも困難を乗り越えてきた訳でもない。
嫌な物から目を背けるための壁を持っていたから、笑っていられたのだ。
母から貰ったネックレス――無意識のうちに、このネックレスは、私の中でどうしようもなく重要な部分になっていたのだ。
脳がなければ考えられないように、背骨がなければ立っていられないように、心臓がなければ生きていられないように……私が、全ての物を受け入れるには、あのガラス玉が付いたネックレスが必要なのだ。
また目尻が熱くなり、鼻を啜る。
でも、それを拭うように声が掛かった。
「よう、大丈夫か?」
部屋の柱に寄りかかりながら、フローグが尋ねる。ランプの微かな明かりに照らされた顔は、どことなく優しげだった。
「うん……」
いろいろ言うことがあるのだろうけど、うまく言葉がでなかった。だから、力なく頷くことしかできない。
それでも、フローグは、私の元へ優しく歩み寄り、からかうように言う。
「お前、風呂場で倒れたんだよ」
驚くようなことを聞いても「倒れた」と反復することしかできない。
そんな私に、優しく語りかけるようにフローグは、言葉を続けた。
「余りにも情報量が多かったんだよ。 そりゃ、そうだ。 自分とは全く違う……まして、喋るはずのない動物を全て受け入れろなんて無理な話だ」
理由は分からないけど、胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのが分かった。涙が溢れそうになるのとは、また違うものだ。
今の私では、この熱を説明できない。
フローグは、話を続ける。
「まぁ、焦るなよ。 いくら島の義務だからとはいえ、ユキナの問題を雑に扱うつもりはない」
私は、まだ力なく「うん」と返すことしかできないけれど、胸の奥の熱がポカポカとさせてくれていることは、はっきりと伝わっている。
とても大きな氷をすぐに溶かすことはできなくても、ゆっくりと時間をかけて溶かしていってくれるような、そんな温かさだ。
焦るなよ、フローグの言葉を胸の中で呟いた。
また、胸のあたりが熱を帯びていくのが分かった。だけど、それは、決して感動のような熱ではない。
はっきりとした羞恥心からくるものだった。
ベッドの上の毛布の中で、私を包んでくれている物は、制服ではなく。伸びきったブカブカのパーカーと大きすぎるジャージだった。
毛布の中の自分の姿とフローグに繰り返し視線を変える。
だけど、私が何かを言うよりも先にフローグが呆れたようにため息をついた。
「アホ! 人間の裸なんて興味ねぇよ。 オレはもっと、こう、ミステリチックで小悪魔のような……お前みたいにガキっぽくないヤドクガエルに惚れるんだよ」
「そんなの知らないよ! 馬鹿!」
「馬鹿ってなんだよ! ガキ!」
しばらくフローグと睨み合っていたが、カエルと睨み合うなんて考えられない光景に、声を出して笑ってしまった。
フローグも「な、なんなんだよ!」と困惑しているが、口元は微かに緩んでいる。
――ゆっくりでいい。私は、強くないんだ。
心の中で呟いてみる。強くなりたいとは思わない。だけど、目を背けずに嫌な物でもしっかりと向き合いたい。
「フロー、私のネックレス知らない?」
「ネックレス? そんなもの付けてたのか?」
「うん、ここに来るまでは付けてたんだけど……お風呂に入ってるとき無いのに気づいて」
フローは、顎に手を当てて悩んでいるが「知らないな」と首を横に振った。
「よし! 明日は、そのネックレスを探そう」
「うん。 ありがとう」
「気にするな」
フローグは、無邪気に笑顔を浮かべた。なんとなくだけど、彼には笑顔が似合う。
カエルに笑顔が似合うっていうのも変な話だが、多分、カエルはみんな笑っていた方がいい。
そうすれば、弱虫な少女に勇気を与えてくれる。
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