第2話 

 冬の夜に染められている真っ暗な公園で、怪しげな黒いローブを着た子供なんて、普通に考えれば恐ろしい。だけど、自然と私は怖くなかった。

 むしろ、冬の寒さを忘れてしまうくらい少年に興味が沸いていた。

「何を見つけたの?」

 少年は、ローブの後ろで無邪気に笑いながら答えた。

「困った子!」

 やっぱり、街灯の明かりだけでは、暗闇の中の少年をはっきりと見ることはできない。だけど、彼の人差し指は私を指していた。

「私のこと?」

「そうだよ! あっ! 名前を言うのは忘れてた!」

 そういうと、小さく咳払いをして、ピエロのマニュアルみたいなおどけた一礼をする。

「僕の名前は<ラト>。 魔女様に仕える案内人さ!」

 この少年は、ひとり遊びをしているのだろうか。私も、小さい頃はよく魔女になりきって、すれ違う人全員に魔法をかけていた。

 大概の人は、気づかなかったり、子供をあやすように微笑むだけだ。だけど、稀に、本当に魔法にかかった演技をしてくれる人がいると、心の底から嬉しかった。

「魔女に仕えているなんてすごいね」

 少年の顔はローブに隠れていて見えないけど、誇らしげに胸を張り、鼻を鳴らしたのは分かった。

「それで、案内人さんが、私に何の用かな?」

 少年は、ご機嫌な声色で答える。

「魔女様が、君を招待したんだ!」

「魔女様に選ばれるなんて光栄だな。 でも、私は、招待された覚えはないよ」

「そりゃそうさ。 だから、僕がいる。 魔女様の所へ案内するのが、僕の役目さ!」

 そういうと、少年は私の手を取り駆けだした。

 不思議な話だけど、少年に手を取られたとたん、魔法をかけられたみたいに体が軽くなったんだ。

 無邪気な少年の足は素早く、私の横を夜の景色が風のように流れていく。

 運動不足の私の足は、もつれることなく自然と少年の素早さについていけていた。息も上がらなかった。むしろ、高揚感のせいで鼓動が早くなっていた。

 本来なら、無理に立ち止まって「遊びはおしまい!」と少年の劇に幕を下ろすことだってできる。だけど、私は、それをやらない。

 理由は――無理やり手を引かれてしまっているから――魔女からの招待を断ることはできないから――全部が、都合のいい理由だ。

 本当は、家に帰りたくないからだ。

 私は弱い。何かにつけて、新しい母の優しさと向き合うことに逃げている。

 気づいたら、私の周りの景色は夜の鮮やかな街並みから、廃れた路地裏に変わっている。生ごみのような不快な臭いに顔を歪ませ、視界の端で動く黒い影に怯え、閉じられたシャッターに書かれた落書きの目が、私を追いかけているように感じた。

 そして、いつの間にか、錆びの目立つトタンの壁に囲まれている。

 まだ、ローブの少年は私の手を掴んでいて「どこに連れていくの?」と尋ねると前を見て、ずんずん進みながら「魔女の島さ」と答える。

 空を見上げると、変わらない夜空に月が浮かんでいるが、トタンの壁に縁どられている。

 またしばらく、少年と「どこへ行くの?」「魔女の島さ」というやり取りを続けていると急に、手を引かれ投げ出された。

 思わずしりもちをついてしまう。

 あまりの乱暴さに少年を睨むと路地への入り口からローブを脱いでハットを被ったが無邪気に笑っていた。

「ようこそ、バケツの中の魔女の島へ!」

 私が、何かを尋ねるよりも先に、路地への入り口はゆっくりと閉じ、錆びたトタンの壁に塞がれた。

「ちょっと! どういうこと!」

 ネズミの少年がいた辺りの壁を叩いてみるが、鈍くトタンの音が響くだけで返事はない。

 思考が混乱した。さっきまで、冬の寒さに震え、ふざけた少年のひとり遊びに付き合っていたと思えば、変な場所に連れていかれ、連れて行った少年がネズミだった――混乱しないわけがない。

 とにかく、トタンの壁と向き合っていたのでは状況の整理がつかない。後ろを振り返り、それから考えようとしたが、まだ錆びたトタンと向き合っていた方がよかったみたいだ。

 振り返った私の視界を埋めるのは、様々な動物が服を着て、中華風の街並みを二足歩行で行き交う不思議な光景だった。

「どうなってるの」 

 私の声は、ぼんやりと浮遊するだけで、すぐに動物たちの騒がしさに掻き消されてしまった。


   *


 皮膚を横暴に切り裂くような冷たさはここに存在しているけど、まだ残る高揚感と目の前の驚愕にマフラーを外し、手で頬を扇いだ。

 私の目の前を談笑する牛と馬が通り過ぎる。もちろん、二足歩行で。

 頭の中は、エラーを吐き出し続けていて、とりあえずその場に座り込みたい気分だ。そして、目を閉じながら奇声を上げたい。

 頭がおかしくなったふり……本当におかしくなってしまったのかもしれないけど。とにかく、この異常な場所を、私の目の前の光景を、誰かに否定して欲しかった。

 私は、目だけを閉じる。だけど、すぐに動物の体とぶつかり邪魔をされる。

「すみません」

 すぐに目を開けて謝る。

 ぶつかったのは重そうな木箱を肩に乗せて運ぶ、大柄なサイだった。だけど、サイは、顔を真っすぐに向けたまま、冷たい瞳を細めて。

「見えない。 全く」

 と言い、首を振りながらため息のように、ぶるる、鼻を鳴らした。そして、人混みを突き進むようにして消えていった。

「なんなの……」

 私は、一歩後ずさる。すると、また誰かとぶつかってしまった。

 次は、細身のハクビシンだった。だけど、ハクビシンもサイと同様に「私は、見えてなんかいないよ」と答え、先へ進んでいく。

 なんだか、私は、急に怖くなっていった。夜の公園で、急に現れた少年にも恐怖心はなかったし、その少年がネズミだと分かり、この場所にいる私以外の全員が、人間のような動物だとわかっても怖くはなかった。

 だけど、それは全部、中華風の街並みや絶えない喧騒を照らす提灯のともしびのお陰だ。無意識のうちに、人間である私を受け入れている前提でのこの場所に、救われていたのだ。

 だが、それは、私が都合よく言い換えていただけで、この場所での人間は「見えない者」として誰もが扱っている。

 私は、思わず駆けだした。何度も、何度も、動物へぶつかるたびに「見えない」と言われ、駆ける私を追う瞳はどこまでも冷たかった。

 やっと、私は自分の置かれた状況を理解する。思考の混乱が、落ち着いたわけじゃない。

 恐怖心から思考を投げ出したのだ――ここは、知らない場所だ。

 気づいたら賑わう繁華街を避け、何の気配も感じない路地裏に逃げ込んでいた。ネズミの少年に手を引かれた場所とはまた違う、獣の世界の路地裏だ。

 地面はぐちょぐちょに歪み、老化しているゴミ箱からは鼻が取れてしまいそうなほどの腐敗臭が立ち込める。

 どこからから動物たちの声が聞こえてきて、壁に数匹分の獣の影が映し出され、それを避ける。

 もう、ここがどこなのか見当もつかない。空を見上げても、錆びたトタンの壁に縁どられた夜空が続くだけで、なにもない。

 私は、ついに座り込んでしまった。

 ずっと忘れていた、疲労感や空腹感、孤独感が襲い掛かってきて目尻が熱を帯びる。

「どうしよう」

 顔を伏せ思わず呟くが、どうしようもない。どうしようもないことは、私が一番わかっていた。

 分かっているからこそ、せめてもの縋りで分からないふりを続けていたい。

 すると、どこからか口笛のような音が近づいてくる。時折、セリフ調の歌詞まで付いて。

「ピュー、マジで寒すぎ腹減った。 ピュー、ピュー」

 調子のいい声が、どんどん近づいてくる。だけど、私は、逃げようと思わなかった。もう疲れてしまったのだ。

 どうせ、私を見ても「見えない」と言われるだけなのだ。

「ピュー、寒いさむさむ寒すぎる。 ピュー……」

 拍子抜けする口笛の音は、私の正面で止まった。顔を伏せているからわからないけど、確かにペタペタとする足音が、私の前で止まった。

「どうしたー? 大丈夫か?」

 え、私に声をかけたの?まさか。

「……無視するなら行くけど」

 ペタペタと数歩分、足音が遠ざかるが、すぐにペタペタと同じ歩数分戻ってきて。

「腹痛いのか?」

 と声がかかる。

 思わず顔を上げてしまった。多分、涙でぐしゃぐしゃになった顔だと思う。

 「女子高生失格だね」という言葉で、ケーちゃんを思い出し、また涙が溢れる。

 顔を向き合わせているのがパーカーを着たでも、私は泣きながら。

「助けてください」

 と言った。

 カエルは、手で顔を覆いながら「やっちまった」と呟いた。だけども、意を決したようにこう続けた。

「俺の名前は、フローグだ。 この島のルールで、人間を最初に見つけた動物は、元の世界に返す義務がある。 その様子だと……オレが最初だよな」

 私は、何度も大きく頷いた。

「だよな……まぁ、仕方ねぇ! よし、魔女の子……とりあえず、俺の家についてこい」

 そういったカエルこと<フローグ>は、私の手を取って立ち上がらせてくれる。

 吸盤の付いた手は、少しだけ気持ち悪かったけど、確かに温かかった。

 そして、その温度が、嫌でも私に「ここは、現実だ」と叩きつけた。

「俺のことは、フローでいい。 お前の名前は?」

 フロー、と胸の中で反復して、鼻を啜ってから。

「私は、ユキナ」

 と答えると、フローグはケロケロと笑いながら「よろしくな」と言った。

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