第1話

 カチリという音を合図に、八畳ほどの自室で目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴り響く。静寂と瞼の裏側の暗闇に寄りかかって眠っていた私の鼓膜は、雑に揺さぶられた。

 世界滅亡を伝えるがごとく鳴り響くアラームに、枕の下に潜り込むことで対抗を試みるが、枕すらも越えて迫る騒音には、完敗だ。

 まだまだ、冷える朝の空気に震えながらベッドを出た、一歩先の目覚まし時計を止める。毛布に包まって、手を伸ばして止めれるのであれば、必ず二度寝をしてしまう。

 頭痛のようなアラームの残響の中で、大きくため息をついた。

 これは、朝を邪魔された目覚まし時計に対してではない。

 むしろ、寝起きの悪い私を起こしてくれる目覚まし時計には、感謝をしているくらいだ。

 ため息の相手は、自室を出て、階段を下ったリビングにいる母――正しくは、新しい母に対する物だ。

 本当の母は、私が4歳の時に病気で亡くなっている。息を引き取るその時まで、病室のベッドで「心配ないよ」と言っていたのは、私の中の悲しい記憶だ。

 楽しい記憶は、13年も経過して、随分と前から色褪せている。思い出せるのは母の優しい笑顔とガラス玉の付いたネックレスだけだ。

 気怠い体に鞭を打って、机の引き出しから、高かった綺麗な木彫りのケースを取り出し、中からガラス玉のネックレスを出す。群青色の中に気泡が閉じ込められていて、光りにかざすと気泡が、キラキラと反射する。まるで、ガラス玉に夜空を閉じ込めたみたいなネックレスだった。

 寝癖だらけに、パジャマがはだけた格好でネックレスを付ける。貧相な胸の間で揺れるガラス玉に、なんだか申し訳なくなった。

 だけども、新しい母と笑顔の父がいる生活に息が詰まってしまったときの唯一の慰めなのだ。

「おはよう、今日は冷えるね」

 ガラス玉に――亡くなった母を思いながら――私は、呟いた。

両手で強く頬を叩く。それから、ネックレスを木彫りの箱にきちんとしまって、私の1日が始まる。


   *


 寝癖だらけの髪を整え、制服に着替えてから一階のリビングへと降りる。

「おはよう、ユキナちゃん」

 柔らかい笑みで、新しい母は私に声をかけた。だけど、なんて答えていいか、わからなくて「うん」と言うしかない。

 私は、新しい母に敬語で話せばいいのか、タメ口で話せばいいのかすら判断することができない。だから、できるだけ愛想よく「うん」と頷くことしかできないのだ。

 四人掛けのダイニングテーブルには、こんがり焼けたトーストを中心にバラスの良い食事だ。だけど、それを食べる気にはなれない。

 新しい母が憎いわけじゃない。

 シンデレラのような可愛そうな娘でもないし、昼ドラのサスペンスばりの妬みなどもない。至って普通(再婚と言うことを除いて)の家族だ。

 だが、私は、それが嫌で仕方がなかった。

 本当なら、私の幼い記憶の中で笑顔でいる母が座っている席に、法律上では母でも、赤の他人が座っている。

 「こんにちは、私は新しい母です」「こんにちは、私の新しいお母さん」なんて、簡単なやり取りで現状を受け入れれるほど、私は強くない。

 カーテン越しの青空で照る太陽が、部屋の中に差し込んで、微かに温度を上げる。だけども、外を見れば、枯れた木の葉がアスファルトを転がっていた。

「ごちそうさま」

「あら、もういらないの?」

 母の表情が、少しだけ切なく見えた。

 心の中で、ため息をつく。受け入れてもらおうとする母の優しさを、雑に振り払う私へ、心底呆れた。

 だから、コップの中のオレンジジュースを飲み干して、食パンに大口で、数口かぶりついてから家を出た。

 玄関が大きく音を立てて閉まり、冬の風が冷たく吹き付ける。

 駄目だ。寒すぎる。

 勢いに任せて飛び出してしまったから、手袋とマフラーを忘れた。戻るのも気まずいが、やはり、冬の冷酷な寒さには勝てない。

 速足で階段を上がり、自室のテーブルの上の手袋をはめる。気を取り直して、自室を出ようとした時、木彫りの箱が目に入った。

 ガラス玉のネックレス――母からの色褪せず、目に見える思い出であり私の慰め。

 今日は、朝から落ち込んでいる……いや、最近は新しい母の優しさを強く感じるようになり、それを無視し続けているからか、いつも落ち込んでいる。

 私は、手袋のごわつく手で、慎重にネックレスを取り出し、首へ付けた。

「行ってきます」

 あくまで、ガラス玉に呟いた。

 冬の寒さが、少しだけ和らいだ気がした。


   *


 学校の授業は、滞りなく進んでいった。

 午前中の4時限は、暖房からでる心地いい熱風に睡魔を誘われて、ほとんど記憶はない。ホームルームを受けて、1時限目の数学の開始を告げるチャイムを聞いたのは覚えているが、目を開けた時にはクラスメイト達が、椅子と机を運び、お弁当箱を広げていた。

 気怠い体を起こすのが億劫で、机に突っ伏しながらぼんやりと黒板を見つめていると、頭上から「起きなさんな」と声がかかる。

「私は、眠いのだよ。 ケーちゃん」

「だからって、1時間目から寝っぱなしの女子高生ってどうなの?」

 痛い所を突かれる。今を時めく高校2年生女子が、命ともいえる前髪を腕とデコで、べったりと潰してしまうのは駄目な気がする。いや、絶対に駄目だ。

 私は、背筋を伸ばして起床。乱れた前髪を手で整える。

 でも、朝ご飯をしっかりと食べてこなかったせいで、女子高生としての華やかさを取り戻すのは、腹の音に邪魔をされた。

「お腹減った……パン食べる」

 リュックからコンビニで買ったサンドウィッチとパックの野菜ジュースを取り出して、もさりとかぶり付いた。

「女子高生失格だね」

 購買に売っているパックのトマトジュースのストローを咥えながら<ケーちゃん>――<水谷 ケイコ>は笑った。

「そんなケーちゃんだって、女子高生失格だよ!」

 女の子にしては短すぎるショートヘアに、猫のようなつり目、冬なのに捲られた制服からは、女子バスケットボール部で鍛えられた筋肉質な腕が覗いていた。

「ウチは、構わないの! 好きでやってるんだから」

「私も、好きでやってるの」

 おしゃれとか疎い私に、ケーちゃんの少年のような無邪気な性格はぴったりだった。放課後にカフェやらクレープ屋に通うくらいなら、ケーちゃんの3ポイントシュートを体育館で眺めている方が楽しい。

 そっぽを向いて野菜ジュースを飲むとケーちゃんが「お!」と何かを見つける。

 その直後、するりと私の胸元へ手を滑り込ませ「ひゃっ!」といやらしい声を漏らし、赤面。

「女子力めっけ!」

 ケーちゃんの冷えた手が、やっぱり胸元を弄り、体が驚く。だけども、それを悟られないように、無理やり意識をネックレスへ向ける。

「あぁ、それ、お母さんに貰ったネックレスなんだ。 ほら、前に話した」

「あぁ……最近は、大丈夫なの?」

「まぁ、ぼちぼち」

ケーちゃんは、トマトジュースのパックがべコリと凹むまで吸い込みながら「ふーん」と興味無さげに言った。

でも、ケーちゃんの素っ気ない態度は、私にとって心地いい。

母のいない私を「可哀想だね」と哀れむ声は、正直鬱陶しくて仕方がないし、なんだか蔑まれている気がする。

だって、私は、母が嫌いなわけじゃない。

 目まぐるしく変わるモノを受け入れるのは得意だ。ただ、私の心が弱かっただけの話。

だから、肯定も否定もしないケーちゃんの素っ気なさは、一種の優しさだ。

きっと、私が、母を罵れば「それは違うよ」と否定してくれる。

 きっと、新しい母が、私に虐待まがいのことをしているのなら、母をグーで殴りつけてくれる。

そんなケーちゃんは、親友だし誰よりも信頼できる存在だ。

「じゃ、最近、落ち込んでたのはそのせい?」

 ストローから口を離し、トマトジュースのパックが音を立てて元に戻る。

「落ち込んでたっていうか……なんというか」

 うまい言葉が思いつかない。確かに、最近は落ち込んでばかりいる。だけど、その理由を新しい母のせいにするのは、なんだが違う気がする。

 私は、ケーちゃんの目を見て「どうなんだろ?」と聞いてみたけど、ストローを噛みながら「ウチに聞かれてもなー」と言われるだけだった。 

 いくら、ケーちゃんでも、心の深い部分。私でさえも分かっていない所まで見抜けるわけじゃない。

「多分、落ち込んでない」

 手に持っていた食べかけのサンドウィッチに、ガブリと噛みついて、野菜ジュースで流し込んだ。

「そう。 ま、無理はしなように」

 やっぱり、彼女の素っ気なさは愛らしくもあり、頼りがいがある。

「ケーちゃん、今日の部活の後は暇?」

「いいや、今日は後輩ちゃんたちとご飯食べ行く」

「えー……寂しいよ!」

「また明日帰ってあげるから」

 ケーちゃんの3ポイントシュートを見れなくなるのは想定外だった。でも、猫のようなつり目は男女のどちらからも人気があり、バスケをする姿は女子生徒から大人気なのだ、いつも私といられるわけがない。

 分かってはいるけど……やっぱり寂しい。

 落ち込まないの、とケーちゃんに肩を叩かれるが、やっぱり心がどんよりと沈む理由は、はっきりとわからない。

 家に帰るのは憂鬱だし、ケーちゃんのいない放課後は寂しい。

 午後の授業の記憶は、窓枠の中を流れていく雲とゆっくりだけども確かな速さで沈んでいく太陽しか残っていなかった。


   *


 今は、何時くらいなのだろう。冷たい空気で満たされている公園のベンチでは、リュックの中からスマホを取り出すのも億劫で、時間の感覚が曖昧になっていく。

 あたりはすっかり冬の夜に飲まれてしまっている。唯一の光源は、不気味に薄暗い頭上の街灯だけだった。

 私は、マフラーに口元を埋め、空を見上げた。真っ暗な夜空に、月が輝いていた。

 なんだか今日は、とことんうまくいかない日だったような気がする。

 バスケ部の後輩たちにケーちゃんを奪われてしまうし、放課後の暇を潰そうと図書室にいけば、管理人さんの体調不良で閉室。

 だから、学校から駅まで遠回りをして向かって、電車2本分の時間を駅のホームで潰した。それでも、やっぱり家に帰るのは気が進まなくて、こうして公園のベンチで夜空を眺めている。

 私は、なんだか切なくなって、手袋を外し、ネックレスのガラス玉を握った。だが、手が酷く冷えただけだ。

 この公園もすっかりと変わってしまった。記憶の中では、黄色だった鉄棒が青色に変わり、ブランコの数は二つから三つに増えている。それから、大好きだったシーソーは無くなり、色の剥げたパンダの置物が立っていた。

 幼い頃の公園ですら、時間と共に老化していき、新しく生まれ変わる。大人気だった遊具だって社会状況の変化で、当たり障りのない物に変わっていってしまう。

 私だって、変わらなくてはいけない。

 新しい母の優しさに向き合わなくてはいけない。でも、怖いのだ。

 母との大切な思い出が色褪せていってしまう気がするのだ。

 私は、握っていたガラス玉を夜空に掲げてみる。すると、一瞬だけ青く発光したように感じた。だけど、それは後ろにある月の明かりを、ガラス玉越しに見ただけだった。

 もうしばらくしたら家に帰ろう、そう思ったとき声をかけられた。まるで、少年の無邪気な鼻歌のようにして。

「あったあった、招待状! 見つけた見つけた困った子!」

 突然現れた声に視線を向けると、小学生くらいの黒いローブを被った何者かだった。気のせいかもしれないが、ローブの隙間から街灯の明かりを反射する瞳は、獣の様だった。

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