3. ヤンキーとネギとゴボウ
「なあ」
少年が立ち上がり、口を開く。
「おまえ、桂木茜か?」
違う、と言ってしまいたい衝動にかられた。だけど、嘘がばれたときも怖い。
「そ、そう……ですけど」
どうして私の名前を知っているんだ。
疑問を口にする勇気はなく、訊かれたことだけ答えた。
少年はため息をつくと、煙を吐き出した。こちらに足を向け、タバコを携帯灰皿に押し付ける。
それを見て、思わず「灰皿」と言葉が漏れる。すぐにハッとして、両手で口を押さえたけれど遅かった。
少年は「アあっ」と濁点の付いてそうな声ですごむ。
「ご、ごめんなさい。携帯灰皿持ち歩いてるなんて律儀だなって思って」
見かけによらず、という言葉は飲み込んでおく。ケンカを売りたいわけじゃない。
少年は不機嫌そうな声を出す。
「あー……ダチにもだっせえって言われるけど、客先でタバコ捨てたらババアにどやされる」
「ば、ばばあ?」
「うちの母親。ほら、おまえも知ってるだろ。コンノ家政婦紹介所の所長」
「所長さん」
ある女性の顔が脳裏に浮かぶ。
数年前、いつもお世話になっている家政婦の
少年の母親ということは40代くらいの年齢だと思うけど、30代に見える若々しい人だった。
そう思い返していると、「……って、ああ!」と少年がいきなり大きな声を上げたので、心臓がバクバクする。
今度はなんだ。
少年は一気に距離を詰めると、ブルゾンのポケットから取り出したスマホの画面を、私の顔の前に突きつけた。
その拍子に、突き出した彼の腕の辺りでネギとゴボウがぷらぷらと揺れる。
ネギとゴボウ。
なぜ、ネギとゴボウ。
目はスマホよりもネギとゴボウを追ってしまう。見間違いかと思いたくなるけど、スマホの明かりで間違いないことはわかった。少年が肩から斜めがけしたメッセンジャーバッグから、ネギとゴボウが飛び出していた。
「おまえな、4時半に約束をしてるのに、寒空の下、何時間待たせるんだよ。もう7時も過ぎてんだぞ」
ようやくスマホに目を移すと、19:16と表示されている。バイトが7時までなので、終わってから着替えて歩いて帰り、まあそんなものだ。バイト先と家は歩いて10分ほどの距離である。
それより、約束ってなんのことだろう。
今度は少年の顔をまじまじと見た。
意思の強そうな瞳が印象的で、彫りが深めの顔つき。わりと整っている。
でも、金髪ピアスで睨まれると、いくらイケメンでも怖いのでやめてほしい。
彼をどんなに観察しても、自分の中で答えを見つけられなかった私は、少年に尋ねることにした。
「あの、所長さんの息子さんがどういう用件でしょうか」
「オレは
「は?」
今井さんの代わりということは、家政……婦?
いや、男だったら何だ。家政、夫?
我が家はコンノ家政婦紹介所から今井さんという60代の女性を派遣してもらっている。今井さんが2週間休むため、別の人が来ることも聞いていた。
私は改めて少年の姿を上から下までジロジロと眺めた。
服装はジーパンにカーキ色のブルゾンで普通だけど、金色の少し癖のある髪の毛と耳についたピアスは、家政夫という職からイメージする男性とはかけ離れている。
そして、最大の疑問点が若さだ。クラスメイトとそう変わらないように見える。
今井さんの年齢のせいか、家政婦に若い人の仕事というイメージがなかった。若い人がいたとしても、結婚して主婦になった人が働いているイメージだ。どう見ても独身の、しかも男というのは想定外だ。
いくら所長の息子さんと言っても、若い男に家政夫の仕事なんてできるのだろうか。今井さんは家の隅から隅まで綺麗にしてくれていて、こうすれば汚れが落ちやすいなんて知識も豊富だった。料理も驚くほど手早く作るのに、どれもとても美味しい。そういうスキルは短い年数で簡単に身につくものではないと思うんだ。
だいたい、高校生が学校の後で働くのは無理がある。夜に家事をしてもらうことも可能だけど、あまり遅い時間に異性が家にいるのは困るのだ。
少年はスマホをブルゾンのポケットに戻すと、真正面から私を見る。
「親父さんに連絡して、親父さんは仕事で不在だけど娘さん、つまりあんたが家にいるからってことで4時半に約束取ったんだけど」
「ええっ、聞いてない」
考えていたことすべてが頭から吹き飛ぶ。
最高気温がぎりぎり2桁という時期だ。晴れていても、12月の夕方以降なんて気温は1桁まで下がっている。今の気温は恐らく5度あるかどうかだ。
人が来るなんて知らなかったとはいえ、寒空の下で3時間近くも待たせてしまったのか。
さっきから少年の態度で機嫌が悪いと感じていたけど、それは怒るはずだ。
「すみません、バイクはここに置いて中へどうぞ」
門扉を開け、その内側にバイクを移動してもらうと、玄関の扉も開けた。
家の中は一日不在にしていて冷えているとはいえ、閉め切っていたので、外の寒さに比べたら暖かく感じる。
玄関を上がってすぐ右にあるリビングへ案内すると、ソファのそばにある電気ストーブのスイッチを入れ、コートを脱いだ。
私がソファを勧めると、少年は鞄をソファに置いて、ブルゾンを脱ぎながら座った。
「何か体を温めるもの持ってきますね」
「いや、おかまいなく」
私は首を横に振った。
「風邪をひいちゃいますから」
と押し切り、荷物はダイニングの椅子に置いて、キッチンにやってきたところで困った。普段は今井さんが作り置いてくれたお茶を飲んでいるので、お茶の淹れ方が怪しいんだ。
家政婦さん任せにしているせいなのか、家事ができない。というか、やったことがない。
お茶の淹れ方一つわからないなんて、私、やばくないか。
今まで気にしたこともなかった自分の現状に、心がヒヤッとする。
とりあえずは流しの後ろにある冷蔵庫を開けて、今井さんの淹れ置いてくれたお茶がないことを確認する。
うん、そうよね。今日の朝に飲み切った覚えはある。他の日の記憶と混同して、実はお茶が残っている……なんて微かな希望は願望でしかなかった。
どうしよう。
今井さんは一昨日に仕事をしたきり休んでいる。アメリカに住んでいる息子さん夫婦のところへ、定年退職した旦那さんと遊びに行くそうで、すでに日本を出国しているはずだ。連絡して頼ることはできない。
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