Scape/Goat -1-







"それ"は確かに、生きていた。


しかしその瞳の奥に既に光はない。

文字通り、"生きていた"のだ。


滴り落ちる液体の色は、今でも鮮明に覚えている。指先を伝って落ちるそれが、ボタッと重い音を立てて床に落ち染み込んでいく。


自分は、今し方目の前で命を終えた塊をただ呆然と眺めていた。




「はー....はーっ...、はっ....」




聞こえるのは自分の荒い息。

破裂せんばかりに打ち鳴らされる心臓。

その音が、まるで誰かが頭の内側から叩いているような勢いで鼓膜を痛ませた。



どくりどくりと、体の内側から抑えきれない何かが溢れだし、その"何か"が引き起こす衝動のままに、体は暴れだしそうだ。



だが体は動かなかった。

配線が切れたロボットのように、小指一本だって動かせない。




<ーーー、ーー>




声がした。



声のする方へ顔を向けると、居間があるはずのその先は真っ黒な闇に染まっていた。その床にボタボタと黒い液体が落ち染みを作っている。




<ーー、ーーー>




闇の奥で何かが動いている。目を細めてみても、それが何なのか視認することは出来なかった。漂う血の匂いが色濃く、足元に溜まる血は血溜まりを作っていた。


名を呼ぶ声へ、引き寄せられるように足を踏み出した刹那、血溜まりから何かが伸び足を掴んだ。


同時にバキッと音を立てて目の前の床が崩れ、穴はどんどん大きくなる。足を掴む何かのせいでバランスが取れず、前のめりに体は揺れた。



「っく、..あ!」



本能が危険だ、と瞬時に判断し、慌てて足に力を込め、掴む何かから逃げようともがく。しかし崩れかけた床に体重を掛けて踏み進めれるはずもなく。




俺は重力に従って落ちた。




落ちる寸前、闇の向こうにいる"それ"が、笑っているように見えた。







ーーー






ドガンッ






けたたましい音と共に、エドガーは冷たい木の床の上で目を覚ますことになった。





「ッ---...あ"ークソっ...」




鼻をもろに床に打ち付けて朝を迎えたのはここ最近何度目だろうか。窓際に申し訳程度にある時計に朧気な目を向けると、既に起床時間をすぎていた。


鼻を抑えながら起き上がり、血が出ていないことを確認するとエドガーはため息をつく。




「またあの夢だ...」




あの不明瞭な夢は、今週に入ってもう三度目になる。そのたびにベッドから落ちて鼻をぶつけるに至るわけだから、いい加減疲れてくるのだ。



鼻から来るジンジンとした鈍痛が徐々に引いていくのを感じながら何とか痛みをやり過ごすと、エドガーは慣れた手つきで適度にベッドを整え、静かに寝室を出た。




時刻は朝方4時、窓の外の空はまだ薄暗く、町からは物音一つ聞こえない。



静まり返った町の中は不気味な程に静寂を保っていた。




このエデンという国は、1000年前世界が一度終わりを迎えた際に、生き残った獣人と少数の人類が手を取り合い、はじまりの国としてこの地に築いたのが元である。そこに至るまで

いくつかの新たな人種と、人類と獣人による戦争は絶えず行われていたのだが。


それらを乗り越え、多くが分裂しまた集まり形を生み出し、法や政令の変貌を繰り返して今のエデンがあった。



エデンの大地は、一つの大陸が十の大きな大地に割れ、その間に山や川が生まれ、中央の一番の大きな山のある場所を一番上に、層が分かれている。


それぞれ中枢と呼ばれる第1地区から第10地区まであり、上へ行く事にその地区に住む住人の身分は上がっていく。


大きな括りで言うなれば、上・中・下の位に分かれ、ピラミッドの最下部、第5地区~第10地区までに下級民が暮らし、第4地区~第2地区までに中級民が暮らし、第1地区別名セントレアには上級民とエデンの始まりの王がおり、エデンの大地を治めている。



文字通り完全なる身分制度がしかれ、下の地区に行けば行くほど身分は低くなる。



エドガーの住む第10地区は、セントレア(中枢)から遠く離れた場所にある。人も獣人も関係なく貧困層が集まり、闇市が多く開かれるスラム街の寄せ集めのような場所である。


下級民に裕福な暮らしは当然なければ、日々を生きることで精一杯な者で溢れているために、下層へ行くほどそこに住む民は暴力的で非常に残酷になっていくのだ。



そんな場所には、法も公的権利も通用しない。


たとえ明日死んでも、誰も文句は言えない、自業自得が暗黙のルールなのだ。






洗面所へ向かい、薄汚れた鏡の前に立つ。

先程から肩を擽っている白色の髪の毛を手に取り、後ろに一つ結びに縛れば幾分かスッキリとする。


蛇口を捻り、お椀状にした手で水を溜めバシャッと顔にかける。冷たさに思わず震え、先程ぶつけた鼻がまたじんわりと痛むがそれでも、今度はしっかりと意識が覚めた。



「腫れては....ないか」



鏡をじっと凝視しながら鼻を撫でる。この先もあの夢を見るたびに床とキスをする羽目になるなら、何れ自分は豚鼻になるだろうと静かに思った。



歯を磨き、簡単に髭を剃り、身支度を手短に済ませ階段を降りる。


欠伸を一つ吐きながら、台所に無造作に置かれていた買い溜めのミネストローネの缶を一つ手に取ったところで、この古びた家のもう一人の住人が二階から顔を覗かせた。




「よう、エド。今朝も派手に起きたなァ?今度こそお前の鼻面が潰れちまったんじゃないかと心配したよ」



にっかりと人の良さそうな笑みを浮かべている男の名は、オジー・ボーンズという。

その愛想の良さ、否馴れ馴れしさから分かる通り、彼とエドガーは古くからの友である。



「それは生憎だったな」



ぶっきらぼうに返し、コップ一杯に牛乳を注いで一口飲んだエドガーはミネストローネの口元にガリと歯を突き立てた。

口から覗く白い犬歯が、硬いアルミ缶がギシィッと軋んで穴が開く。空気に触れ溢れた赤いスープをペロリと舐めて飲むエドガーを横目にオジーは呆れた様にため息をついた。



「おいおい、幾ら歯が強いからってんな開け方があるかよ。缶切りってもんは何のためにあるんだ?」


「この方が楽だ。早いし、汚れない」


「どこの誰が自分の歯で缶の蓋開けるんだよ...」


「俺。」


「お前だけだよバカ」



やれやれ、と肩を竦めながらオジーは咥えた煙草に火をつけた。溢れた煙を肺の奥にまで吸い込んで身体中に行き渡らせながら吐く、毎度のことである。



「ふー....この一本のために早起きした、ってな!」


「不健康の元だ」


「冷たいこと言うなって、煙草は俺のエネルギーだぜ?」



トントンと灰皿に灰を落としながら喉を鳴らし笑う。犬の吠え顔のような笑みはやはり人懐っこさを滲ませている。


見た目は柄の悪そうな男だが。



「失礼だな、お前にだけは言われたくないね」



心の声まで勝手に読む辺り、人のテリトリーにすんなりと踏み込んで気づいたら横にいるような。故に堅物仏頂面のエドガーと長年一緒に過ごせているのだろうが。



ゴクリ、とスープを飲み干し缶を流し台に置いて水を入れると、エドガーは時計を横目に未だ煙草から煙を蒸しぽわ、と宙に白い輪を作っているオジーを呼ぶ。




「オジー、」


「んぁ?...ああ、はいはい、ちょい待ち」



名を呼ばれ目を向ければ、相変わらずの目付きの悪い相棒が壁に掛けてある古い時計を指さしている。自分の腕時計を改めて確認し、ガリガリと頭をかく。仕事の時間という奴だ。


煙草を最後にと深く吸い、ゆっくり口内で遊ばせてから吐き出しながら吸い殻を灰皿に押し付け、上着を着込む。



エドガーとオジーの住居は、古い昔の時代のアパートメントだ。石造りの壁は厚く、木製の床は所々ミシミシと軋むが生活に支障はない。


二階が居住部屋で屋根部屋は物置、台所と厠は一階に。一階はちょっとした酒場になっており、マスターを勤めるのがオジーである。



こんな早朝に?

酒場を開店?



勿論、そんなはずはない。



朱色に染まった元は白かったであろう分厚い腰エプロンを着けながら、古びた革手袋を嵌める。酒場の裏口から揃って外に出、オジーは階段を降り路地に止まっているトラックへと歩んで行く。それを横目で確認しながら、エドガーは階段横の地面にある鉄の扉を開け、地下へと続く階段を降りた。


冷えた空気が壁を撫で、ひんやりと不気味に寒気を漂わせている。

壁にあるスイッチを手探りでつければ、天井に申し訳程度にぶら下がった電球が、空気の流れを感じゆらりと揺れた。


無機質な薄暗い部屋の真ん中に一つある台。

その上には引っかき傷や血のこびり付いた跡が残っている。床にも似たものがあり、空気中にはやんわりと鉄の匂いが立ち込めている。


スン、と鼻を鳴らし簡単に嗅げば、夢の中で意識したそれと似た匂いがするが、やはり違うものだと本能で分かる。



バタン、と背後で音がし、地上への階段の横の壁に開けられた穴にそれは押し込まれてきた。



未だ何が起こったか、状況が掴めていない様子のそれは丸い瞳を目の前にいる大きな男に向けた。その男の目つきは自分に対し敵意がある様子はないものの、感情など無いかの様に空虚だ。


男が壁に手を伸ばし、立てかけてあった身の丈程もある大きな金属を手に取り、歩み寄ってきた。



「何も心配するな、怖がることはない」



エドガーの野太く低い声が果たして、それに届いていたかは定かではない。ただ、エドガーは努めて静かに言葉を続けた。



「悪いな、これも仕事だ」



骨太の大きな手が、それに伸びそっと感触を確かめる様に撫でた。

それの表情を見つめてみるが、やはり読み取れるものではない。


ガリリ、と手にした解体包丁の先端が地面をこすり傷をつける。

その音で、それは一瞬ばかり見を怯ませた様だ。



「お前に恨みはない」



片手で持ち上げた包丁の柄にもう片手を添え、金属の重さを感じながら振り上げる。


黒く丸い瞳に、自分の顔が映った。



「すぐ、終わらせてやる」



黒い眼球に映り込む自分の姿は、まるで怪物の様に大きく恐ろしい。





____ああ、どこかで





____同じものを見たな





頭の隅にそんなことを思いながら、振り上げた刃で空を切り思い切りそれに叩きつけた。

ドロッとした生暖かい液体が壁や床に飛び散り足元を汚す。


それは一瞬のうちに、冷たい地面に身を投じた。




床を染めるその液体の色は、確かに赤かった。








to be continue....

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る