Scape/Goat
梵天
-序章-
目を覚ました時、少女は全く身に覚えのない場所にいた。そこは何処までも続く真っ白な世界だった。
起き上がり辺りを見回してはみるが、その場所が何なのかは少女には分からなかった。
白いボロボロのノースリーブの服を着ており、肩には赤色で"09"と刺青が入っている。
少女がたった一つ持っていたもの、それは首からぶら下がるドッグタグだけ。チャリン、と音を立て揺れたそれを手に取り見つめる。
燻し銀の金属の表面に刻まれた凹凸は、恐らく文字というものなのだろう。しかしそれを解読することはできず、少女はなんの感情もなく、機械的に首を傾げた。
ここはどこだろう、そんなような事を思い立ち上がろうとするが、足に上手く力が入らない。見ると左の足首に黒色の根っこのようなものが絡みついて締め付けている。根は幾つかの筋に分かれ、まるでエネルギーでも奪っているかのように細い先端を皮膚の下にくい込ませ畝っている。
「.....」
ぐっと力を込めようが、指で根を引っ掻こうが根元から引き抜こうと引っ張ろうが、全く微動だにせず、更に根は足を締め付けていく。
不愉快な感覚に少女は思わず顔を顰めた。
その不愉快な感覚の名前を少女はまだ思い出せずにいた。
暫くじっとしていると、根は少女の足を締め付けるのをやめ僅かに緩んだ。
「はぁ.......」
さてどうしたものか、と少女は一つ息を吐く。
ぼーっと遠くを見つめ、自分が何故ここにいるのか、自分は何なのかを考えては見るものの、やはり明確な答えが出てくるわけではなかった。
「.....?」
ふと、無限に広がる白い世界が徐々に形を描いていることに気づいた。
白いキャンパスにぼんやりと絵が浮かび上がるように、だが確実に白い世界は形を変え別のものを映し出そうとしていた。
そして目の前には色のない森が生まれ、少なからず驚きを覚えた少女は、そのまま首を動かし背後を見てみる。
背後に広がるのは、先程と変わらない何もない虚無な世界だった。
どこからか風が吹き少女の髪を揺らす。
心地が良い、と少女は素直に思った。
目を閉じ頬を撫でる風を感じていると、遠くの方で何かが揺れ動く音が聞こえた。反射的に目を開け音の聞こえた方へ顔を向ける。
先程の森だ、森の奥から何かが聞こえる。
地面を叩くような、いや踏みしめるような音。硬い地面に体重が掛かり、薄らと生えている雑草が踏み潰されてしなる音が聞こえる。
直感的に少女は思った。
"何か近づいて来る"
片時も目をそらすこと無くじっと音の先を見ていると、木々の間から白い大きなものが姿を現した。自分の身の丈の数倍はある、白い毛色の大きな生き物だ。
少女はその生き物を見たことがあった。
犬をもっと厳つくして熊のように大きくしたその獣の名前は、
「おおかみ...?」
そのおおかみ___狼は暫くは足を引きずりながら体を揺らし歩いていたが、クンと鼻を震わせ僅かに空気を震わせて耳に届いた小さな声に、その時初めて自分の歩む先にいる少女の存在に気づいた。咄嗟に身体をこわばらせ、身を低くし背中の毛を逆立たせた。
少女はと言えばただぼうっとその生き物を見つめていた。
「ウ"ウ"ゥ"....」
狼は、地を這うような低い唸り声を響かせた。
それだけでも十分の威圧を放っているのに、次には鼻に皺を寄せて鋭い牙を剥き出しにする。
"たべられる"
少女は他人事のように思った。
この狼の考えは読めないが、その表情から自分に良くない感情を抱いていることは確かだったからだ。
だが自分の命の危うさへの対処を考える気もなければ、もとより考える知恵もなかった。
しかし、目の前にいるこの獣が酷く弱っていることは理解できた。
良く見れば、大きな体、足や顔には幾筋もの深い傷跡が出来、その傷口から白いインクのようなものがポタポタと垂れ、地面に水たまりを作っていた。
少女は日に焼けていない白い手を躊躇すること無くその狼に伸ばす。狼の驚いたように見開かれた目が少女を映し、ぐわっと口を開け歯を剥きだして威嚇する。
が、それさえも少女は気にせず狼の大きな鼻面に刻まれた深い傷を、細い指先でするりと撫でた。顔の傷はほかのとは違い随分昔のもののようだ。
ビクッと少し大袈裟に身を震わせた狼は、困惑したように唸るもその細い手を跳ね除けようとはしない。ただ戸惑っている様子はどことなく読み取れた。
指先が動き、指の腹が狼の薄い毛並みを感じ、鼻面から狼の左側の目元へと移る。
その顔に深く刻まれた数本の傷は、幾度と無い戦いから受けたものか、或いは一方的に受けたものか。
少女の薄い唇が、もう一度音を紡ぎ出した。
少女の空っぽで無垢な心に初めて生まれた、他者へ抱く思い。
「かわいそう」
その音が持つ意味は、動物である狼に伝わるはずもないが、それでも狼は少女の指先の温もりから、少女が言わんとしていることを感じ取ったかのように、どこか哀しそうな瞳を揺らしたかと思えば、撫でる手に顔をすり寄せるように目を閉じた。
少女はただ、この白く大きな孤高の獣の毛並みを確かめながら傷口のある部分を優しさを込めて撫で続けていた。
ーーー
どれくらいの時が過ぎたか、それまで少女にされるがままに大きな身体を地面に伏して撫でられていた狼は、急にピクンッと耳を立て彼に聞こえた小さな音をより鮮明に感じ取ろうとする。
狼の様子に少女は首を傾げた。
狼がまっすぐに看ている自分の背後へと目を向けるが、そこには何もない。
目を覚ました時に見たそれと同じように、真っ白な世界が何処までも続いているのだ。
「な、に?」
つっかえながらもどうにか言葉にする。今さらながらとても喋りにくいことに気づいた。自分はどうやら、話すと言う事が苦手なようだと少女は頭の中で思う。
狼は少女の呼びかけにも答えず、ただ真っ直ぐに何もない背景を睨みつけていた。
段々と狼の身体に力が加わり、太く大きな足が地面を踏み身を起こす。
その行動から、少女はもう一度自分の背後に目を向けた。
今度は何か違って見えた。
距離はかなり離れているが、白の中に現れた"それ"に気づくには十分だ。
少女は思わず身体を強張らせた。
言い表しようのない嫌なものを感じる。
「グルルル...」
狼が先程自分にしたよりも低く轟くような唸り声を上げた。
それを皮切りにでもしたかのように、遠くの地面からゆっくりと見えてきた"それ"は、更に大きくなる。
"それ"は、黒い液体のようなものだった。
気体のようにも見え、形を持つ別の何かにも見え、何もないはずの地面からじわじわと浮き上がって来る。
そして"それ"が染み出るようにして出てくる下の地面はどんどんと漆黒に染まっていくのだ。
「ひ、っ」
少女は胸の内に感じたものの正体を思い出した。
この感情の名前は、恐怖だ。
得体の知れないその黒い何かは、じわじわと形を変えながら畝っている。
少女の体は勝手に狼の太い首筋に寄り添い、きゅっと小さな手が狼の毛皮を掴んでいた。
近づいてはいけない、逃げなきゃいけない、あれは怖ろしい。
頭の中で警告音のようにぐわんぐわんと繰り返される。
本能が言っているのだ、叫んでいるのだ。
少女は本能に従い逃げようと身を動かす。
しかし、少女は忘れていた。自分の足に絡みついている黒い根を。
ぐんっと引っ張られ白い地面に倒れ込む。
「いっ...は、っ」
顔を歪ませ少女は呻く。
が、視線の先に見えたものに今度は全身の血の気が引いた。
地面から滲み出ていた黒い何かが、形を作りだしていたのだ。完璧な固体ではない、重力に反して空中に浮かぶ液体がうねりながら集まって形を見せていると言う方が正しい。
その姿は、正しく人間のそれだった。
真っ黒い塊りが人間の形をしている。
頭らしきものには顔が無い。
ボタボタとインクのようなものが顔から白い大地に零れ落ち黒い染みを作っていく。
"それ"は、ゆっくりと手を前に伸ばした。
ザワザワと黒い液体が動き、腕の先に手を象っていく。掌から指が生え、それらはまるで少女を手招くように動いた。
"こっちへ来い"とでも言うように。
「.....いやだ」
直感的に口が言葉を放った。
心の思うままに口をついて出ていた。
すると"それ"は、表情など無いはずなのにそれでも怒りを表すようにボタボタっと一層黒い液体を垂らした。
そして今度は腕を前に突き出して何かを掴みグッと引っ張るように自らの方へ引いた。
"'来イ!!!"
幾つかの人の声が混ざり合いノイズのように地面を這い少女の耳に突き刺さる。
その怒号に呼応するように、足首に巻きついていた黒い根がぶくりと膨れ弾けた。周囲にインクのような液体が飛び散る。
分裂し足首から太もも、腰へと少女の体を這い巻きついた根は、少女を"それ"の元へもの凄い速度で引きずっていく。
「っ!!いや、はなせ!やめろ!」
ずざざざと地面を引きずられ、地面に触れている肌に擦り傷が生まれた。なんという力だろう、抗えない。抗うことさえ無意味に思えた。
”それ”との距離はどんどん縮まって行く。
二ギィっと、黒い"それ"の顔らしきものの口元が左右に避け空洞が生まれる。
"それ"は、笑った。
ダァンッ!!!
突然の衝撃に少女の体は跳ね上がり、引きずられることこなくなった体は地面に落ち静止する。
全身に響く痛みに顔を顰めながら、少女は目を開ける。 視界一面に入ったのは、白い大きな背中だった。
「お、おかみ...っ」
白い大きな獣はその熊のような大きな前足で、少女を引きずる黒い根を踏みつけていた。地面を震わせるほどの衝撃で踏みつけられた黒い根は、まるで生き物のようにグネグネと身を攀じる。
主人の元へ戻ろうと「ギィィ」と言う音のようなものを発して身を捩る根を体重を開けて逃すまいとしながら、狼は鋭い灰色の眼光を"それ"に向けた。"それ"は左右に切り裂かれたような笑みを消し、対峙するように狼を見据える。
「グル"ァァア"ア"!!!」
鼓膜が破れるのではないかと言うほどの破壊音、力を溜めるように鋭い牙を噛み合わせ、その太い喉から咆哮を轟かせる。
体が痺れた。
背後の森の木々も、風が吹き荒れたかのように揺れ葉を重ね合わせザワザワと音を立てる。
まるで咆哮に強力な魔法でも掛かっていたかのように、"それ"の体が吹き飛び白い地面にぶち負けられた黒いペンキのようにビタビタッと打ち付けられた。
「っはぁ....、はっ....」
息を吸いっては吐きながら、ドクドクと煩く鳴る心臓をよそに思わず「おぉ」と声を上げてしまう。
狼はぐるんと少女に顔を向けその足元で今もうねっている黒い根にナイフのような牙を突き立てブツリと噛みちぎった。
「ギィィ!ギィィ!」と謎の音を出す根は体を千切られたミミズのように地面をのたうち回った。
少女の左足に絡みついた残りの根が、力を失ったかのように緩むと狼はそちらにも歯を立ててブチブチと引きちぎる。
やっと左足が軽くなった。
不愉快な感覚はまだ残っているも、漸く力が入りしっかりと立てそうだ。
地面に腕を突き立て足と腰に力を込めて少女は何とか立ち上がった。ここから逃げなければ、そう直感的に少女は思い、まだ黒い"それ"の残骸に目を向けている狼の首元の毛を引っ張る。
「あいつきえた、もういこう」
それでも狼は動かない。
唸るようにまた毛を逆立て始めた。
少女が見ると、飛び散った黒いペンキがそれぞれぶくりと膨れ、つい先程まで"それ"がいた場所へ引き寄せられるように集まっていく。
まだ終わっていないのか
「いこう、はやく、」
少女は初めて焦燥といものを覚えた。
このままここに居ていいはずが無い、逃げても果たして逃げ切れるのか、得体の知れない黒い物体がどんな力を持っているか予想もつかない。
小さな体で狼の大きな体を押すが、芯の通った力強い足が支える体はびくともし無い。
「きいているのか!はやく、っ」
声を荒らげる、という経験はこれが初めてだっただろうか。遠い昔にも誰かに同じようなことを言った気がするのだ。
フラッシュバックのように、少女の脳裏に一瞬だけ情景が浮かぶ。
その時も、世界はこんな風に白かった。
狼が少女を見た。
視線が合い、揺れる少女の瞳に対し狼の瞳は一片の狂いもなく真っ直ぐに少女を見ていた。少女は初めて、狼の瞳の瞳の中に色があることに気づいた。
その色の名を少女は知っている。
ーーー「"____"」
瞳から流れ込むように少女の耳に声が響く。
「え...、なに、」
ーーー「"___ロ、_キロ"」
「生きろ」
今度はハッキリと聞こえた。
全ての音が消え、その"声"だけが少女の世界に響く。
"う"ギァあ"ァァ"ぁア!!!"
背後で爆発のように黒い塊が弾け、無数の手がミサイルのように少女と狼に向かって押し寄せた。
「ガァア!!」
"走れ"
そう言うように狼が唸り、少女を押し出すようにして背を向け黒い"それ"と対峙した。
少女は突き動かされるように走った。
気づくとさっきまであった森が歪んで黒く染まっていた。"それ"の力がこの世界自体を歪めている。
背後を見ると無数の黒い手を相手に踠き戦っている白い獣の姿が見えた。
手の中の一本が鋭い刃に形を変えると、狼に向かってその切っ先を突き立てる。
「おおかみ!!!」
叫んだ。
戻らなければ、助けなければ。
痛みに顔を歪めた狼がそれでも少女に顔を向け吠えた。
「ガァア"アァ"ア"」
"行け!!!"
「っ...!!」
また幾つかの手が狼の白い体に突き刺さり、黒く染め上げていく。狼が悲鳴のような叫びをあげた。最期だ、と言わんばかりに狼の体中に突き刺さった刃を引き抜く。
黒く染まった狼が一瞬宙を仰ぎ白い地面に音を立て倒れた。
「あ、あ...ぁっ...あ"...」
目から何かが溢れ出てくる。
崩れ落ちた彼の姿が歪んで見えない。
これは何だろう、とてもとても、アツイ。
「やめろ"ぉ"ぉ"ぉ"!!!」
ギィンっと少女の叫び声が波動のように地面を駆け抜けた。黒く染まった世界も、少女へと手を伸ばす"それ"も、狼さえも、全て消し飛ぶ。
白い世界の壁にヒビが入り、ガラスが割れるように音を立てて崩れていく。輝くような光が少女を包み込み、途端、グイッと引っ張られる感覚に陥った。
ーーー
音が聞こえた。
何かが慌ただしく動き、忙しなく何かをしている。
電子的な警報音が響き、只事ではない様だ。
音をよく聞こうと意識を集中させる。
半ば叫び声のように繰り広げられる応答は、何かに遮られ朧気にしか聞こえない。
ー「何事だ!誰か説明しろ!」
ー「被験体:09のーーーの血中濃度が急激に減少しています、」
ー「なにぃっ!?このーー年の間眠り続けていたんだぞ、起きるはずがない!ーーーはどうした!?」
ー「制御不能です、効果がーーません!」
ー「馬鹿な!あらゆる技術を駆ーーて抑え込め!ヤツに逃げられては計画がーーするどころの騒ぎじゃすまなくなる!」
少女は頭の隅で、自分は長い間意識を抑え込まれていたことに気づいた。先程まで見ていた景色はすべて夢だったのか、だがそれにしては鮮明に覚えている。自分が体感したように。
あれは確かに現実だった。
痛む右足首、ドクドクとなる心臓、
何より、この抑えようのない怒りが証拠だ。
ガボォッ
体にずっと詰まっていたつっかえが抜けたかのように口から空気が溢れ出た。手足が動く、意識も鮮明になっていく。
ー「被験体:09が目を覚まします!」
最後に聞こえた言葉らしき言葉は、ガラスの破裂音によって掻き消された。
to be continue.
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