第4話

 一方、ステラに嫉妬されているとはつゆほども思っていないシリルは、マルクとの手習いの時間をそれなりに楽しんでいた。彼は本当に飲み込みが速く、記憶力もいいのでついつい教えるのが楽しくなってしまうのだ。

 「……今日はここまでにしよう」

 シリルがキリのいいところで言うと、マルクは文字をたくさん練習した紙切れを集めて胸に抱え、にこにこと頷いた。できた分をイリーナに見せに行くのが手習いを始めてからの恒例になっていた。

 軽い足音を立てながら部屋を出ていくマルクを見送り、シリルは小さく息を吐いた。それから真剣な眼差しになって窓の外に目を向ける。すっかり暗くなった外は、霧灯フォグランプの明かり以外には見えるものがない。

 (……そろそろ、ここを離れなきゃ)

 傷も、走っても支障はない程度には塞がっている。とうに準備はできているのだ。ただ、心だけが嫌だと駄々をこねていた。

 (……僕は、ここにいてはいけないんだ)

 マルクの手習いを自分への言い訳にずるずると居着いてしまっているが、親切にしてもらった分を仇で返すわけにはいかない。心優しくて温かな人たちに迷惑をかけることになってしまうことだけは避けたかった。

 シリルは知らず、胸のネックレスをぐっと握り込んでいた。今は状態も落ち着いているが、これの扱いについても考えなければならない。少々特殊な物質だからそこら辺に投げ捨てるわけにもいかず、それなりに思い出もある。こういうときの意志の弱さは我ながら嫌になるなとため息をついて、彼はベッドサイドに腰かけた。

 不意に、こんこん、とドアをノックする音が響いた。はっと我に返ると、そこにはエプロンをかけたイリーナが立っていた。

 「どうかした?ため息ついちゃって」

 「……いえ、なんでも……」

 まさか出て行く算段をしていたとは言えず口ごもるシリルを見て、イリーナはしばらく微笑んだまま黙っていたが、やがて不意に真面目な表情を浮かべた。そして、彼女らしくもなく躊躇いがちにこう切り出してきた。

 「……ねえ、シリル。あなたで良ければ、このままうちにいてみない?」

 「……え……───」

 思わぬ言葉に、シリルは掠れ気味に声を上げた。目に見えて表情が硬くなった彼に、イリーナは慌てて付け足すように続けた。

 「あなたが、人並みでない事情があるんだってことは薄々わかってるわ。でも……あなたと知り合って、マルクは目に見えて明るくなった」

 階下から、イリーナを呼ぶ声が聞こえる。マルクが夕食の準備ができたと急かす声だ。その声をききながら、女医は笑んだ。どこか儚くて哀しげな笑顔だった。まるで何かを懐かしむようなその表情に、シリルは何も言えなかった。それは、父が死んだ母を語るときと同じものだったから。

 「……父親を亡くしてから、寂しい思いをさせてきてしまったから。あの子が……マルクが、あんなふうに笑っていられるのは紛れもなくあなたのおかげだと思ってるのよ」

 イリーナは俯いた青年にそっと近づくと、その亜麻色の髪を撫でた。そうされることに慣れていないのか、シリルは困惑顔で彼女を見上げる。額にあった傷は包帯がとれ、今はすっかり薄くなっていた。

 「ごめんなさい、困らせてしまったわね」

 シリルはその言葉に目を伏せる。ああ、だから早くここから出て行くべきだったのだ。こんな言葉を言わせる前に。彼は数度深呼吸をした後、意を決して口を開いた。

 「……すみません。僕は────」

 そのときだった。にわかに一階が騒がしくなった。聞き覚えのある声が怒鳴り合い、すぐにばたばたと余裕の無い足音が階段を駆け上がってくる。

 そうして現れたのは、珍しく肩で息をして取り乱した様子のステラだった。

 「ステラ……?どうしたの───」

 イリーナの問いかけにも答えず、ステラは風のような足取りで二人との距離を詰めると腰かけていたシリルの胸ぐらを掴みあげた。中腰で立ち上がる格好になったシリルは、かは、と小さく息を吐いたが、ステラはまるで取り合わなかった。

 「───今すぐここから出て行け!!」

 狭い部屋全体が震えた。間近で見るステラの新緑の瞳は燃えるような怒りに彩られていて、シリルはそれだけで彼女が何を知ってしまったのか察した。彼女は黙ったままのシリルに苛立ったように舌打ちすると、腰のホルスターに手を伸ばす。それに息を呑んだのはイリーナで、彼女が止めに入る前に割って入ったのはベルンだった。彼は風のような足取りで部屋を横切ると、今にも銃に触れそうだった相方の手をひねりあげた。

 「馬鹿、こんなとこで撃つな!!」

 「っ、でも……!!」

 「ちったぁ冷静になれってんだ、この馬鹿娘!!人を脅すために、お前は銃を握ったんじゃないだろう!?」

 ステラは顔を歪ませてしばらくベルンを睨みあげていたが、最後には筋が見えるほどに握っていたシリルの服を放した。先ほどまで怒号の飛び交っていた空間とは思えないほど、その場には痛いくらいの静寂が落ちた。

 その沈黙を破ったのは、ステラでもシリルでも、ベルンでもイリーナでもなかった。かたん、と小さな物音に皆が一斉に振り返れば、そこには心配そうにこちらを覗くマルクの姿があった。

 「ねえ、どうしたの……?」

 「……マルク……」

 どう説明するべきか、大人たちの視線が錯綜する。その中で動いたのはステラだった。彼女は俯きがちにマルクの元へ行くと、その小さな背に手を添えた。

 「……ごめんね、うるさくして。ちょっと大人の話だから、終わるまで私といよう?」

 マルクはその言葉に戸惑いを浮かべたが、納得していないながらも小さく頷いた。そして、ステラの手を引いて部屋を立ち去る。その場の誰もが、少年の聡明さに感謝した。

 「……さて、それじゃあ」

 二人が階段を降りていく音を聞きながら口火を切ったのはベルンだった。彼はロングコートに雑に突っ込んでいた一枚の紙を引っ張りだした。それをまずはイリーナに示すと、先ほどあった事情をざっくりと説明する。

 「……こいつを、さっき同業のやつから貰ったのさ。そうしたらステラが走り出して行っちまって……足が速いったらなんの」

 ベルンの説明を聞きながら、イリーナはその紙に書かれた内容に呆然としている。ベルンは彼女の様子を横目に、目の前の青年を見る。彼は既にその紙に何が書かれているのかを悟っているようで、覚悟を決めたような表情をしていた。

 「……で、お前はどうこれを説明するつもりだ?シリル。さすがに、今回ばかりはだんまりは無しだぞ」

 ベルンはイリーナの手から紙を取り上げると、そのままそれをシリルの目の前に差し出した。シリルは何の感情も見せない瞳でそれを見下ろす。

 そこに書かれていたのは、引きのばされた画質の悪い青年の顔写真と───その下に記されたシリル・ルキオンという名前。それから、重罪人につき指名手配と赤字で書かれた一文だった。

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