第3話

 ベルンの起床は遅い。霧祓師ネベルイェーガーは夜型の仕事であるため総じて起きるのが遅い者は多いのだが、彼はその中でも一際遅かった。

 「ふぁーあ………よく寝たわ……」

 そう言って窓を開けて仰ぐのは、不揃いにもほどがあるたくさんの屋根に切り取られた夕焼け空だ。彼が住んでいるのは下層であるから、空を満足に臨むことはできない。下に行くほど、霧灯の明かりを眺める時間のほうが長くなる───それがこの大都市の姿だ。

 元々、ネベル=ヴァルドは谷間の小さな炭鉱町だった。街を見下ろすようにそびえる鉱山には潤沢な鉱脈が通っていたのだが、魔鉱石による技術革命が起こる前まではその価値が皆わからなかった。それが、近代技術の発達と共に需要が高まった。外との交易のために鉄道網と水運が発達していくに伴い、谷を浸食するように大きくなっていった。

 従って、この街は川を挟んで形成されている。西地区と東地区とに分けられた街は大小様々な連絡橋で繋がれており、ベルンが暮らしているのは下町として知られる西区下層である。庶民の暮らしぶりはそれほど豊かではないが、そのかわりに人情と活気に溢れている。

 「おや、ベルンじゃないか。今日も遅いねえ。うちなんかもう閉まっちまうよ」

 街を歩けば顔なじみが放ってはおかない。それが下町名物のお節介だ。まだ頭が切り替わっていないベルンに声をかけてきたのは、家近くで雑貨屋を営む親父だった。

 ベルンは肩をすくめてひらりと手を振る。

 「お疲れさん、親父。俺はこれから仕事だよ。今度飲もうぜ」

 「おう、お前の奢りでな。気をつけて行ってこいよ」

 「おうとも」

 「あら、ベルン!」

 流れるように今度は飯屋の女将がベルンを見つけた。げ、と思わず顔が引きつったベルンはそそくさと逃げようとするが、がっちり腕を掴まれる。この女将、伊達に日頃から旦那と張り合って厨房に立っていない。妙に腕力があって、近隣では腕相撲で勝てる者はいないと専らの噂である。

 「あんた、これから仕事かい?」

 「あ、あぁそんなとこだ」

 ベルンはこの先の話の流れを感じとり、寝ぼけた頭を叩き起こして全力で言い訳を考えはじめた。そんなことはちっとも知らない女将は、空いた片手を丸い顔に当てて残念そうにため息をついた。

 「なんだ……この間話した親戚のお嬢さんと引き合わせようって思ったのに。あんた、暇人そうに見えて掴まりやしないんだから」

 そらきた、とベルンは思った。この飯屋の女将は、ベルンがこのあたりに住むようになってからというもの何かと縁談を進めてくるのである。それさえなければ至極気の良い人なのだが。

 「いや、おばちゃん……何度も言ってるだろ?俺は所帯持つつもりはねえって。そういうのはもっと若いやつに回してやれよ」

 「なぁに言ってんだい!」

 ばしん、と背中をぶっ叩かれて、ベルンはがはっと息を吐き出した。しかしながら、そんなものは当然お構いなしで女将は腰に手を当てる。

 「あんた、まだ三十路前だろ?所帯持つにゃむしろちょうどいいじゃないか!それともなんだい?他にいい人でもいるのかい?今日という今日は逃がさないよ!」

 「いやぁ、これから仕事なんだけどなぁ!ったく……ほら、霧祓師は何かと特殊だし、生活リズムだってまるで違うだろ?そういうので、苦労はかけらんねえよ」

 正解でもないが外れでもないことを答えると、女将はまじまじとベルンの顔を見た。

 「あんた……意外と考えてんのねえ」

 「おばちゃんは俺をなんだと思ってんだ」

 そういうわけだから、と彼は女将の力の緩んだ隙を見逃さずに腕を引き抜くと、にやりと笑った。そうすると目つきの悪さも相まって妙に人相が悪くなることをベルンだけが知らない。

 「じゃあな、おばちゃん。そのお嬢さん、今度裏通りのパンセにでも紹介してやってくれよ。あいつ、彼女欲しがってたからさ」

 仰げば暮れなずむ黄昏の空。周りはめいめいに家路を急いだり、仕事終わりの一杯を求めて酒場をくぐる者たちばかり。そんな様子を横目に出勤するようになって、もう随分になる。先ほどの女将のように所帯を持てと口やかましく言ってくる者がいないでもないが、ベルンはそんな生活がそれなりに気に入っていた。

 


 イリーナの営む診療所は西区下町の大通りを少し入った路地にある。このあたりはどこにいっても道幅が狭く、建物と建物の間には洗濯物まで干してあるので、ベルンのように上背があるとたまに他人の下着が頭を掠めることもある。そんな日はついていないと割り切るしかないのだが、それはまた別の話だ。

 ゆったりと歩きながら診療所に到着してふと見上げると、ちょうど二階から知った顔が外を眺めているのが見えた。

 「よお、もう起きてて大丈夫なのか?」

 彼───シリルは、窓から少し身を乗り出すとこちらを見下ろして小さく頭を下げた。

 「……ベルンさん、こんばんは。おかげさまで随分楽になりました」

 ベルンはその言葉にふっと笑った。シリルを助けて早十日ほどが経ったが、傷の治りは順調そうだった。

 「おう、それなら良かった」

 そのとき、窓から小さな頭がぴょこんと飛び出した。母譲りの柔らかな金髪が夕方の風にふわりと揺れる。マルクはベルンを見つけると満面の笑みを浮かべた。

 「あっ、ベルンさん!こんばんは!」

 「おう、マルク。そんなとこにいたのか」

 「うん!今ね、シリル兄ちゃんに読み書き習ってたんだ!」

 マルクは嬉しそうに今の今まで文字を練習していたらしい紙切れをベルンに示す。遠目でもよく見えるほど大きく書かれたそれはまだ線も覚束ない様子だったが、どうやら自分の名前を書いていたようだ。シリルを見ると、そんな彼を見て小さく笑っていた。

 「……治療をしてくださるイリーナさんとマルクへの、ほんのお礼です。僕にできることはこれくらいですから……それに、マルクは覚えが早くて教えがいがあります」

 「へーえ、大したもんだなぁマルク」

 少年は至極嬉しそうにえへへ、と笑った。彼のことは小さい頃から知っているが、あの顔はいっとう嬉しいときの顔だ。少し内気なところのあるマルクだが、“兄ちゃん”と呼んでいるところを見るとシリルとの相性は思いの外良かったらしい。

 他愛ない話で盛り上がっているうちに、ドアが開いてイリーナが顔を出した。彼女はベルンの姿を見て取ると、いつものふわりとした笑顔を浮かべた。

 「あら、ベルン。そんなところにいないで入ってきたら?」 

 「今、マルクたちと喋ってたとこなんだ。あいつら随分仲良くなってんな?」

 ベルンが戸口に背を預けて言うと、イリーナはそうなの、と母親の顔で笑った。

 「ふふっ、マルクのおかげでシリルは無理に動こうとしなくなったし、私は治療に専念できて、マルクには先生ができて、一石何鳥になるかしら」

 元々身体の弱いマルクは同年代の友だちも少なく、気も塞ぎやすかった。見かねたイリーナが診療所を一緒に手伝ってほしいと言ってから随分明るくなったが……ああやって家族でもなんでもない他人と親しくしている様子は珍しいから、イリーナとしてもとても安心したのだろう。優しい表情で話す彼女に、ベルンはそっか、と相槌を打った。

 「────準備、できたんだけど」

 刺々しい声が飛んできたのはそんなときだった。見れば、二階へと続く階段付近の壁に寄りかかってこちらを半眼で睨むステラがいた。ベルンは今にも銃をぶっ放しそうなオーラを纏った相方に引きつった表情を向けた。

 「……お前は荒れてんなぁ」

 「うるさい」

 ぶっきらぼうに言った彼女は、口をへの字に曲げたままイリーナに行ってきます、と告げてベルンの目の前を横切っていく。ベルンはため息をひとつついてイリーナに手を振ると、診療所を後にした。

 すると、数歩としないところで二階を見上げるステラを発見する。先ほどまでシリルとマルクが顔を覗かせていた窓からは、マルクの楽しそうな笑い声が聞こえていた。ベルンは不意にステラの不機嫌の理由に思い当たって、にやりとする。平素は年頃の娘にしては大人すぎるのだが、やはりこういうところは大人になりきれないらしい。

 「……ははあ、さてはお前。シリルにマルクを取られた気分になってんだろ」

 ステラは図星をつかれた顔になったが、しばらく黙ってふいっとそっぽを向いた。

 「……子供っぽくて悪かったね」

 彼女にしては珍しく素直に認めた。ベルンはやれやれと肩をすくめると、ステラを追い越して歩き始める。そして、遅れず横に並んだ少女に言った。

 「別にいいんじゃねえの?普段ならあいつはお前にべったりだもんな、そら寂しくなるのも当然だ」

 ステラは先ほどよりも幾ばくか長く沈黙したが、やがてぽつりと呟いた。

 「………あんたに言われると腹立つけど、図星だから何も言わないわ」

 ベルンは、そうかよ、とだけ答えて、それきり二人は黙った。そうして結局仕事場まで、彼は久しぶりに素直な相方と夕暮れの雑踏を聴きながら歩いたのだった。

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