第10話井田と未来
「大人になるってことは、諦める癖をつける事だと思うんだよね。歳をとればとるほど、スパッと何もかも諦めることが出来るようになるんだよ。まあそりゃそうだよね、おじさんくらいの年になると、何か新しいことを始めようと思っても体力も気力もないんだもん。その癖若い子が新しいこと始めると、何だか時代に取り残されたような気がして、ついつい茶々入れたくなっちゃうんだよね。ビットコインとかいい例だよ。株式とかならまだ理解出来るんだけど、ビットコインなんて実態のない通貨、どうして価値があるのか理解出来ないんだよね。君、ビットコインの価値解る?」
ビールを啜りながら中年男は尋ね、私も腕を組んで少し唸った。私のような若い男に恥ずかしげもなく尋ねられる中年の男というのもなかなかいない。私が今まで出会った中年の男女というのは、長く生きた知識量で我々にマウントを取ろうとする輩ばかりだったが、この中年男は、新たな知識の吸収に全く抵抗がないどころか、寧ろ迎え入れようとする柔軟さが見える。幸い、私は少しビットコインを齧っているので、答えられなくもない。出来る限り正確かつわかり易く伝えたいところだが、果たして私にその実力はあるだろうか、少し不安なところだ。
「あ〜……ビットコインというか、仮想通貨に価値があるのは、恐らく今出回っている日本円に価値があるのと同じ理由だと思います」
「日本円と同じ? ビットコインと日本円は全く違うものでしょ」
「私も専門家ではないので詳しく説明することができないのですが、例えば一万円札を一枚作るのにいくら位かかると思いますか?」
「え? そうだなあ……十円とか?」
「そこまで安くはないのですが、大体二十二円だそうです。でもそれっておかしくないですか? 原価二十二円の一万円札が、ちゃんと一万円として使えるなんて」
「いやいや、日本円は世界各国から信頼されている通貨だから、別におかしくはないよ。為替でも日本円はちゃんと買われているし、不景気とはいえ日本企業はまだまだ世界とも張り合っているしね。それらの総合的な評価の現れなんじゃないのかな」
「しかし、どんな大企業でもいつ倒産してしまうかわからないのが今の時代です。そんな中で、なぜ世界各国は日本円を妄信的に信頼しているのでしょうか」
「いや、そんな今日明日で簡単に倒産するとは思えないし……」
「要するに、日本円に限らず通貨が通貨として運用することができるのは、これひとえに共同幻想のおかげなのです。明治時代ならば、金と交換できる券として出回った通貨ですが、今となっては、世界中の人々が通貨としての価値を認めれば、その通貨は通貨として価値があるのです。そこに実態などはありはしません。日本円もそうです。そして、仮想通貨もその例に漏れません」
「……ふうん」
納得しているのかしていないのかわからないが、中年男はただ腕を組みながら、私の話に頷いた。あくまで今話したことは、私が見たり聞いたりしたことをただ話しただけにすぎないので、これといった確証はまったくない。ただ、私が納得できるような話がこれだっただけなので、話しただけだ。
少し沈黙が流れると、中年男はただなるほど、とつぶやいた。
「いや、なかなか為になる話だったよ。こんなおじさん相手に丁寧に説明してくれる若い人なんてなかなかいないからね。貴重な体験だよ。いやぁ、長生きはするもんだ」
「お役に立てたのなら私も嬉しいです。なんせ暇ですので」
「暇か…………ひっ!」
中年男は突然悲鳴を上げると、膝にかけていた上着を羽織り、そそくさとテーブルの上に一万円札と名刺を置いて立ちあがった。
「いやぁ、為になる話ありがとう! これは授業料だと思って受け取ってくれ! それと、就職先に困ったらここに電話するといいよ!」
「え、いや、それはまずいですよ」
「いいからいいから! 若い内から遠慮を覚えたら出世できないよ! それじゃ!」
まるで何かから逃げるように中年男は立ち去り、また雪菜と2人きりになってしまった。見ず知らずの人でもいなくなってしまうと寂しいものだ。
中年男が置いていった名刺を手に取り、内容を確認すると、書かれている役職に一気に酔いが覚めた。
尾張工業専務 長門正雄
尾張工業という企業は聞いたことはないが、専務という肩書きに、先程まで話していた中年男、いや、おじ様の印象が酔っぱらいから重役に大出世した。知らぬが仏とはまさにこの事、私は何の気なしに専務相手に高説を垂れてしまったのだ。失礼がなければいいが、なんだか気が気でなく、この居酒屋ですら居心地が悪い。
「い、いやぁ、あのおじ様専務だったんですねえ。只者ではないとは思っていたんですが、ねえ、雪菜さ…………ひっ!」
話を雪菜に振ろうとしたその時、私は雪菜の眼光に、私は息が詰まった。ジャッカルのような鋭い視線を私に向けて解き放ち、眉間によったシワが自身の不機嫌ぶりを大々的に主張している。まずい、おじ様との会話に花が咲いてしまったのが悪かった。あんな話が雪菜にとって面白いわけが無い。全く考慮に掛けていた。
「………誠くん、絶対女の子からモテなかったでしょ?」
くざっと刺さる一言に、私は胃袋からせり上がってくる何かを必死で飲み込み、「え、ええ」と力なく頷いた。女性からモテなかった事を指摘されるのはこの上なく傷つく。何よりも否定することができない事実であることを自覚するのでダメージは二乗だ。ああ、確かにモテたことなどない。どうだ、笑い話にでもなりますかと皮肉を効かせたいところだが、そんなことを言ってもただ悲しいだけだ。
しかし、ここでふと、モテるという言葉を久しぶりに聞いた事に気がついた。ここ3年間、モテるモテないというワードを重要視するような生活をしてはいなかった。カレンダーと仕事の出勤表を睨めっこしながら、今日の仕事をどうやってこなしていくか考えて日々を過ごして生きてきた。我ながら真面目に生きていたようにも感じるが、その真面目な生き方と言うのは世間では当たり前のことであり、別段褒められるようなことではない。仕事を中心に予定を回し、仕事の前には私情を挟んだ日程をいれるなど言語道断。それが当たり前、それが出来ない人間は人間ではない。そんなふうに言われているような気がして、私は日々の閉塞感と必死に戦ってきた。
今考えてみれば、そんな日々が嫌なら一度抜け出せば良かったのだ。今の生き方は甘ったれの生き方なのかもしれないが、ならば甘ったれを快く受け入れ、自分らしい生き方を模索すればよかったのだ。見よ、おかけで忘れかけていたこの感覚が、感情が、息を吹き返しているではないか。そう、私は甘ったれのクズ野郎だ。故に私を止められる者などどこにもいない。運命よそこをどけ、私が通る。
「…………なんで少しうれしそうなの?」
「へ? あ、いえ、何ででしょうね。私にもわかりません。きっと酒で頭が少し惚けているのかもしれませんね」
「その調子じゃあずっとモテないわよ」
「ハハハ、間違いないでしょうね……」
空笑いをすると、雪菜はため息を吐いて、温くなってしまったビールを一気に飲み干した。お互いこれ以上飲むつもりはないので、先程貰った一万円札と名刺を手に、会計を済ませて早々に外に出た。雪菜はまだ不機嫌なようで、こちらを見ようともしない。男を宥めるのは容易いことだか、女を宥めるのは身内でも難しい。こんな空気で明日から同じ車に乗って旅をするのだと考えると、耐え難い苦痛だ。
「……さっき話していたことって、なんなの?」
雪菜としても少し気まずくなったのか、何の気もなしに突然口を開いた。
「ああ、仮想通貨の話ですか?」
「なんだか妙に詳しかったけど、やっていたの?」
「まあ、手を出していたという程の金額はかけてはいませんが、ほんの少しやっていましたね」
「そうなのね、儲かった?」
「儲かったか、と言えば儲かりました。元々失ってもいい金額で取引をしていましたので、ある意味色々と挑戦することが出来ましたので。それに、ビットコインバブルに上手いこと乗っかることが出来ましたので、ある程度儲かったら鰻を食べに行きましたよ」
「あら、なかなかブルジョワね」
「慶応のお嬢様には負けますよ」
「ふふ、そうね」
私の返答にクスッと雪菜は笑い、少し眉間のシワが和らいだように見える。ただ会話をしているだけだが、この会話をするということに重きを置いているようだ。
「ただ、それも余り長くは続きませんでしたけどね。ビットコインバブルは早くに弾けてしまって、一時期1ビットコイン二百万だったのが、今となっては百万円を切るようになってしまいました。私はその時、ビットコインを買わずに別の仮想通貨を買っていたのですが、それでも価値は投資額の半分になってしまいましたよ。失っても問題ない金額で取引していたのでダメージは大したものではありませんが、やはり失った物は惜しいです」
「それはご愁傷さまね」
「いえ、投資をやめるいい機会でしたよ」
過去の失敗も、こうして話すことが出来ればいい思い出だ。それに、ビットコインに関しては私よりも酷い痛手を負った人も少なくない。何せ、半額以上の下落で借金まで背負うハメになった投資家もいれば、首を括った者すらいるというのだから、私などまだまだ軽いものだ。
「………先程はすいませんでした。つい話に花が咲いてしまって」
「本当よ。あの疎外感を一度貴方に味あわせてあげたいわ。でも、もういいわ。そんな気にしていないし、あのセクハラおじ様からお金もいただいたしね」
「そうですか、それならよかった」
これで今後の旅路も安心することができるだろう。胸をなでおろすとホテルに到着し、フロントで鍵を受け取るとお互いの部屋へと別れた。自室に戻ると、私は最初に来たようにベッドに倒れ込み、窓の外に目を向ける。相変わらずどこまでも続くビル群しかないが、見慣れればそう悪いものでもない。私はいつからか、このビル群に囲まれて暮らしている人々は皆、この灰色のビルのように無味透明な人種しかいないと決めつけていたらしい。だが、それは大きな間違いだと今日わかった。今日会った尾張工業の専務のおじ様はなかなか味のある人間だったし、考えてみれば雪菜だって名古屋よりも栄えている東京の住人だ。結局、私は井の中の蛙だったのだ。こうして旅にでも出ない限り、その事実に気づくことすらできずに、一生を終えてしまうかも知れなかったのだ。自分の視野の狭さに顔が熱くなる。
スマホの時計を確認すると、十時ちょうどと記されている。今日はもうシャワーを浴びて早く寝よう。明日もある。
ドロップアウト1年生 成神泰三 @41975
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