第9話井田と酒2

「自制心ですか……」


 酒に酔って自制心が効かなくなる、その言葉には確かに同意せざるおえない。私の場合、自制心がまだ働く範囲内までしか飲まないように心掛けているが、私の友人などには酒を免罪符にして羽目を外す輩が多く、しかも本人たちは全く悪びれるそぶりも見せない。その手の輩にとって、酒というのは、酔った勢いという免罪符が欲しいだけで、ようするにアルコールであれば何でもいいのだ。恐らく、戦後直後に出回った粗悪な密造酒でも構わないのだろう。あの人体に酷く有害なメチルアルコールでも、喜んで水のように飲むに違いない。


 酒をどんな風に飲もうと勝手ではあるが、迷惑をかける前提で飲むのはやはりいただけない。どうせ飲むのであれば、おいしい酒を楽しく飲みたいものだ。


「私みたいな弱い人間は、すぐにお酒に頼る節があるわ。お酒を飲んでも、何の解決にもならないのはわかっているけど、お酒を飲んでいる時は何も考えなくなるから、ついついね。だから、お酒は大人数で飲まないようにしているの。きっとろくな事にならないから」


「ははは、まあ適度に飲めば薬ですから。ただ、その適度がわからないから苦労するんですよね。私なんか、飲み始めの内は適量が全く分からなくて、いつもトイレと睨めっこしていましたよ」


「私は未だにそうよ」


 ニコリと笑みを浮かべる雪菜に、私は声を上げて笑った。本人は冗談のつもりで言っているのか、また何が面白いのかわからないが、とにかく私は笑って見せた。酒の力のおかげで、今なら箸が転がる様子を見ても笑いがこみあげてくるだろう。どうやら私にも酔いが回ってきているようだ。少しペースを落として飲まなければ……早急に前言撤回することになるだろう。


 一通り笑い終えると、またジョッキに口をつけて、ビールを煽る。最初の一口に比べれば、やはり味は落ちてしまうが、ビールの炭酸がもたらす清涼感が私の後ろを押す様に、どんどん喉に落ちていった。気づけばジョッキは空になり、底に泡が寂しげに残るのみとなり、それは雪菜のジョッキも同じの様だ。お互いまだまだ飲むことはできそうだが、ひとまずビールのお替りを頼む前に、何か胃袋に詰め込むべきであろう。できれば、油物を食べて、胃袋をコーティングしたいところだ。


 メニューを開いて、何かいいものはないだろうかと捜索すると、名古屋コーチンのから揚げという魅惑的なワードを見つけた。名古屋コーチンといえば、名前に名古屋の名前がついている通り、名古屋の名産品ではないか。名古屋コーチンは一度も食べたことはないため、正直あまり普通の鶏と違いがないように思えるが、名産品を食べずして何が旅なのだ。近くを通りかかった店員を呼び止め、代わりのビールとから揚げを注文した。ビールは素早く来るのだが、唐揚げは調理の問題で少し時間がかかるらしい。ビールを啜っていれば、時間など気にはならなくなるだろう。


 オーダーを受け取った店員が、厨房の方へ消えて数分経つと、二つの並々にビールが注がれたジョッキを二つを両手に持って再び現れ、私の前に置かれた。私は苦い泡を舐めとるように啜り、唐揚げ到着までに酔っ払ってしまわないように酒を体に馴染ませていく。私は元々酒に大して強くないので、味の変わらないウイスキーなどはゆっくりと飲めばいい話なのだが、ビールや酎ハイのような温くなると不味くなる飲み物となると、冷たいうちに、かつ酔わないように急いで飲まないといけないという無茶苦茶な条件が発生する。それでも何故ビールを頼んでしまうのかは、最早一種の病気にかかっているからなのだろう。


 そんな私に比べ、雪菜は見ていて気持ちがいい程ビールを平らげ、既に2杯目のジョッキの中身はあと半分ほどしか残っていない。特に顔色も変わっている訳ではなく、明らかにアルコールに強い肝臓を持っているようだ。


「……ふふふ、変な飲み方ね」


 泡が無くなり掛けたところで、雪菜がケラケラと笑い、ジョッキを空にする。確かに変な飲み方だろう、喉越しが命のビールに対する冒涜と取られてもおかしくはない。


「やっぱり変ですかね?」


「ええ、そんな飲み方する人初めて見たわ。そんなに泡が好きなの?」


「いえ、極端に酒に弱いのです。なのにビールは好きなんですよ。困ったものです」


「みたいね。貴方もう顔が真っ赤になっているわよ」


 まだ少しツボにハマっているのか、くつくつと笑い声が口の端から漏れ出すのを抑えきれない雪菜に言われ、私はスマホのインカメラを起動して自分の顔を確認してみると、確かに雪菜の言う通り、顔が赤くなっている。酒に弱いと自覚はしていたが、ビールを一杯飲んだだけでこんなに赤くなるとは思わなかった。もともと色白なのが原因の一つなのだろうが、それにしたって赤すぎる。最初の一杯目でぐびぐびと飲んでしまったのが悪かったのかもしれない。から揚げが到着するまでは飲むのを控えたほうがよさそうだ。


「あら、もう舐めないの?」


「ええ。行儀がこの上なく悪いのと、からかう人がいるので」


「別にからかってなんかいないわ。犬みたいでかわいいくらいよ」


「それをからかうというのです」


 アルコールが原因なのか、雪菜の言動に遠慮という言葉がなくなってきている。とはいえ、これから当分行動を共にすることを考えれば、このくらいのほうが丁度いいくらいなのかもしれない。我々は出会ってから一日しか経っていない状況で、お互い他人行事のまま、気まずく時間をかけて関係を構築していくよりは、酒の力を借り、多少のリスクを背負ってでもショートカットをして手早く人間関係を構築したほうが、お互いこの先衝突するであろう問題を円滑に解決する手助けになるに違いない。


「お待たせしました~」


 愛想のよい笑顔を振りまきながら、テーブルの上に山盛りのから揚げを置くと、店員は素早くほかのお客のオーダーを取りにどこかへと消えていった。待ちに待った名古屋コーチンを使用したから揚げは、見た限りだと普通のから揚げと変わらない、ただのから揚げだ。逆に言えば、その姿を見せるだけでよだれが垂れてしまうから揚げを、完璧に演じ切っている素晴らしいから揚げでもある。早速一つ箸でつまみ、がぶりとかぶりついてみると、程よい噛み応えと甘い脂が私の口の中を素早く制圧した。旨い、これはうまい。私がいままで食べてきた母親手作りのから揚げもうまかった。しかしこのから揚げも母のから揚げと負けず劣らずの特別なうまさで構成されている。母のから揚げとこの名古屋コーチンのから揚げを比べることは私にはできない。なぜなら、料理として完成されているから揚げに順位をつけることなど、到底できないからだ。究極と至極、どちらが上かと聞いているようなものだ。そんなもの比べられるわけがない。


 こんなうまいものを食べてしまえば、ビールを解禁せざる負えないだろう。から揚げの油で口の中がべとべとになった所を、ビールの清涼感が洗い流し、胃の中に落ちていく。先程まで酔っぱらうことを恐れていた自分に愚かしさを感じる。酒を一滴でも口の中に入れてしまえばもうすでに手遅れだということを、何故いつも気づかないのだろうか。一度火のついてしまったガソリンに水をかけたところで、更に火が広がってしまうことなど簡単に想像つく。そこらへんを綺麗ごとで片付けようとするから、いつも問題が山積みになってしまうのだろうな。それに比べていくら山積みになってもすぐ消え去ってしまうから揚げの優秀なことよ。


「おいしそうに食べるわね」


「ええ、うまいので。雪菜さんも食べてみては?」


「貴方の食べっぷりを見ているだけでお腹いっぱいよ」


 そう言って雪菜は追加のビールを注文をすると、また水のようにビールを飲み干していく。私がまだビール二杯目を半分以上残していると言うのに、雪菜のジョッキはまるで魔法でもかかっているのかと言うほど、簡単に溶けてしまう。それでいて顔は全く赤くならないのだから、感服せざる負えない。私なら今頃トイレに行くタイミングを見計らっているところだろう。


 考えてみれば、雪菜はお通し以外、何も口にせず酒を飲み続けているのだから、これが酒豪でなければなんだと言うのか。見ていて体に悪そうだが、タバコを吸っている私から何か意見するのも何処かおこがましいような気がして、結局何も言わずに黙って唐揚げを食べるのみとなった。


 ああ、しかし美味い。これなら二杯目のビールも難なく飲み終えることができるだろう。とてもいい気分なので、ここらで酒を飲むのは辞めた方がいいだろう。このいい気分のまま、ホテルのベッドに寝っ転がるが吉とみた。


「よお、アンタら観光で来たんか?」


 唐揚げを貪っているところ、突如中年の男に声をかけられ、何事かと男に顔を向ける。恐らく仕事帰りなのだろうか、スーツ姿でジョッキ片手に完全に出来上がっている様子だ。絡み酒だとしたらメチャクチャめんどくさいが、無下に追い払うのも可哀想だ。とりあえず、当たり障りのない世間話でもしてさっさとご退場願おう。


「ええ、まあそんなところです」


「かぁぁぁ、平日に旅行とは随分といい身分だねぇ。ま、そんなこと出来るのは若い内だけだもんな。やれるだけやっちまうのが利口か。君達は学生かい?」


「ええ、彼女は大学生ですね」


「ほっほう」


 中年の男は品定めをするような目つきで雪菜を見つめ、雪菜は愛想笑いを浮かべて頷いた。ひしひしと雪菜から不機嫌のオーラが伝わり、なんだが居心地が悪い。嫌だろうなぁ、見ず知らずの中年男にジロジロ見られるのは。つくづく男として生まれてきてよかった。


「で、君は違うのかい?」


「ええ、私は高卒の社会人です。今は辞めてしまいましたけど」


「辞めた? そりゃどうしてだい?」


「社会人に向いていないと思ったからです」


「…………ああ〜」


 難しい顔をしながら中年男は唸り、なんと言ったものかといった表情だ。罵詈雑言でも浴びせてくるのかと思いきや、やはりお互いまだまだ初対面、ここで何か言うのも気が引くのだろう。


「社会人に向いているも向いていないもないって言えばそれまで何だろうけどね、おじさんも君の言いたいことは解るなぁ~。社会の為に働く姿勢は立派だろうけど、それで喜ぶのは社会であって、結局自分の為になるほど社会が何かくれる訳じゃあないからねぇ」


「いえいえ、きっと間違っているのは私の方ですよ。私は社会から逃げているわけなんですから」


「いやいや、社会に忠義立てするほどこの社会が健全に回っているわけじゃないから困った所だよ。おじさんぐらいになるとさ、今のまま何も考えずに社会にいたほうが楽だから何も言わないけど、君と同じくらいの時には色々と憤慨していたよ。ただ、憤慨したところで、俺達個人の声なんてちっぽけなもんだと諦めるようになっただけさ」








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