第8話井田と酒
ナイーブな気分に落ち込むと、立ち上がる以前に気力も無くなってしまう。旅立つ前に、この自由からは逃げないと決めたのだ。ホームシックになるなど、不覚悟の現れである。そう、武士のように猛々しく、ただ己の道を進むべきなのだ。理想としてはそうだ。しかし、ただ山が見えないだけでこの気分の落ちようは、我ながら驚きであり、今後の旅路に影響を及ぼすのではなかろうかと、ふと不安が襲う。襲われようが、既に自らの手で賽は投げてしまったのだから、何を今更と蔑む自分もいるが、とりあえずは帰ってみてもいいのではないかと肩を叩く自分もいる。全く、私は何がしたかったのだろうか。
「はい、飲むでしょ?」
目の前にエナジードリンクを差し出され、私は力なく受け取ると封を開け、じゅるじゅると吸い取るように、ゆっくり喉に流し込んだ。疲れている時のエナジードリンクほど、生きている実感を与えてくれるものはない。毛細血管に流れゆく血液や、心臓の一泊が、エナジードリンクにこれでもかと含まれているカフェインを体全身に送り出し、一時的な集中力と元気を沸き上がらせる。ああ、美味し。
「ありがとうございます、雪菜さん」
「いいのよ、少しは元気になった?」
「はい。もう少し休んだら、出発しましょう」
「あ、それなんだけど……」
「はい?」
「もうそろそろ時間も三時になるし、ここらで今日は休まない? 名古屋なら、泊まれる所もいっぱいあるし、このまま走って事故を起こすよりはいいわ」
雪菜さんの提案は、私を案じてのことだろう。確かにこのまま走り続けて、いざ休もうとして近くに何も無いとなると、車中泊をすることになり、風呂に入ることすら出来ない。それは女性である雪菜には耐え難い苦行だろうし、私も狭い車内で2人で寝ることにいささか抵抗を感じる。
しかし、この高いビルのそびえ立つ名古屋に一泊するのも、正直嫌だ。あのそびえ立つビルの下には、私の故郷である長野とは比べ物にならない人々が往来していることに違いない。長野の駅前ですら息苦しさを感じる私からすれば、それこそ苦行である。ワガママを言っている場合ではないのだが、こればっかりは育った環境が違いすぎて受け付けないのだ。
ちらりと雪菜を見ると、こちらの返答をまだかまだかと待っている様子。少し落ち着きがないのは、今日は色々あったので雪菜も少し疲れているのだろう。私一人の旅ならば、体に無理を言わせて走らせているが、現実そういう訳にもいかない。結局、ここらが休みどころなのだろう。
「わかりました。そうしましょう」
まだ気だるさが残る両足にムチを打ち、また引き摺るように車まで歩くと、私の体がまだ言うことを聞くうちに名古屋市街を目指し、エンジンをかけた。現在地点の尾張一宮でも充分に発展しているが、選択肢は多い方がいいということで、とりあえずは中心街を目指し、15分ほどで到着予定だ。
パーキングエリアを出て、加速車線で本線との合流を図ろうとするが、これがなかなか難しい。交通量の多さが原因の一部であることは間違いないのだが、それ以上に車の流れが早すぎる。全く寸分の隙も見せない本線と、どんどん先がなくなっていく加速車線に焦りを感じていると、一台、私に道を譲ってくれる車が現れた。今の私を哀れんで、わざわさ譲ってくれたのだ。ありがたい、私のような田舎者に、道を譲ってくれる心優しきものがいたとは。私は本線に合流すると、譲ってくれた後ろの車にハザードを照らして礼をすると、少し心に余裕を持って名古屋中心街へと向かった。
やはりと言うべきか、高速を降りていざ下道を走ってみると、名古屋は高速道路から見て想像していたよりも、ずっと発展した所であった。かつて織田信長が治めた尾張の町として相応しいほどの活気と交通量に、私は胃袋が縮まり、いよいよを持って覚悟を決めないといけないようだ。この車の中は、守られているという安心感があるので、まだ逃げ出さずにいられるが、一歩外に出れば、自分の身一つであの人々の大海をかきわけながら進まなければいけない。本物の海の方がどれだけマシだろうか。
カーナビに記された最寄りのビジネスホテルに車を止め、意を決して外に出ると、待っていたと言わんばかりの息苦しさが襲いかかり、思わず立ちくらみが襲う。歩けなくなる前にホテルのフロントへ駆け込み、部屋が空いているか確認すると、どうやら空いているらしい。今度からは予約するようにと受付に怒られてしまったが、今の私はそれどころではない。
「六時ころになったら、フロントに集合して、夕食を食べに行きましょう。それまではお互い自由時間ね。少しふらふら会うているようだし、ゆっくりしてね」
「ええ、そうします」
私が頷くと、雪菜はルームキーを私に手渡し、先にエレベーターに乗って自室に向かい、私も後を追う様に、エレベーターの呼び出しボタンを押した。エレベーターの利用者は私以外にも多くいるようで、牛歩のようにいろいろな階で止まり、ゆっくり下がっていくエレベーターをまだかまだかと待ち続け、到着すると駆け込むように乗り込み、そのまま自室へと直行して、荷物をそこらに放り出すと、ベッドに身を沈めた。ふとスマートフォンで時間を確認すると、デジタル表記で3時半と記されている。
ああ、それにしても疲れた。外を眺めてもビル群しか目に映らず、私の疲労を癒すような光景は広がりはしない。非常に困ったことだ、最早寝るしかないのだが、人間疲れがある程度まで酷くなると、眠気すら襲っては来なくなる。やることと言えば、特に何も考えずに、テレビを付けるか、スマートフォンを眺め続けるくらいしかない。
机の上に置かれたリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を入れると、地元テレビ局の番組が放送されていた。何処の地方テレビ局も似たようなものかもしれないが、やはりこれといって面白いと思えるような番組に出会ったことがない。そもそも、面白いと思ったチャンネルなどココ最近は無かったので、ここ5年はニュース以外の番組を見ていない。アメリカでは、テレビは貧乏人の娯楽と言われているが、今だとインターネットがそれに該当するだろう。手軽に多くの情報を手当り次第漁ることができて、まるで何でもかんでも知り得ているような錯覚に陥る。中学の時、その錯覚にどハマリして、何でも知った気になっていたのはいい思い出だ。インターネットで完結するほど、この世界は単純ではないという事に気づくまでに、大した時間はかからなかった。
特に何も考えず、ただただ目の前に流れるテレビを眺めるというのは、これ程非生産的な行動はないと思う反面、社会から離反した今の私と世間を繋ぎとめる数少ない手段となりつつある。人によってはインターネットの方がいいという意見もあるのかもしれないが、インターネットは街行く人々を映し出したりはしない。今流れている番組のように、レポーターの後ろで各々の時間を享受する人々を眺めることは、インターネットでは出来ないのである。こうして眺めていると、喫煙所から眺めるあの光景と似たような感覚を呼び起こし、これはこれで良いものである。この先ホテルに泊まることも多くなるのだから、出来るだけテレビを見るようにするのも悪くは無い。
しばらくただテレビを眺めていると、やがてレポート番組は終わり、今度は全国ネット版のニュース番組に切り替わった。今日も今日とて日本国内では様々な闇と光を生み出しているようだ。政治家の横領や芸能人の不倫、貧困層の苦しみの喘ぎやスポーツ選手の栄光。すべて私の目の前で起きている訳ではないのだが、私が認知していない所でも、人が生きているという確かな証拠。自分の認識していない所でも確かに時間が流れているという事に、社会から離反してからより一層不思議に思うようになった。
「……そろそろ時間か」
ずっとこうしてテレビを眺めているのも悪くは無いが、待ち合わせの時間が近づいていた。テレビの電源を消し、財布をポケットにしまうと、ロビーに直行した。時刻は五時五十分、少し待てば雪菜も来るだろうと踏んでいたが、既に雪菜はロビーのソファーに腰掛け、私を待っていたようだ。雪菜は恐らく立派な社会人になれるだろう。
「お待たせしました」
「あら、疲れはとれた?」
「ええ、お陰様で」
軽く会話をすると、雪菜は立ち上がり、今日の晩餐にありつく為、二人揃って名古屋の夜に繰り出した。やはり発展している名古屋は、夜になっても人の勢いが止まることはなく、道行く道に人々の波が流れていた。仕方ないとはいえ、あの波に飛び込むのは抵抗感を感じる。少したじろいでいる私を他所に、雪菜は迷うことなく人の波に飛び込んで行った。涼しい顔で人の波を御していく雪菜の姿は、さしずめ歴戦の海女さんといった所だろうか。流石に慶應に通い、東京で暮らしている人は違う。都会で暮らしている人は、この人の波が日常風景と化していると言うのだから、感服する。毎日この光景を眺めることになるとすれば、私なら窒息死してしまうだろう。
すいすいと人の波を避けていく雪菜の後ろを着いていくと、不思議と疲れない上に、人々の圧迫感も大分和らぐ。この調子であれば、当分の間は歩き続ける事ができるだろう。
「ところで、何処のお店にいくかもう決めてる?」
「いえ、特には何も決めていないです」
「そう、なら適当なお店でもいいわよね?」
「ええ、目に入った店に入りましょう」
そうして歩き続ける事数分、個人経営の居酒屋が目に入り、そこに入ることにした。内装は木目調で少し古臭い印象を受けるが、客は意外と入っているので、それなりに繁盛している老舗といった所だろう。適当なテーブル席に座り、二人して生ビールを注文すると、先にお通しの冷奴を渡され、少し遅れて生ビールが届いた。
「お疲れ様、乾杯」
雪菜の音頭で乾杯すると、雪菜も私も生ビールを煽り、喉を鳴らす。1口目のビールと言うのはどうしてここまで美味いのだろうか。よく冷えた生ビールのクリーミーなのどごしを感じながら胃に落ちていくこの感覚は、三大欲求に匹敵する快楽だ。
「普段お酒は呑むの?」
「ええ、嗜む程度には。初めてビールを飲んだ時は、これ程不味い飲料などほかに無いと思っておりましたが、気付けば病みつきになってしまいましたね。疲れた時なんかはいい気付け薬ですよ。雪菜さんは?」
「私も嗜む程度、と言っても、月に1度か2度ほどね」
「へえ、大学のご学友とは飲まないんですか?」
「あんまり大人数で飲むのが好きじゃないのよ。お互いアルコールを免罪符に自制を働かせないし、自制を働かなくなった自分を他の人に見せたくないの」
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