第5話井田の旅立ち

 遂に、私にも旅立ちの時が来た。今まで一人暮らしをしたことのない私が、一人暮らしを飛び越えて、長い旅路に出るなどと、今までの私なら考えることもできないだろう。私は庭先に停めてある愛車を眺めながら、タバコに火をつけて、紫煙を吐き出し、長い旅路への出発に決意を固めようとしていた。思えばこのタバコともそれなりに長い付き合いともなる。吸い始めたのは確か中学生のころ、同級生の間で空前絶後の喫煙ブームが到来していた。理由のほどは定かではないが、恐らくは中学生特有の大人びた雰囲気に対するあこがれの様なものがあったのだろう。何せ、あの時は見るもの全てが珍しくて仕方なかった。それでいてなまじ小学生の時よりも思考力が働き、何でも分かった気になっていた時期でもあった。そんな中、タバコという本来禁忌の代表例ともいえる代物が手元に転がり込んできたとなれば、あれだけ大流行しても何ら不思議ではないのかもしれない。それに、タバコ一つであれだけ満足できる安上がりな時分だったのだから、あの時の私はタバコを吸っているだけで幸せだったに違いない。歳を重ねれば重ねるほど、欲望は複雑化の一歩を突き進み、ついには目の前の幸せに気づくことなく、欲望に振り回されるようになってしまうのだから。大人として成長しているはずが、欲望一つコントロールできなくなってしまうのだから、案外中学生の時の時分の時のほうがよほど大人だったのかもしれない。 


「そろそろ出発するのか?」


 玄関から顔を出して見送りにきた父に、私は無言で頷いた。すると父は、「持っていけ」とだけ言って、一枚の封筒を私に渡した。封筒の中を覗いてみると、十万円を超える大金が入っているではないか。


「父さん、これは?」


「餞別だ。母さんには話をつけてある」


 そういって父は、何事もなかったかのように私の隣に立ち、タバコを咥えた。昨日の夜、私がおいしく夕食にありつけたのはひとえに父のおかげだ。いきなり会社を辞めて出雲大社に旅に出るといいだしたことを、父は母に事前に説明し、なんとか説得してくれたのだ。この先、父に頭が上がることはもうないだろう。しばらくお互いタバコを吸うことに専念し、ついにタバコがフィルターだけになって、携帯灰皿に押し込むと、父が口を開いた。


「出雲大社か、本物の出雲大社は父さん見たことがないなあ。50を過ぎているというのに、日本国内の名所と呼べるような所に行ったことなんて、本当に数える程度しか言ったことがない。若いころは、いつか有給を取って日本中を見て回ってやるなんて意気込んでいたけど、いつも予定を立てれば仕事が邪魔をして、気づいたらスケジュールは仕事を中心に作るようになっていった。別に仕事が好きなわけじゃなければ、誰かに言われたわけでもないのに、自分の為にスケジュールを組むことがまるで悪いことのような気がして、結局この歳になってしまった。だから、お前の生き方は、ある意味父さんの若いころの目標のような生き方だ。出雲大社までの旅路で、お前が求めている答えが見つかることを、父さんは祈っているよ」


 にこやかに私の肩を叩く父に、私はただ、「うん」としか答えることができなかった。正直言って、部長や社長、そして有坂の否定的な意見ばかりを聞いてきたせいで、今回の旅路はそれだけ非常識で、常識的にあり得ないものなのだとずっと思っていた。しかしながら、父は私の旅路を否定するどころか、エールを送り、あまつさえ現金まで渡してくれたのだ。社会から逃れるための逃げ道を模索しようとしている、この情けない息子である私に対してだ。この父の愛に、私は報いることができるのだろうか。やはり私は、ただ逃げているだけなのだろうか。どちらにしても、私はもう引き返すことなどできない。


「じゃあ、そろそろいくよ」


「ああ、気をつけて行ってこい」


 手を振る父に、私も手を振り返しながら車に乗り、エンジンキーを捻った。わが愛車は急かすかのようにエンジンを起動させ、ギアをドライブに移動させた。そこから発進して家を出るまで、永久のようで一瞬のことだった。出雲大社に行くという目標以外は何も無い、明日起きるはずだったしがらみも、やりたくもない嫌なことも、顔を合わせたくないのに合わせなければいけなかった運命も、全てから解放され自由になったはずなのに、なぜだか自由になった気がしなかった。あれだけ自由を望んで過ごしてきたにも関わらず、まるでこの自由を望んでいないかのような、そんな微妙な心境だった。否、これこそが人生なのかもしれない。初めから私の人生は実は自由なもので、全て何かのせいにしていただけで、最終的には全て自分で決めていた事なのだ。自由に答えがないが故に、私は口には出せない不安になって、なし崩しに就職をしただけだ。そして、それも私には合わず、新たな道を探す事を選んだのだ。自由が幸福などとだれも口には出していないのに、勝手に信じ込んで、今、旅に出たのだ。ならば、この自由からは、逃げることは出来ないし、逃げるべきではない。最終的に、私の選択は間違いではなかったのだ。


 朝食がてら、近くのコンビニに車を停め、おにぎりとサンドイッチを購入し、フードスペースで腰を下ろしてグーグルマップを起動させた。私が住んでいる長野県長野市から出雲大社まで、高速を使ったとしても、最短距離で約八百キロ。高速道路を利用したことはあるが、これだけの長い距離を走るのは初めてだ。休まずに走り続けたとしても、一日はかかる。時間には余裕があるのだ。無理せず、休み休みゆっくり行くこととしよう。


 朝食を済ませると、用を足してコンビニの外に出てタバコをまた一服。その間、私の目先はスマートフォンに向けることはなく、道行く人々に目が行っていた。平日の午前九時の町の光景は、気怠く歩くスーツを着たサラリーマン、だらしなく制服を着こなす高校生、集団で道を塞ぐ土木作業員の方々が、所狭しと、それぞれに課せられた使命を果たすかのように、歩道を埋め付くしていた。そこをご苦労さんとも言わずに、クラウンやベンツが我が物顔で追い越し、排気ガスをまき散らす。なんとも居心地の悪い光景だ。これが日本各地で見ることができる、ごくありふれた日常のワンシーンだというのか。これが豊かな国? そんなに生き急いでどうなるというのか。いや、私がただ生き遅れているだけなのかもしれないな。


 タバコを灰皿に押し付け、私は車に乗ってエンジンを掛けて、寄り道もせずにそのまま長野料金所まで直進した。ETCがピッと電子音を鳴らせば、バーが開いてその先は高速道路だ。平日の高速道路は、田舎ということもあり、走っている車は私を除いて運送業者のトラックがほとんどで、なんとも気分がいい。まるでドイツのアウトバーンを走っているかのような心地になる。


 私は小さい頃から高速道路は好きだった。高速道路を走っている時、窓の外に映る景色は、例え地元の街だったとしても、全く違うものに見えたからだ。今、世界はこの車の中にしか存在せず、車の外は全くの異世界。自分とは交わることのない、ただ眺めることしか出来ない窓の外の世界が、確かに存在している。そこには人が住んでおり、各々の物語が存在していることは間違いないが、決して交わることはないのだ。そんな不思議な二つの世界が存在していることに、子供心ながら、感動とこの世の不思議を感じていたのを、今でも覚えており、そして今も感じている。この気持ちを、誰か理解出来る人はいるだろうか。


 走り続けて一時間ほど経つと、姨捨PAが見えてきた。山賊焼きを販売していることで有名な姨捨PAは、施設も充実しており、休憩するのに最適だ。私はウインカーを照らすと、吸い込まれるように姨捨PAに入り、駐車場に車を止めた。施設として充実しているためか、運送業者以外にも、乗用車が多く止まっており、休日のPAよりやや少ないくらいだ。その中には営業でここまで来ているサラリーマンもいれば、家族連れで来ているお父さんもいる。平日に家族サービスする余裕のあるお父さんがいるとは、以外に日本にもゆとりがある。


 まずはトイレに行き、用を足したら売店でエナジードリンクを買うと、喫煙所まで移動して、エナジードリンクをアテにタバコを吸う。これがなかなか気に入っている。会社にいた時も良くやっていた。タバコを吸うと必然的に喉が乾き、大体の人はコーヒーを飲むものだが、私はコーヒーとタバコのコンビがあまり好きではない。ただでさえ臭いタバコに、匂いの強いコーヒーを合わせたら、もう口内地獄絵図だ。それに比べ、エナジードリンクも匂いは強いが、タバコが力負けするので、タバコよりもマシなエナジードリンクが口内を支配し、何だか元気になった気がする。タバコを辞めればいいだけの話なのだが、私とタバコはもう7年もの付き合いのある旧知の仲だ。まだ別れるつもりはない。


 押し込むようにエナジードリンクを煽り、甘くなった口の中をタバコが落ち着かせ、紫煙を吐き出して、周りの景色に目を向ける。喫煙所から見える景色というのは、意外に面白いものがある。道端でただ立ち尽くして辺りの景色を見ようとすると、邪魔がられるものだが、喫煙所の場合そもそも嫌われている喫煙者が集まるところ故、人が群がってこない。故に、一歩距離を置いた状態で目の前の情景を楽しむことが出来るのだ。しかも、喫煙所によって見える景色が違うことも、評価の高い理由の一つだ。


 何も考えずただ景色を楽しんでいると、馬鹿でかい声で話しながら道を歩く5人組の若者が目に入った。歳は恐らく私と同じくらいだろう。皆派手な服装と髪型をしており、この平日に高速道路に乗っているところから、恐らく暇な大学生なのだろう。今こそ我が春と言わんばかりに、若さを享受するその姿は、目の前が見えていないようで少し心配になるが、同時に羨ましくなるような光景だ。


 だがその中で、相対的に面白く無さそうな顔をしている女性が一人いた。派手な金髪を腰まで伸ばし、ホットパンツにタイツという季節にそぐわない、見るだけで寒気を感じさせるその派手な格好は、周りを取り囲むほか4人の男達の派手な服装に、見事溶けきっていた。しかし、何がそんなに面白くないのか、男が話しかけない限り、ずっとつまらなそうに足元のアスファルトを眺め続けているのだ。勿体ない、他の男達のように、若さを享受していないではないか。私は溜息を吐いて、タバコを灰皿に押し潰した。私が不満を感じるのも、また筋違い故、これ以上彼らを見るのは辞めよう。


 私は手持ち無沙汰からまたタバコを咥え、周りを見ることなくスマートフォンを眺めた。このタバコを吸い終わったら出発しよう。そう考えていると、声がかかった。


「すいません、タバコをわけて頂いてもいいですか?」


 顔を上げてみると、そこには先程の金髪の女性が、こちらを真っ直ぐ見つめているではないか。






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