第3話井田の決断

 よもや、今日のように清々しい平日の朝を迎えられるとは、思ってもみなかった。平日の朝というのは、いつも気怠く、今日起こるであろう上司からの叱責と、有坂のくだらないマンガ談話に付き合わされ、特にやりがいもなければ、明日の自分に期待することもなく、ただ惰性に惰性を掛け合わせた毎日を繰り返すことに絶望と諦めを感じることすら忘れながら迎えるものだと信じてやまなかった。しかしどうだ。私はその毎日から脱却し、自分にあった人生を模索するという新たな選択肢を掴むという志を胸に秘めてからというもの、駐車場のコンクリートの上に背筋をまっすぐに伸ばして立っているではないか。今の私からは、始業前の気怠い雰囲気など微塵も感じることはないだろう。それはそうだ、これから私は、会社を辞めるのだから。


「どうしたんだ井田、いつもより元気そうじゃないか」


 困惑とした表情とその様子から、仕事中の私は余程やる気のない無気力な人間だという証明のような気がした。それもそうだろう、仕事中の私の行動理念は、如何に仕事を無意識に、かつ機械的に行動するかに重点を置いているのだから。だがしかし、今の私は違う。社会人としての常識だの、仕事に対する哲学だの、上司に対する言葉遣いだの人間関係などのしがらみから、自ら解き放たれようとしているのだ。これが活力的にならずにいられるわけが無い。正に、人間としてのあるべき姿であり、青年としての正しき姿なのだ。それに比べて、部長の枯れ木のような肉体と肌を見ると哀れみすら感じる。いつか私もああなるのだと考えると、やはり私はこの若いうちに、社会人というしがらみからの解放という選択は、アインシュタインの相対性理論並の快挙と言えるのではなかろうか。


「おはようございます、部長」


 礼儀を弁えた文化人のように、私は頭を深々と下げ、事務所に置いてあるタイムカードを切るために駐車場を後にした。


 礼儀一つにしても、やはり今の私には隙がない。と言うより、これだけ心に余裕がなければ、とても礼儀などに気配り出来ないだろう。考えでも見てほしい。明日食べる飯もないような者や、とにかく金に困った者が、老人が重そうに荷物を抱えて横断歩道を渡っていたとして、果たして老人の荷物運びを手伝う事など出来ようか。その老人並みの苦境に立たされているのに、その老人の苦労まで背負い込む体力など、もう残ってはいないはずだ。礼儀とは、心に余裕のある者のみに行うことの出来る、最高の嗜好品なのだ。


 事務所の扉を開け、タイムカードを着ると、横でパソコンと睨めっこをしている社長と目が合った。うちの会社は、社員が10名程しかいない小さな会社だ。故に、事務仕事は主に社長と社長の奥さんと1人の事務員さんの3人で行っている。だが、基本的に社長と顔を合わせることはなく、社長が普段何をやっているのかも解らない。言わば、レアキャラと言っても差し支えないのだ。故に、普段は特に話すこともなく、お互い挨拶をするだけなのだが、今日は違う。


「おはようございます、社長」


「おはよう」


「すみません、少々宜しいでしょうか」


「ああ、はいよ」


 社長の返事を合図に、私は胸ポケットから一枚の封筒を取り出し、こちらに顔を向けた社長は一瞬顔をぎょっとさせた。私のような社員でもいなくなると困ることがあるということなのだろうか、それともこれまでの私に払った給料の合計金額でも集計しているのかわからないが、私としては社長が何を言おうともこの決心を変えるつもりは微塵もない。朝の忙しい時に辞表は社長のキャパシティーの限界を超えるには十分だったのか、しばらく固まること数分、やっと次の言葉を発する準備が整ったのか、社長は絞り出すように口を開いた。


「………ちなみに、辞める理由は何?」


「はい、私が社会人に向いていないからです」


 ダン!


 机のフレームが曲がるのではないかと思うほどの音が鳴り響き、奥さんと事務員さんが何事かと顔を上げた。この会社に勤め始めて三年近くになるが、ここまで感情を露わにした社長は初めて見た。表情は特に変わりはないように見えるが、打ち付けた拳と頭がふるふると震えあがり、顔がどんどん赤くなっていく。そして次の瞬間、顔を上げたかと思うと、唾を飛ばしながら怒りの怒号が私を襲った。


「何だそのふざけた理由は、君はもう二十歳をすぎた成人だろうが! 社会人が向いてないから会社を辞めますなんて前代未聞だ! 第一、私は今まで君にいくら給料を支払ったと思っているんだ! 元も取り戻していないのに、辞めるなんてこっちは大損だよ! 君には一社会人としての責任感というものはないのか!」


「はい、ありません」


 毅然と返答した私に、社長の怒りの炎に更なる燃料が投下されたのか、鬼の形相に磨きがかかった。例え社長がどんなに怒り狂おうが、私には心の底から社会人の責任感などというものは存在しないのだ。これ以上言いようがない。そもそも、社会人としての責任感など皆無だということは、最初に社長から尋ねられた時に言ったはずなのだ。にも関わらず、同じような質問を投げかけてくるとは、社長に頭脳というものはあるのだろうか。いや、確かに社長の立場になれば私も社長のように怒り狂うかもしれない。社長自らではないにしろ、三年近く私に仕事を教え、何とか使えるようになってきたというのに、突然辞めますなどと言い始めるのだ。この会社は慈善事業でもなければ、賽の河原でもないのだ。人一人雇えば、人一人以上に儲けを稼がなければならない。その苦労を考えれば、社長の怒り心頭は最もだろう。


 しかしながら、私井田誠は、そんな社長の苦労など知ったことではない。何故なら、私は井田誠以外の何者でもなく、社長の人生の引き立て役の駒使いなどではないからだ。私一人分の元を取れないのは、社長に人を見る目がなかっただけであり、結果大損をしただけだ。仮想通貨が大暴落したからと言って、取引所に返金要求をするようなものだ、そんなもの通用するわけがない。


「大体、君一人が抜けたら、その穴埋めを一体だれがするんだ! 年老いた部長志藤一人に全部押し付けるつもりか! 最低でも、次の新人が入ってくるまでは辞めさせないからな!」


「社長、その新人とはいつ頃入る予定なのですか?」


「そんなもの君が気にする必要などない! 君は一日でも多くこの会社に貢献できるように精進しろ!」


 冗談じゃない。それでは先程まで続いていた問答は何のためだったのか、まるで解らないではないか。社長にとっては他愛のないただの問答かもしれないが、こちらからしたら二十代という貴重な時間を切り崩しての問答なのだ。その落差と言ったら月とすっぽん、石ころとダイヤモンド程ある。そのことを社長はどのように考えているのだと問い詰めたい処だが、その時間すら惜しい、これ以上話し合った所で会話に何の発展もないだろう。今日一日は働いて少しでも恩を返そうかと思っていたが、これでは一日ではすみそうにない。


「申し訳ありませんが、先ほども申し上げたように、私は根本的に社会人に向いておりません。従って次の新人が入ってくるまで、とてもこの会社に貢献する自信がないので、断らせていただきます」


「断るだと? 断るとか断らないとか、そんなことではない! 私は、社会人としての常識を…!」


「ですから、その社会人としての常識などが絶望的に向いていないので、私は会社を辞めさせていただきたいといっているのです。新人が入るまでとなると、最低でも来年の春まで待たなければいけないではないですか。とてもではありませんが、そんな先まで私はこの会社に貢献する自信はこれでもかというほどありません」


「君はどこまで人間として落ちぶれているんだ!」


「恐らく人間失格コンテストがあれば、最終予選まで残ることでしょう。さて、これ以上話し合っても恐らく平行線です。今月の給料の支払いは結構ですので、私はこの辺で失礼します」


 こうして、私は踵を返して先程車を停めた駐車場に向けて足を向けた。後ろから社長以外の声も加勢して聞こえるような気がしてくるが、そんなことは今の私には関係のないことだ。もう、この会社の社員として戻ることはこの先ない、保険証も使えなくなることだろうし、名刺もただの紙切れと化した。今、この瞬間、私は何物でもなくなったのだ。THE無職、THENEET、社会からの脱落者ドロップアウト、今の私を表すものは何とひどいものだろう。しかしなぜか、その響きは、私にとってはどこか輝かしいものに聞こえて仕方ない。やっと等身大の私の肩書がついたという解放感と、息苦しく全く向いていない社会人という肩書を、見事捨て去ることができたという達成感が、今の私の体のすべてを包み込んでいる。


「おい井田、さっきの怒鳴り声は何だ? 社長が今まで聞いたことのないような怒号で叫びまくっているぞ。お前何をやらかしたんだ?」


 私が事務所から出てくると、待ち構えていたかのように部長が顔を出した。部長の表情から、この後尻ぬぐいをしなければならないのではないのかという不安が滲みでた、人間らしい露骨な表情だ。


「ええ、大丈夫です。ちょっと社長が求めていた理想像と私が余りにもかけ離れていたようで、動揺しているのでしょう」


「はあ? 言ってる意味がまるでわからない。ちゃんと説明しろ、子供の言い訳じゃないんだぞ」


「わかりました。では詳しくいいますと、私はあまりにも社会人に向いていないので、今日限りで会社を辞めようとしたのですが、社長はその社会人に向いていないという理由が気に入らなかったらしく、次の新人が入ってくるまで会社を辞めるなと言われてしまいまして、それでは私の本懐が達成できないと、先ほどまで口論していた次第です」


「…は?」


 私の説明を聞いた部長は、まさに開いた口が閉じられないといった様子だ。私の主張はそんなに理解しにくい事柄だったろうか。私なりにわかりやすく、かつ短くまとめて説明したまでなのだが、部長の表情は固まったままだ。正直今後の準備もあるので、さっさと帰路につきたいのだが、部長の右にそれて歩きだそうとすると、何故か部長も右に移動し、なにか言いたそうに前を塞ぎ始めるのだ。これは迷惑極まりないので、即刻辞めてはいただけないものだろうか。


「……お前、社会人なめているだろ」


「いいえ、なめてなどおりません。故にこちらから社会人という肩書から身を引こうとしているのです」


「身を引くだと? いいか、社会人っていうのはな、なって当たり前なんだよ。飯を食ったり息を吐いたりするのと一緒だ。そんなものに向いているも向いていないもないんだ、誰もが社会人として生きていくんだよ。向いてないなんていうのは甘えだ」


「そうですか、では私は甘えに甘えて社会人を辞めさせていただきます。今までありがとうございました」





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