森村一族の矜持
範子は倒れ込む真央の躰を抱き止めた。
かつて身寄りのない範子を抱きしめてくれた人の躰は、まるで死人のように冷たくなっていた。
誰のせいか。私のせいだ。
範子は今すぐにでも謝罪したくなった。けれど、堪える。
「おかえりなさい」
「――ただいま、範子」
真央は荒い息をつきながらも、全てを分かっていたかのように、微笑んだ。
三年ぶりに交わした会話がこれか。
範子は、ふいに湧いてきた可笑しさに、つい吹き出してしまった。
「――ごめんなさい。もう少し、いい言葉を思いつけばよかったのだけれど」
「そんなの、気にしないでよ。それよりボクは、言いたかったことがあるんだ」
「何ですの?」
「あの日、扉を開けなくて、ごめん。ずっと言えなかった。怖かったんだ」
範子は無限に続いていそうな天井を仰いだ。なんて素直な人なのだろう。たったそれだけのことを、三年も抱え続けてくれていたのかと思う。
真面目で、泣き虫で、やせ我慢ばかりする『チャッカ』を救う言葉は――。
範子は、短くなってしまった真央の後ろ髪を、指先で梳いた。
「ごめんなさい。真央の髪、少し切ってしまいましたわ」
「別にいいよ。助けてくれたんだから。それより――」
真央は頬を赤らめて言った。
「あんまり大声で名前を呼ばれると、少し照れるよね」
「偶然ですわ。 あなたの名前と、音の詠唱が、同じだっただけでしてよ」
範子は微笑を浮かべ、真央を抱き起こした。両腕に感じる重みと、温かさ。
ただそれだけ。それだけのことで、救われたと感じる。互いに、ずっと抱えてきた何かを、手放せたのだ。
しかし、感傷に浸る暇はなかった。
「チャッカ姐さん! ユーズーが逃げる!」
スータリの悲鳴があった。
範子は弾かれたように振り向き、紫色に輝く瞳で見据えた。
いつの間にかプーレーヌに履き替えたユーズーが、サイハイブーツを抱えて、扉に向かって駆け出していた。
「ユーズー! 往生際が悪いですわよ!?」
言いつつ、範子は真央に目を滑らせた。
真央は小さな頷きで返した。
範子は真央の躰をそっと手放し、痛む喉を震わせた。
「ユーズー! 逃げられるとお思いですの!?」
「そうじゃなきゃ、逃げるわけがないでショ!?」
言って、扉を開き、
固まった。
「……ボウヤ……いったい、何をして……」
*
――。
範子が魔女の家に向かってすぐ、巧は次の作業に取り掛かっていた。
工房の作業机を移動し、ふたつの扉を見通せる位置に椅子を置き、見張ることだ。
巧は魔女の家で渡された模造靴のペニーローファーを並べて、ユーズーを待ち伏せようと思っていた。
もちろん、支配の術によって人質にされる可能性があるのは承知している。
しかし、巧は範子の話を参考にして、ある仮説を立てていた。
まず、ユーズーが模造靴を追うには、家長の証たるプーレーヌを履く必要がある。
次に、支配の術を使うためには、サイハイブーツを履いている必要がある。
そして、支配の術を誰かにかけるのなら、相手が管理下にある靴を履いていなければならない。
つまり、ユーズーが扉を開いて現れた時には、プーレーヌを履いているはずだ。また、たとえ模造靴を履いていたとしても、支配の術は使えないのである。
それに、教会で見たように、巧が放つ魔女の蹴りであっても、十分に効果がある。
巧の蹴りでも通用すると分かっているなら、
「絶対に蹴っ飛ばしてやっからな……」
一発くらいは蹴りを入れてやらなきゃ、我慢がならない。
敬愛する祖父を脅迫し、魔女の家に集まっていた全ての魔女を騙し、あまつさえ操り悪魔へと堕ちるまで追い込んだ魔女だ。
遠慮はいらない。
巧は、教会で範子の手を借りて刻んだステップを思い返した。
範子の手を通し、自らの血で感じたそれを、手繰り寄せる。範子は、初学者向けのやり方だと称していた。言い換えれば、あのとき自ら踏んだ詠唱は、才能と道具さえそろっていれば、誰にでもできる行為なのだ。
巧は、素足のまま何度もシミュレーションを繰り返し、そのときを待った。
ガン、と扉が叩かれる音が聞こえた。
その瞬間、巧は靴に足を通した。足裏を通じて冷気を感じる。まるで冷や水が体表を昇ってくるような、およそ普通の靴では得られない感覚だ。
しかし、感覚とは裏腹に、巧は躰の芯に熱が籠るのを感じていた。
相手は敬愛する祖父を苦しめた裏切者の魔女だ。そして魔女が履く靴は、祖父が無理矢理に作らされた、壊さなくてはならない、禁制靴である。
開く扉。汗まみれのユーズーが、目を見開いていた。
「……ボウヤ……いったい、何をして……」
ぼんやりと呟かれた言葉を受けて、巧は薄く笑っていた。
巧の術は、すでに半ば詠唱が終わっていたのだ。
「俺の工房に、足を踏み入れるんじゃねぇ!!」
その蹴りは、不慣れな一撃だった。
範子や真央に比べれば、貧弱とすらいえる。
しかし、裏切りの魔女に翻弄されてきた全ての人々の怒りを背負っていた。
至極単純な術は、完全に、正しく、発動した。
喚びだされた靴の踵が、ユーズーの躰を打つ。不可視の垣根の向こうへ吹き飛ばされていくその躰越しに、巧みは人影を見た。範子だ。目を丸くしていた。傍らには真央の姿もある。二人の顔が、微笑みに変わっていく。
そして、扉が閉まった。
*
範子は、大の字になって倒れるユーズーを見下ろした。
「残念でしたわね、ユーズー。巧さまは、天性の魔女でしてよ?」
魔女は罠を用意する。そんな話は巧にしていない。
でも彼は、誰よりも魔女らしく、自らの力を見せつけたのだ。
範子は傍の真央に目配せした。
「えっと……」
一瞬きょとんとした真央だったが、すぐに澄まし顔を取り戻す。
「うん。ボクもそう思う。だって、何も知らないのに、その靴を作ったんだから」
真央は範子の肩を借りて、ユーズーの前まで歩いた。右足の靴は失われている。靴は両足そろって一足で、片方だけでは魔法を使うことはできない。
しかし――、
真央は小さく首を振り、範子の顔を横目で見た。
「こういう時、ボクが何て言うのか、覚えてるよね?」
「私、あのセリフは野蛮で、嫌いですわ。巧さまの信条とも合いませんし」
「ふぅん……でもボクは、いつもそう言ってきた。多分、これからもね」
言いつつ、真央はユーズーを見下ろし、凶暴な笑みを見せた。
「ま、まって、私のことを助けてくれれば――」
ユーズーは命乞いをするかのように、跪いて懇願し始めた。
誰が聞くと言うのか。真央はもちろん、龍鳴範子は聞きはしない。なにより、森村巧は、絶対にそんな取引に応じない。
真央は範子と顔を見合わせ、声を揃えた。
「蹴り殺してやる」「蹴り飛ばしてやりますわ」
ユーズーの顔が歪む。
間を置かず、
大広間に打音が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます